2013年2月15日金曜日

“連結”


 乗客のお喋りの陽気さ、騒々しさに驚いた。本を閉じ、車窓の奥に広がる雪野を眺めつつ耳をそばだてれば、何のことはない芸能人の誰それに惹かれる、いや、あちらが好い、最低でもあれぐらいの容姿でないと駄目だとかなんとか、そんな他愛もない話に興じている。ついた手毬のように無闇に弾んで止まないのは彼らばかりでなく、車内のいたるところがざわめいて実にかまびすしい。


  昨年の春はこうではなかった。同じ路線、同じ特急列車で混み方も似ていたが、誰もがいちように硬い面差しだった。口を開いても言葉を端折(はしょ)り、やりかけの思案にさっさと立ち戻るようだった。声高に話す集団はその時もおり、卒業記念の旅行だろうか後ろの扉近くに若い男女の一群があった。世間話に打ち興ずるあまり、時折黄色い声を立てて笑っていたが、かなり離れて座る年輩の客から突如烈しい叱声が飛んだのだった。黙れ、おまえたち、うるさい──若者たちは蛙のような、くぐもった声を二つ三つ交わした後に緘黙(かんもく)している。

  剣呑な気配がさっと車内を渦巻いた、けれど、あっさりと霧散して、むしろ誰の身にも温かく馴染んだように感じられた。男の声の調子に深刻さがにじみ、あの時、あの寒かった春の日に、何らかの荷物を背負ったことが容易に想像されたからだろう。膨大な数の生命が失われ、幾千幾万もの住まいが奪われた現実を前にして、私たち偶然に参集して同じ客車で旅する者たちは、それぞれ別の事情と危惧を抱えながらもお互いを深く気遣うところがあった。蛇行する宿命に身をゆだねながら、同じ振幅でゆらゆらと揺れていた。


  そして今、騒々しさをぐんと増した客席にまぎれて、さまざまな想いが湧いて出る。苦難を乗り越えた人、幸せな人が増えた証しとも言えるから、それはそれで結構なこと、喜ばしいことと受け取らねば罰が当たるのかもしれないが、歳月の経ることの怖さを感じないわけにはいかない。打ちひしがれ息あえぐ人、幸せとはひどく距離を置く人が同じ車中に乗り合わせていないと断じ得るほど、この度の惨禍は生ぬるいものではなかろう。目に見えぬ“深慮”と“無遠慮”とが乗客の頭上で烈しい陣地争いを行なっている。戦況は明らかで、“無関心”や“無理解”が幅を利かし優勢に立って思える。人がひとを想うこと、相手のこころや身体の痛みに寄り添い、こころを巡らし続けていくことの困難を噛み締めた。


  石井隆の【魔樂】(1986)は暴力に侵蝕された物語であった。傷つける側(野上という男)は傷つけられる側(おんなたち)を冷ややかに見下ろし、その挙げ句に一切合財を破壊することに微塵も躊躇しない。拉致と監禁、殺害に尋常ならざる熱情を傾けていく【魔樂】の語り口に読むひとの多くは呆然とし、この野上という人間を理解不能のまま眺めやった。壊れた人間、気の触れた男と捉え、自己とはひどく違った怪物と解したが、こうして時を経て読み返してみた私はその辺りの判別がどうも怪しくなっている。列車の最後尾に野上を追い立て、押し込め、がちゃんと連結を外して凍原(とうげん)へと捨て置くような、そんな割り切り方が難しくなっている。

  人を傷つけたいとか、乱暴したいという邪(よこしま)な性夢がわたしの胸に潜み、そっと舌なめずりしながら蠢いているというのではなくって、【魔樂】という物語は、いや、石井隆の劇の根幹にあるのは“わたしたち” 自身の写し絵と見るからだ。人とひととの間の“距離”の問題と、人とひととの相互“理解”の断層が常に描かれており、両者の長短なり干満なり温度差が巧みに操られて対流を起こし、さまざまな紋様を描き出している。そこに“記憶”と“忘却”といった時間軸の乱れが加勢し、風を起こして物語の波高(はこう)をさらに険しくしている。

  野上という男はビデオカメラで行為の一部始終を記録するのだったが、おんなの肌に埋もれた小箱を探そうとしないし、見つけることも出来ない。鍵のかかった自宅の書斎に独りこもっては過去の記録に耽楽していくのだが、事もあろうに演出がどうとかアングルがどうとか、外面(そとづら)について独り言(ご)つばかりであって、被害に遭った者たちの内奥(ないおう)には意識を馳せることがないのだ。おんなの胸奥の洞窟に収められた、生誕からこれまでに彼女に注がれた愛情の堆積と涙の結晶をまるで重んじることなく、個性の抜け落ちた外貌のみに執着し、また、他者としてぞんざいに見下していく。無表情のまま弄んで、やがてはどこか暗い場処へと排除していく。


  見つめるモニターには他者の不幸が累累(るいるい)と映し出され、スイッチをひねれば消えてしまうし、忘れても一向に構わないと思っている。【魔樂】に描かれたこの野上の、魂のものおそろしい触感は私たち自身のこころの機能と限界とに連結している。嘆息してはうな垂れる“傷つけられた者”の存在を気に留めず、その面前で怪物と化し、臆面もなく哄笑しかねないのが私たちの本質ではないか。人間の儚い記憶力と忘却の凄まじさ、押しのけ難い無関心の肉厚が、朱に染まった膨大なコマとなって示されている。

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