2013年2月11日月曜日

“寺院”



 不忍池のベンチにてしばし憩い、ユリカモメの群れなして飛翔するのを目で追いながら公園を歩いた。都美術館で開催されていたエル‐グレコ El Grecoが目的ではあったのだが、さらに足を伸ばして以前から気にしていた場処へと向かう。赤いレンガ壁の東京藝術大学や、安藤忠雄の手が加わって再生なった旧帝国図書館から歩いて間もないところに、もっさりと乾いた面持ちでその小さな寺院は直ぐに見つかった。

 地盤はやや低くなっており、四方を囲むアスファルト道路や年数の経た民家に調度抱きかかえられるかのような風情である。石段をいくつか踏んで降り立った境内にはひとの姿はなく、鳥さえ鳴かず、休日のせいか車通りも少なくって、時折電車の通過する音だけがかすかに蒼い空を渡ってくる。なんとはなしに淋しい。ひとり歩きの遣る瀬なさは増すばかりなれど、その分ためらいなく時間を費やし、懸命に景色を愛でた。やんわりと時間が静止しかかったような、いささか茫洋として目に映るこの境内を、石井隆は自身の劇画作品の背景に以前使用していた。


 劇画のトーンはすこぶる暗いものだった。黒く塗り固められた闇の底に縛られたおんなの真白き肌がぽつねんと配置され、薄墨色に置き換えられた鮮血がそれを切り裂くように縦断しては勢いよく天井までしぶいた。天の川のようにまだらに拡がってはさわさわと紙面を覆っていった。これでもか、どうだこれで、まだまだ、と陰惨で残虐な描写が連なっていき、何か危ないものに描き手は憑かれたのじゃないかしらんと訝(いぶか)ってしまう、そんな針の振れ切った物語であった。人がひとを殺めるその酷薄な一瞬のみをあげつらう者が、だから、どうしても多くなった。いや、そもそも読み手のほとんどは息を潜めて怖々と覗(うかが)うのがやっとであって、素直に読んだこと、感じたことを公けにしていく次の行動自体が稀(まれ)だった。大概は口つぐみ、目を伏せたままとなり、記憶の底にゆるゆると潜行するままに仕舞い置かれた。

 だから、【魔樂】(1986)という作品は世に知られたような知られないような、奇妙な立ち位置にいつまでも在る。作家、石井隆を語るときですら辺境に排され、どうしても解釈を迂回される傾向が強い作品であって、その物語の中盤に挿入された場面とほほ同じ景色がいま、わたしの目の前に出現して広がっていることの感懐をあれこれと綴ることの真意が、果たしてどれだけ伝わるものかもはなはだ不安だ。(上手く届くといいのだけど──)


 劇中どのような場景であったかと言えば、巻頭から巻末まで徹底して殺人を繰り返す主人公の男“野上”の、もはや彼の人生にとって表側なのか裏側なのか判然としない妻と娘とで坦々と過ごす日常の、とある休日の点描なのであった。節分も間近となった小雪まじりの晩冬である。今年はしなかった初詣の真似事だけでもやっておくかと思い立ち、親子連れ立って神社に向かったのだったが、参拝を終えた帰り道で突如一陣の風がヒューッと吹き抜けて、男だけが別の場処へと意識が跳んでしまうのだった。

 連れて行かれたのは無数の地蔵像が並んだ場処であるのだが、その菩薩の群れがみるみる男の前で変幻していき、これまで自らの手で殺めてきた無数のおんなたちの面影となって迫るのだった。嗚咽し、悲鳴をあげ、命乞いする哀れなおんなたちの姿を眼前として男はひどく仰天し、冷や汗をたらし、思わず両手で顔を覆ってしまう。娘の呼ぶ声に正気(なのか狂気なのか、それももはや判然としない様子であるのだが)を取り戻した男はにこやかに家族に声を返し、参道をなにごとも無かったようにして後にする。(*1)


 殺めたおんなが人ならぬ姿と化して殺人鬼の前に顕現することは、物語世界ではごく当たり前の展開である。たとえば民谷伊右衛門の前には岩が、間久部緑郎の前に岩根山ルリ子(*2)が、愛憎両面を宿した情念の存在となって出現したが、これと似たことが石井の劇でも起きた、ということに過ぎないだろう。

 しかし、実際にこうして自ら悪夢の舞台に降り立ってみると、男を襲った衝撃の広さや大きさがよく分かると共に、上にあげた作劇空間で散見される“彷徨(さまよ)う魂”とはやや性質の異なる事態を石井は我々に提示していることに気付かされる。この境内に等身大のおんなたちがぞろぞろと立ち現われ、あちらこちらに佇んでも良かったのだし、男の勤める会社や自宅のなかをそれら霊魂が風のように行き来しても同等の衝撃を野上という男に、そして私たち読者に与えることは十分に出来たであろう。

 そのような彷徨い方でなく、石仏のひとつひとつにプロジェクションマッピングか特殊造形を仕込むようにして哀れな犠牲者を浮き彫りにしていく石井の思惑とは何か。“風景そのもの”が私たち人間の思念や情念によって大きく歪み、膨らみ、彩りや手触りをまるで変えていくという(石井ならではの)筆運びに他ならない。容易に水溶しては液体に馴染んでいく成分が飽和状態をわずかに超えた途端に、一気にじゃりじゃり、ざくざくに結晶してしまうように、性愛なり恋慕といった荒ぶる魂の領域に身をひたし続けた末に、一線をついに越えてしまい、魂の跳ね跳び瓦解して世界をひどく変容させていく、その一瞬がこの境内を借りて起きている。


 本来はのどかな、さわやかな景色なのである。寺の縁起を立て札に読めば、地蔵のひとつひとつは家族や自身の健康、ささやかな願いの成就なるのを祈って寄進されたとあり、内省的で細やかな感覚をそなえた若い恋人たちが寄り添い、手をつなぎ、愛や運命の不思議や奇蹟を語り合うにふさわしい場処なのだ。その穏やかな風景をあえてどろどろと溶融させてみせた石井の、臨界を越える危険を冒してまでも魂にすり寄っていく容赦ない語り口に対し、粟立つような、ほんの少しだけ泣いてみたいような心もちで門を潜り、近くの駅までの道を歩いた。


(*1):第4章「悪魔のしずく」 初出「漫画さくら組」1987年2月28日増刊号
(*2):手塚治虫 【バンパイヤ】 1966-69



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