2013年2月21日木曜日

“塵芥”~天使のはらわた 名美~



 廃棄物の埋め立て処分場に足を踏み入れたことがある。集落から離れた、細く曲がりくねった坂道のどん詰まりに掘られていた。屏風のように山を背後に従え、下界からの視線を遮っている。金網や門がめぐり、構内の撮影を一切許さない旨の看板が実にいかめしいのだった。すり鉢状の穴が穿たれており、最も深い層は私が立つところからは随分と離れて見える。まるで石組みの闘技場か野外劇場のようだ。

  落ち着かない場処だった。得体の知れない利権が渦巻いて感じられ、自分たちとは違う世界、あまり知るべきでない区域に思えて逃げるようにして帰って来た。他にも規模や様相は違っているが、焼却場や民間処分場に立ち寄ったことがあるけれど、どこも妙に寒々しく感ぜられ、興味なり夢想のつけ入る隙は見当たらなかったように思う。大量のゴミやこれに付随する景色には人の思考を萎えさせ、情動の隆起を押さえ込み、想像する力を全停止させてしまうところがありそうだ。 

 何故こんな事を思い出したかと言えば、石井隆の劇画作品群を原作(*1)とし、石井自らが脚本を書いて提供した映画『天使のはらわた 名美』(監督田中登 1979 以下『名美』)のDVDが間もなく発売なると耳にしたからだ。荒漠とした“ゴミ埋立地”が物語の前半に現われ、そこで壮絶な暴姦劇が繰り広げられていた。

  公開にあわせて小特集が組まれた「キネマ旬報」(*2)で、石井のインタビュウ共々掲載なっていた『名美』の脚本を読み返していたし、しばらく間を置いてから映画の方を目にしたものだったから、ああ、こんな絵になったかと流し見するだけの余裕が私にはあったのだけれど、先入観なく銀幕に対峙させられた観客はさぞかし衝撃を受けたことと思う。化粧水やおんな本来の甘酸っぱい匂いを幻嗅せんと胸はずませて来たのに、鼻をつく腐臭や虫の羽音がむわむわと寄せて来る。鬱然として息を止め、物語の成り行きを見守ったに違いない。

  石井が劇画家として掌編を寄稿していた当時の雑誌(*3)には、この『名美』の撮影リポートが掲載されている。午前2時に撮影所を出発し、羽田の埋立地にて撮影が開始されたのは4時半、「早朝の寒さとゴミの放つ異臭とハエが飛びかう中で」ふたりの女優が文字通り捨て身となって転がっていく様子が四頁に渡って紹介されていた。「マスクをしている我々が何か後ろめたくなった」と執筆者が語るのもうべなるかな、暴行事件の被害者を演じるおんなは泥土(でいど)に膝を折り、卒塔婆のごとき立杭に縛られ、烈風に肌をさらして号泣するのだったし、片や“らっきょう”だの“メークイン”、“レタス”と、かろうじて判読なるひしゃげたダンボール片と膨大なゴミ屑の中に横臥し埋もれていく。やらせる方も鬼なら、もはや演技に没入するおんなたちも女夜叉(にょやしゃ)と化している。舞台も過酷極まるが、創り手たちの劇に対する傾斜度がさらに過激であって尋常とは思えない。

                    ◇     ◇     ◇     ◇

  さて、石井の劇の際立った特徴のひとつに数えられるのが、この『名美』に点描されているような、荒廃したり汚水にまみれた“ありえない場処”をことさらに選んで、そこに修羅の前線を設営してみせる極端さ、苛烈なのだが、これについて少し想いを馳せようと思う。

  劇画の代表作でもある【天使のはらわた】(1978)では、川島哲郎が逃げる名美を“鉄道の操車場”に追い詰め、降り止まぬ雨の中、そこでの交接を試みるのだったが、思い返せば似たような手触りの屋外、もしくは空間認識が不明瞭で至極曖昧な舞台、冷静に考えれば状況的に“ありえない”景色が石井の劇中には多数見受けられるように思う。


  犯罪白書をひも解くまでもなく、暴力や脅迫をともなう性行為の強要や薬物等を使って朦朧とさせた上での交合は主に屋内で為されることが多く、野外というのは割合的に少ない。一戸建て住宅、マンションやアパートの一室やホテルの小部屋といったある意味快適な日常空間にこそ、実は地獄の口はぐわっと開いて紅蓮(ぐれん)の焔をちらつかすものだろう。(*4) 当然ながら石井はこの事を承知しているのであるが、扉の外へと当事者を追い立て、より寒々しい場処へと視座を架け替えるのだった。

  相手の意思を捻じ曲げて一方的に情交を迫る濁流のごとき時間にあっては、逃げ惑った末に意図しない場処(たとえば屋上)へとたどり着いてしまったり、後先もなく勢いだけで相手を(たとえば操車場に)引きずっていく事が起こるものだ、それが欲情なり性暴力の実態じゃないか、と一笑に付されればここで話はお終いになるのだが、石井の劇にあっては、登場人物が状況を十分に制御し、快適な場処へと上手く誘導できるだろう局面にあっても、“ありえない場処”へ相手を追いやり行為を目論むところがあって、それはやはり物語の勢いに押し切られてのことじゃなくって、たえず作為的なまなざしが注がれての結果なのだ、と解釈するのがどうやら正しい。

  たとえば『夜がまた来る』(1994)の中で暴力組織の組長(寺田農)の殺害にしくじった名美(夏川結衣)は、裸に剥かれて尋問されたあげく複数の男の餌食となるのだったが、そこは地の底に潜む下水溝のような場処であって、ひたひたと足元を汚水が流れる風に見える。『GONIN』(1995)では、精神に変調を来たした男によってその妻子全員が撲殺された家の居間で、あろうことか腐乱しかけの遺体のひとつを面前にしながら殺し屋ふたりが情交を結んでいる。

 暴力の荒波に溺れて暮らす男たちは、嗅覚が鈍磨し、清潔であることを嫌い、汚物や汚水にまみれるのをむしろ至上の歓びと感ずるものだろうか。魚や野菜の(果ては人間の)腐敗する臭いに恋情や欲望が高ぶり、靴裏の奇妙な弾力や粘りつく感触に浮き立つ気分をさらに煽られ、そうした中で性の交歓を夢見る奇矯な者たちであろうか──まさか、そのような事はあるまい。

  【天使のはらわた】(*5)の哲郎が吐露していたように、そのような場処は誰にとっても“まるで賽(さい)の河原”のような光景に当たるはずだ。砕石や割れたコンクリートが膝を刺して痛みに身悶えする場処であり、悪臭に顔をしかめ、あらゆる意欲を減退させる最果ての地である。性交にともなう甘い夢想を裁ち切り、暖色の陶酔を叩きつぶして覚醒へと導く、そんな水垢離(みずごり)にも似た機能が托されているように私には見える。


  銀幕の『名美』を覆う大量のゴミやこれに付随する景色にしても同様であって、暴漢が地理に明るく、ここであれば誰も来ないと考え選んだのではなく、私たち観客のご都合主義や楽観を萎えさせ、欲情の隆起を押さえ込み、想像力を別方向へと捻じ曲げるための仕組みとして物語にあてがわれたのだろう。煽情の装置でなく、覚醒のための装置となって風景が起動し、男たち(私たち)の身勝手な意識を混濁させていくように映る。

  男たちに加えて風景は、おんなたちの内奥とも当然つながっていく。顔面の筋肉や皺を駆使し、さらに瞳孔の微細な変化や眉の位置とかたちを用いて人間は喜怒哀楽を巧みに表現する動物である。語句の豊かさがこれを助けて、より鮮明に気持ちを伝達してもいく。だから、弱き者たちの魂を粉砕せしめた性愛の険しさや酷さを表わすにあたり、女優の台詞なり表情をもって臨めば、それで十分とまではいかずとも相応に響いていく演出は可能と思われるのに、石井は風景を歪めて“ありえない場処”へと変貌させ、おんなたちの魂と共振させた上でその振幅の極大化を図っている。

 整然として並んだ調度品や照明器具、白いシーツ、柔らかな布団に目もくれず、そこにダンプカー一台分ほどもある泥土や雨水、血反吐や塵芥を大量に持ち込むと一面にどっと流し込んで、“居心地の悪さ”作りに尽力していく。容赦ない、熾烈極まる仕事、と思う。


 黒い泥水や正体のわからぬものたちに覆われたそんな物語世界にあって、一輪の蓮(はす)の花を見出せるかどうかが、物語にとっても、そして私たちにとっても岐路となっていくのであるが、撥ねる泥水は目に入り、指先に触れるのが根茎なのか、はたまた死人の頭髪なのかももはや分からぬ。容易に白き者は目に入らないし、手に取ることは叶わない。終いまで目に入らなければ、手に触れなければ、そこは殺戮と獣欲と悪臭に限った原野となって救いがなくなるのだ。石井隆の作品はそういう危うい綱渡りを続けているのであって、予定調和に充ちた、透明度のある娯楽作品の境域を遙かに越えてしまっている。



(*1):どの原作が使われているかは、mickmacさんの書く以下のブログに詳しい。
http://teaforone.blog4.fc2.com/blog-entry-524.html
(*2):「キネマ旬報」 1979年7月下旬号 キネマ旬報社
(*3):「漫画タッチ」 1979年8月号 白夜書房
(*4):屋内での暴力的な姦淫については石井の劇にも一部当てはまり、『フリーズ・ミー』(2000)や近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)などが直ぐに目に浮かんでくる。いたいけな存在、無辜(むこ)なる魂が扉の奥で大きな手のひらに押し倒され、自由を奪われ、深々と傷ついていく様子が描かれていくが、そのような屋内空間の描写は石井の劇空間において(あくまで私見であるが)より酷さが加わり、傷口は縫合し得ないほど深く、広く破壊されていくように見える。屋外にあって縦横に飛翔を開始する外連(けれん)が自ずと封殺されるためか、それとも現実に繰り返される事件が木霊するためか、段差をつくって凄絶さが一気に増す傾向が視止められる。
(*5):【天使のはらわた】第1部 少年画報社 226-227頁「あそこ石ころだらけでよ……… まるで賽の河原でやってるみたいだったぜ……」



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