2020年7月1日水曜日
“駅を呑み込む”~石井隆の時空構成(3)~
平穏な景色が程なく変異して、回復不能な乖離へと至り往く石井隆の劇。日常と非日常、伝統的なモラルと情愛、その境界をあっさりと跨いでいき、時には生命の輪郭さえも曖昧になる。石井隆の劇における特殊な生死(しょうじ)すれすれの舞台につき、いまは「電車」や「駅」に絞って考えている。
たとえば『ヌードの夜』(1993)を観ている最中、私たちは物語の展開に無我夢中となり、また演出の巧みさに乗せられて見逃しがちなのだが、中盤の電車の使い方などはよくよく考えるとかなり異様な、つまり、石井の劇でありがちな“不自然”な展開が認められる。まんまとだまされて殺人の濡れ衣を着せられた男(竹中直人)が、高層ホテルの客室から逃亡したおんな(余貴美子)を探し当てる。勤め先帰りのおんなを待ち受け、電車のなかで再会を果たすのだった。その手には死人を無理やり詰め込んだスーツケースを携えている。
放り込まれたドライアイスがかろうじて腐敗を引き延ばしているにしても、同じ車両に居合わせたほかの乗客はその重たく忌まわしい遺体が直ぐそばに居合わせているのを露とも知らない。前代未聞の生と死の混在する空間を石井は笑いを誘うような役者の物腰と台詞でフィルムに定着させながら、その実は画集【死場処】(1973)と同列の危急の光景を淡淡と描写するのである。
同じく道具立てに電車が選ばれた作品を引き合いに出せば、石井の初期の劇画【夜がまた来る】(1975)が適当と思われる。【死場処】とも製作年が近しい。石井は自作単行本を絶版とするのをこれまで常としたから、この【夜がまた来る】を実際に読んだ人は残念ながら限られるだろう。簡単な説明が必要と思われる。
まず題名に関して言えば、後年撮られた夏川結衣主演の映画『夜がまた来る』(1994)と同じ字面であるのだが、両者を構成する要素にあからさまな共通項は見当たらない。石井はこれぞというタイトルを懐中で温め、歳月を経てから別の作品に冠することが度々ある。たとえば『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)の台本が「ヌードの夜」と当初呼ばれていたという話はよく知られるところだ。石井隆という特異な作家が、ゆったりと思考し堅実に前進を遂げる性格と窺い知れよう。
個別の物語として観客は認識するものが、存外石井の中には題名を“くびき”と為して何がしかの切実な祈念なり共振するサイドストーリーを底流させることは往々として有ることだから、劇画【夜がまた来る】と映画『夜がまた来る』の間にはそんなひそやかな連結の意図が含まれるかもしれない。いや、実は大いにあり得ることで全く油断ならないのが石井隆という作り手の怖さなのだが、いったんこの題名の件は風呂敷を畳んでいずれの機会に譲ろう。
劇画【夜がまた来る】にだけに焦点を合わせ直し、その内容を縮訳すれば次のようになる。高校の同窓会帰りの男ふたりが始発電車に乗り込む。夜通し乱痴気騒ぎをした訳でもなさそうで、強烈な睡魔に襲われ正体を無くす程ではないのだ。他愛もない会話がいつしか始まる。朝の冷気を裂いて走り出す電車の車両には、彼ら以外に乗客の姿はまるで無い。
背広を着込んでいる男は既に社会で出たらしいが、もう一方は普段着のジャンバー姿でいささか童顔である。背広の男は相手の今の暮らしぶりを探ろうとするのだが、若者は世間慣れしておらず会話はいよいよ弾まない。非日常から日常に向けて電車はがたがたと進むなかで、それぞれを虚ろな喪失感、淡い屈託のようなものが包み始める。
そんな列車が駅に停まるとひとりのコート姿のおんなが乗り込んでくる。あいかわらず他に乗客は見当たらず、密室に三人の男女が閉じ込められた形となる。悲鳴がして若者が見やれば、男がおんなに無理強いをしようと暴れている。加勢を求められた若者は成り行きで手伝ってしまう。
背広の男は次の駅で降りてしまい、おんなと若者だけが残される。ここから劇は変調する。おんなはロングブーツの脚を巧みに使い、トラバサミさながら若者の下半身を捕獲して性交のつづきを強要するのである。若者はすっかり心身のコントロールを奪われ、おんなの肉体に埋没していく。事が済んで、視線を交わさぬままに無言の時間を手探っていくうち、いたたまれなくなった若者は逃亡を図ろうとする。次の駅に到着して発車のベルが鳴り響くのを聞きながら、このおんなとは金輪際会うまいと決めるのだった。無言のまま、のっそりとホームに降り立っていく。
しばし意味もなく高架下なんかをうろついた後で、帰宅のために駅舎へと舞い戻る若者である。そもそも降車予定の駅はとっくに過ぎていたし、今日は日曜で仕事が休みだ。気を取り直して家路へと急ぐのだった。閑散としたプラットフォームに着いたところで目に飛び込んで来たのは、あのコート姿のおんなが何故か列車から下車しており、うつむきがちに佇立する姿なのである。足元の小石なんかを蹴っているが、男を待ち構える気配が濃厚に漂う。今やおんなの方が狩りをして男を玩ぶ時間なのである。若者の顔から血の気がさっと失せ、頬に冷や汗が流れ落ちるところで物語は幕を閉じる。
石井隆の電車がいささか突飛な位置にあることが、この【夜がまた来る】からも読み取れる訳である。特に若者が駅構内に再度足を踏み入れ、そこにおんなを発見するところなどは極めて奇抜で印象に刻まれる。
【夜がまた来る】に起きた男女間での立場の反転は、石井隆の世界と長く親しむ読者や観客には馴染み深いものだ。理不尽な男性優位社会にあって当初女性が性的に虐げられていくがその様相が突如反転していき、今度は女性側が底無しの生理機能と強靭な精神を存分に用いて男を完膚なきまでに組み伏せていく。この図式は承知の通り、石井作劇の心柱(しんばしら)となっている。
虚勢を張るだけの空疎で弱い生き物に男は過ぎず、最終的におんなの敵ではないという【夜がまた来る】に穿たれたピリオドは、石井の他の劇画作品【埋葬の海】(1974)、【紫陽花の咲く頃】(1976)、【街の底で】(1976)、【おんなの顔】(1976)、【やめないで】(1976)、【墜ちていく】(1977)等と明らかに通底し、それぞれと深く共振していく。劇画と映画の境界を破って、『天使のはらわた 赤い教室』(1979 監督曾根中生)にも当然ながら繋がっていく。
その意味で【夜がまた来る】を真摯に語るつもりならば、石井隆の劇を縦断するこの性差をめぐる不動の構図、飽くことなく反復される声明(しょうみょう)にも似た石井の一途な想いに手を伸ばして、これを覚悟持って飲み干し、その上で“人間”なり“社会”を語ることが正しい役回りと機会なのだと感じる。いずれ優れた評論家や研究者により石井が徹底して論じられる機会は訪れると信じているし、その際に性差をめぐるこの手のテーマは盛んに取り上げられるはずだ。
この主題の前では電車という大道具は存在感を減じ、はっきり言って瑣末な事柄となる。どこまでも粘着してやれ電車だ、やれ駅だと騒いで言葉を継ぐのは石井が望む方角とはまるで違って野暮の極みかもしれない。少なくとも真っ当な作品論とは呼べないだろう。この世界で役立たない無駄な道程であると私だってそう思わなくはないのだが、まあ、一種の隙間産業である。外野席から声を枯らして応援するだけのベンチを温める順位にも入らぬ自分は、他人からは滑稽で阿呆な奴と言われてもこのまま可笑しな列車談義を続けよう。
航空機、車両、列車といった公共の交通手段のなかでの扇情的な場面というのは古今東西の物語中に数限りなくあり、それ自体は珍しくない。何がひとをそのように駆り立て、どうしてそれが私たちの娯楽へと直結するのか、心理学の専門家でない自分には答えが出せない。吊り橋理論やタブーを侵犯することで人間の軸芯にある性がめらめらと発火する、そういう事は有りそうな気がするが確かな事は言えない。
同じ時代に人生を歩みながら、それぞれに与えられる機会の数も物象も段差があって一律ではない。これを読むどこかの誰ぞは動く車両の旅客となる内に、それとも埃まみれのプラットフォームに降り立って、幸いにしてか不幸にしてか愛憎渦巻く局面に遭遇してしまい、今も魂にあざやかな痕跡を残しているかもしれないけれど、私にはそういう浮いた出来事は多く起こらなかったし、おそらくこのまま平凡な生を全うするに違いない。
こんな年齢となっても情念の荒野が未開拓なままの自分が【夜がまた来る】に描かれた列車について、では一体なにをどう語れるかと言えば、ただただ石井が日本の鉄道車両を丹念に取材し、当時の表現に従えばゼロックスで運転席をのぞむ先頭車両の姿、客車内の誰もおらない座席群、ドアの外に広がる茫洋とした小さな駅の様相、高架下や階段といったものを熱心に転写しては紙面に組み込み、劇を編成してきたことへの言及となる。
ロケを重視した映画的手順を導入し、「映画そのもの」を誌面に産み落とそうと石井は夢描いて孤軍奮闘した。そのなかで写真の多用が起きたことは周知の通りである。それがどうしたのよ、石井の劇画はそういうモノだろ、モノクロのざらざらした街路や木立やビルがひしめく世界だろ、何も特別なことはあるまいよ、いい加減にしろと憤懣覚える人もいるだろう。
此処はきわめて大切なポイントであった。本来自由闊達にペンを走らせ、深宇宙での苛烈な王位争奪戦でも地中の恐竜王国でもケーキで出来た城での魔女からの脱出だって何だって描ける漫画の表現空間にあって、ひたすら現実風景を淡淡と取り入れていった行為は、石井隆という作家の針路を自ずと決めたところがある訳だし、そのほとんど変えることが無かった描法が物語の色度(しきど)の振れ幅を調整し、強固な「作風」を彼にもたらした点は特筆すべき出来事だろう。
そうして、そのこだわりが遂に「電車」や「駅」を呑み込んで何が起きたかと言えば、石井隆の劇に「時間」の概念ががっちりと刻まれ、隅々にまで「時刻」が根を張って行ったのであり、この展開は石井世界を縦覧する上でも絶対に見逃せない関所ではないかと考えている。
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