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2013年3月23日土曜日

“定義”



  石井隆の【魔奴】(1978)、【黒の天使】(1981)、【夜が冷たい】(1985)、【魔樂】(1986)、【眠れない夜のあなたに】(1987)といった劇画作品や一部映像作品には、男性器や性具をこえた鋭利なもの、硬いものが突如として襲いかかる凄絶この上ない景色が描かれている。人目をはばかる描写に若い頃のわたしは慌ておののき、これを家人なり知人に見られては誤解される、一巻の終わりではないかと本棚の前で大いにうろたえた事だった。戸棚をごっそりと引き抜いた後に覗き見える背板との狭い隙間、地下空間めいた棚の底面といった日の差さぬ暗がりに急遽隠したのだったが、けれど正直言って、その行為にこそ何か後ろめたい気持ちを強く持ったのが本当のところである。

  石井の作品を背徳に満たされたもの、狂人の戯言、忌避すべき悪書と捉えることは毛頭なかったからだ。強引に衣服を剥ぎ取った上で人体を拘束し、傷付け、刺し貫いて死に至らしめる酷烈な描写が連綿とかき連ねてはあるが、そこには傷付けられ、貫かれることの不快さと怯え、苦痛が強く寄り添って離れなかった。石井隆の作風を称して世間が(また、インタビュウにおいて石井自らがなかば捨て鉢に)使うカタカナの卑俗な形容とは隔絶した、揺らぐことのない地平を石井の物語に感じていた。上手く言い表わす自信がないから苦しまぎれに隠しもしたが、作者の倫理観に対して絶対的な信頼を置くところがあったのだ。

 先日、精神と肉体を粉砕せしむ現実世界の性暴力に関して、もう少し実態に則した知識を得たくて図書館まで足を運び、幾冊かと向き合う時間をもった。その中に興味引かれる記述があった。アメリカの弁護士で法律学者でもあるキャサリン・マッキノンCatharine MacKinnonが1984年に起草した規制条例に関する内容である。(*1)

  マッキノンは「ポルノとは“映像や言葉を通じて女性を従属させるような性的にあからさまな素材”である」と捉え、性犯罪、性暴力を助長するポルノを社会から根絶することが悲劇を減殺(げんさい)する近道と考えた。その見地からインディアナポリス市の条例(*2)を起草したのだった。根絶すべき“ポルノ”とはいかなるものか、彼女なりに定義したのが次の6つの条件である。

①、女性が苦痛や屈辱を楽しんでいる性的対象物として表現されている。
②、女性が強姦されることで性的快楽を味わっている性的対象物として表現されている。
③、女性が縛りあげられ、切り刻まれ、切断され、青あざを作られ、肉体的に傷つけられ、あるいは、手足をもぎ取られ、頭部を切り取られ、肉片にされ、身体の部分に切り離される性的対象物として表現されている。
④、女性が物や動物で貫かれているものとして表現されている。
⑤、女性が侮辱され、傷つけられ、低級なものとされ、拷問される筋書きの中で、みだらなものとして、卑しいものとして、血を流しているものとして、あるいは青あざだらけのものとして描かれ、あるいは、これらのことをセクシーにする文脈のなかで傷つけられるものとして表現されている。
⑥、女性が支配され、征服され、侵害され、略奪され、所有され、利用されるための性的対象物として表現され、あるいは奴隷状態や従属状態におかれ陳列される物として表現されている。(なお、これらの条件は女性のみならず、男性にも子どもにも同じ状態があれば適用される。)

 石井隆の作画には③、④、⑤、⑥に該当する箇所があるから“ポルノ”ということになってしまうのであり、彼女の目線にたてば自然と規制の対象ともなって世間から締め出されてしまうのだろう。しかし、読んでいてどうしても腑に落ちない。石井世界を“ポルノ”と呼ぶことには抵抗を覚えてしまう。マッキノンの条項を一部流用し、石井世界の実状にあわせて改めればこんな具合だろうか。

①、性的対象物として表現されるが、そのことに女性が苦痛や屈辱を感じている。
②、女性が強姦される性的対象物として表現されているが、そこで性的快楽を味わえない。
③、女性が傷付けられ、物で貫かれていることに理不尽、哀憫、憤怒を見い出している。
⑤、侮辱され、傷つけられ、低級なものとされ、拷問される文脈のなかで蠱惑的な姿態を女性が見せるとき、それは危機を回避する緊急避難策として立ち上がっている。
⑥、女性が支配、征服、侵害、略奪、所有、利用されるための性的対象物、あるいは奴隷状態や従属状態におかれ陳列される物からの離脱や闘争を描いていく。

  これが石井世界の一貫した流れとなっている。裸体の乱舞する舞台だけれども、そこから立ち上がる面差しはやや異なる光を放つように思う。快楽とは数歩距離があって、日本において地にまみれた感のある“ポルノ”や“エロ”とは当然ながら立ち位置がずれている。暴力の荒野からの救済にこそ力点が置かれ、男の抱え込む情動に対してやり切れぬ思いが重たい霧のように漂っている。(書棚の奥に仕舞っておくべき類いのものとは性格が異なっているのであって、むしろ大いに読まれてしかるべき、観てしかるべき作品も含まれると思う。)



  劇画家から映画監督に転進し年数を重ねた石井であるが、スクリーンに向かっていると、きついだろう、と思える一瞬が間間ある。嚥下し得ない異物を呑み下すようで、苦しくどうにもやり切れない、そんな厳しい時間である。きついのは私たち観客も確かにそうではあるのだけれど、それ以上にメガホンをとっている石井隆が内心どうだろうかと慮ってしまう。

  映画『夜がまた来る』(1994)の中に暴力組織に潜入した刑事(根津甚八)が出てくるが、わたしは石井の作劇全般に対してあの村木という男の傷ましい背中を想起してしまう。殲滅をもくろみ虎穴に踏み入るが、さらに中枢に溶け込んでいくために背中一面に刺青(しせい)を入れねばならなかった生真面目な男の後ろ姿である。“女性の救済”を描く上で、作劇上どうしても不可避な“受難の景色”を自らの手で産み落とす必要に迫られる石井の立場、作風というのは、どこか注射針を腕に突き立て、ときに殺人にすら手を染めていく、そんな村木の修羅と重ならないものだろうか。

 
(*1):「性差別と暴力 続・性の法律学」角田由紀子 ゆうひかく選書 2001 ポルノへの法的対応への試案 152-154頁
(*2):後日、出版社や書店が条例は憲法違反であると訴えを起こし、連邦最高裁判所もその判断を支持した。このために条例は、実際の施行には至らなかったようだ。

2013年2月15日金曜日

“連結”


 乗客のお喋りの陽気さ、騒々しさに驚いた。本を閉じ、車窓の奥に広がる雪野を眺めつつ耳をそばだてれば、何のことはない芸能人の誰それに惹かれる、いや、あちらが好い、最低でもあれぐらいの容姿でないと駄目だとかなんとか、そんな他愛もない話に興じている。ついた手毬のように無闇に弾んで止まないのは彼らばかりでなく、車内のいたるところがざわめいて実にかまびすしい。


  昨年の春はこうではなかった。同じ路線、同じ特急列車で混み方も似ていたが、誰もがいちように硬い面差しだった。口を開いても言葉を端折(はしょ)り、やりかけの思案にさっさと立ち戻るようだった。声高に話す集団はその時もおり、卒業記念の旅行だろうか後ろの扉近くに若い男女の一群があった。世間話に打ち興ずるあまり、時折黄色い声を立てて笑っていたが、かなり離れて座る年輩の客から突如烈しい叱声が飛んだのだった。黙れ、おまえたち、うるさい──若者たちは蛙のような、くぐもった声を二つ三つ交わした後に緘黙(かんもく)している。

  剣呑な気配がさっと車内を渦巻いた、けれど、あっさりと霧散して、むしろ誰の身にも温かく馴染んだように感じられた。男の声の調子に深刻さがにじみ、あの時、あの寒かった春の日に、何らかの荷物を背負ったことが容易に想像されたからだろう。膨大な数の生命が失われ、幾千幾万もの住まいが奪われた現実を前にして、私たち偶然に参集して同じ客車で旅する者たちは、それぞれ別の事情と危惧を抱えながらもお互いを深く気遣うところがあった。蛇行する宿命に身をゆだねながら、同じ振幅でゆらゆらと揺れていた。


  そして今、騒々しさをぐんと増した客席にまぎれて、さまざまな想いが湧いて出る。苦難を乗り越えた人、幸せな人が増えた証しとも言えるから、それはそれで結構なこと、喜ばしいことと受け取らねば罰が当たるのかもしれないが、歳月の経ることの怖さを感じないわけにはいかない。打ちひしがれ息あえぐ人、幸せとはひどく距離を置く人が同じ車中に乗り合わせていないと断じ得るほど、この度の惨禍は生ぬるいものではなかろう。目に見えぬ“深慮”と“無遠慮”とが乗客の頭上で烈しい陣地争いを行なっている。戦況は明らかで、“無関心”や“無理解”が幅を利かし優勢に立って思える。人がひとを想うこと、相手のこころや身体の痛みに寄り添い、こころを巡らし続けていくことの困難を噛み締めた。


  石井隆の【魔樂】(1986)は暴力に侵蝕された物語であった。傷つける側(野上という男)は傷つけられる側(おんなたち)を冷ややかに見下ろし、その挙げ句に一切合財を破壊することに微塵も躊躇しない。拉致と監禁、殺害に尋常ならざる熱情を傾けていく【魔樂】の語り口に読むひとの多くは呆然とし、この野上という人間を理解不能のまま眺めやった。壊れた人間、気の触れた男と捉え、自己とはひどく違った怪物と解したが、こうして時を経て読み返してみた私はその辺りの判別がどうも怪しくなっている。列車の最後尾に野上を追い立て、押し込め、がちゃんと連結を外して凍原(とうげん)へと捨て置くような、そんな割り切り方が難しくなっている。

  人を傷つけたいとか、乱暴したいという邪(よこしま)な性夢がわたしの胸に潜み、そっと舌なめずりしながら蠢いているというのではなくって、【魔樂】という物語は、いや、石井隆の劇の根幹にあるのは“わたしたち” 自身の写し絵と見るからだ。人とひととの間の“距離”の問題と、人とひととの相互“理解”の断層が常に描かれており、両者の長短なり干満なり温度差が巧みに操られて対流を起こし、さまざまな紋様を描き出している。そこに“記憶”と“忘却”といった時間軸の乱れが加勢し、風を起こして物語の波高(はこう)をさらに険しくしている。

  野上という男はビデオカメラで行為の一部始終を記録するのだったが、おんなの肌に埋もれた小箱を探そうとしないし、見つけることも出来ない。鍵のかかった自宅の書斎に独りこもっては過去の記録に耽楽していくのだが、事もあろうに演出がどうとかアングルがどうとか、外面(そとづら)について独り言(ご)つばかりであって、被害に遭った者たちの内奥(ないおう)には意識を馳せることがないのだ。おんなの胸奥の洞窟に収められた、生誕からこれまでに彼女に注がれた愛情の堆積と涙の結晶をまるで重んじることなく、個性の抜け落ちた外貌のみに執着し、また、他者としてぞんざいに見下していく。無表情のまま弄んで、やがてはどこか暗い場処へと排除していく。


  見つめるモニターには他者の不幸が累累(るいるい)と映し出され、スイッチをひねれば消えてしまうし、忘れても一向に構わないと思っている。【魔樂】に描かれたこの野上の、魂のものおそろしい触感は私たち自身のこころの機能と限界とに連結している。嘆息してはうな垂れる“傷つけられた者”の存在を気に留めず、その面前で怪物と化し、臆面もなく哄笑しかねないのが私たちの本質ではないか。人間の儚い記憶力と忘却の凄まじさ、押しのけ難い無関心の肉厚が、朱に染まった膨大なコマとなって示されている。

2013年2月11日月曜日

“寺院”



 不忍池のベンチにてしばし憩い、ユリカモメの群れなして飛翔するのを目で追いながら公園を歩いた。都美術館で開催されていたエル‐グレコ El Grecoが目的ではあったのだが、さらに足を伸ばして以前から気にしていた場処へと向かう。赤いレンガ壁の東京藝術大学や、安藤忠雄の手が加わって再生なった旧帝国図書館から歩いて間もないところに、もっさりと乾いた面持ちでその小さな寺院は直ぐに見つかった。

 地盤はやや低くなっており、四方を囲むアスファルト道路や年数の経た民家に調度抱きかかえられるかのような風情である。石段をいくつか踏んで降り立った境内にはひとの姿はなく、鳥さえ鳴かず、休日のせいか車通りも少なくって、時折電車の通過する音だけがかすかに蒼い空を渡ってくる。なんとはなしに淋しい。ひとり歩きの遣る瀬なさは増すばかりなれど、その分ためらいなく時間を費やし、懸命に景色を愛でた。やんわりと時間が静止しかかったような、いささか茫洋として目に映るこの境内を、石井隆は自身の劇画作品の背景に以前使用していた。


 劇画のトーンはすこぶる暗いものだった。黒く塗り固められた闇の底に縛られたおんなの真白き肌がぽつねんと配置され、薄墨色に置き換えられた鮮血がそれを切り裂くように縦断しては勢いよく天井までしぶいた。天の川のようにまだらに拡がってはさわさわと紙面を覆っていった。これでもか、どうだこれで、まだまだ、と陰惨で残虐な描写が連なっていき、何か危ないものに描き手は憑かれたのじゃないかしらんと訝(いぶか)ってしまう、そんな針の振れ切った物語であった。人がひとを殺めるその酷薄な一瞬のみをあげつらう者が、だから、どうしても多くなった。いや、そもそも読み手のほとんどは息を潜めて怖々と覗(うかが)うのがやっとであって、素直に読んだこと、感じたことを公けにしていく次の行動自体が稀(まれ)だった。大概は口つぐみ、目を伏せたままとなり、記憶の底にゆるゆると潜行するままに仕舞い置かれた。

 だから、【魔樂】(1986)という作品は世に知られたような知られないような、奇妙な立ち位置にいつまでも在る。作家、石井隆を語るときですら辺境に排され、どうしても解釈を迂回される傾向が強い作品であって、その物語の中盤に挿入された場面とほほ同じ景色がいま、わたしの目の前に出現して広がっていることの感懐をあれこれと綴ることの真意が、果たしてどれだけ伝わるものかもはなはだ不安だ。(上手く届くといいのだけど──)


 劇中どのような場景であったかと言えば、巻頭から巻末まで徹底して殺人を繰り返す主人公の男“野上”の、もはや彼の人生にとって表側なのか裏側なのか判然としない妻と娘とで坦々と過ごす日常の、とある休日の点描なのであった。節分も間近となった小雪まじりの晩冬である。今年はしなかった初詣の真似事だけでもやっておくかと思い立ち、親子連れ立って神社に向かったのだったが、参拝を終えた帰り道で突如一陣の風がヒューッと吹き抜けて、男だけが別の場処へと意識が跳んでしまうのだった。

 連れて行かれたのは無数の地蔵像が並んだ場処であるのだが、その菩薩の群れがみるみる男の前で変幻していき、これまで自らの手で殺めてきた無数のおんなたちの面影となって迫るのだった。嗚咽し、悲鳴をあげ、命乞いする哀れなおんなたちの姿を眼前として男はひどく仰天し、冷や汗をたらし、思わず両手で顔を覆ってしまう。娘の呼ぶ声に正気(なのか狂気なのか、それももはや判然としない様子であるのだが)を取り戻した男はにこやかに家族に声を返し、参道をなにごとも無かったようにして後にする。(*1)


 殺めたおんなが人ならぬ姿と化して殺人鬼の前に顕現することは、物語世界ではごく当たり前の展開である。たとえば民谷伊右衛門の前には岩が、間久部緑郎の前に岩根山ルリ子(*2)が、愛憎両面を宿した情念の存在となって出現したが、これと似たことが石井の劇でも起きた、ということに過ぎないだろう。

 しかし、実際にこうして自ら悪夢の舞台に降り立ってみると、男を襲った衝撃の広さや大きさがよく分かると共に、上にあげた作劇空間で散見される“彷徨(さまよ)う魂”とはやや性質の異なる事態を石井は我々に提示していることに気付かされる。この境内に等身大のおんなたちがぞろぞろと立ち現われ、あちらこちらに佇んでも良かったのだし、男の勤める会社や自宅のなかをそれら霊魂が風のように行き来しても同等の衝撃を野上という男に、そして私たち読者に与えることは十分に出来たであろう。

 そのような彷徨い方でなく、石仏のひとつひとつにプロジェクションマッピングか特殊造形を仕込むようにして哀れな犠牲者を浮き彫りにしていく石井の思惑とは何か。“風景そのもの”が私たち人間の思念や情念によって大きく歪み、膨らみ、彩りや手触りをまるで変えていくという(石井ならではの)筆運びに他ならない。容易に水溶しては液体に馴染んでいく成分が飽和状態をわずかに超えた途端に、一気にじゃりじゃり、ざくざくに結晶してしまうように、性愛なり恋慕といった荒ぶる魂の領域に身をひたし続けた末に、一線をついに越えてしまい、魂の跳ね跳び瓦解して世界をひどく変容させていく、その一瞬がこの境内を借りて起きている。


 本来はのどかな、さわやかな景色なのである。寺の縁起を立て札に読めば、地蔵のひとつひとつは家族や自身の健康、ささやかな願いの成就なるのを祈って寄進されたとあり、内省的で細やかな感覚をそなえた若い恋人たちが寄り添い、手をつなぎ、愛や運命の不思議や奇蹟を語り合うにふさわしい場処なのだ。その穏やかな風景をあえてどろどろと溶融させてみせた石井の、臨界を越える危険を冒してまでも魂にすり寄っていく容赦ない語り口に対し、粟立つような、ほんの少しだけ泣いてみたいような心もちで門を潜り、近くの駅までの道を歩いた。


(*1):第4章「悪魔のしずく」 初出「漫画さくら組」1987年2月28日増刊号
(*2):手塚治虫 【バンパイヤ】 1966-69