2011年3月の東日本大震災により、多くの町が壊滅的被害を受けた。わたしが住まう町は直接の打撃はまぬがれたものの、停電と見えない放射能汚染、物資不足によって喘ぐような毎日を送らざるをえなかった。きっと誰もが大なり小なり思い出す景色があって、今でもふと真向かう瞬間があるに違いない。二度とほどけぬ紐でもって各人の足首に縛り付けられている。
思い出されるひとつが時計だ。もはや笑いの種でしかないが、あの日の夕刻、壁掛けの時計の針がぐるぐると回り出し、見つめる誰もが唖然として息を呑んだ。地震と停電と関係があることは直ぐに了解したので混乱はなかったが、オカルト映画や大林宣彦のジュブナイルじゃあるまいし、めまぐるしく針を移動し続ける時計の出現は冗談の域を越えて不快以外の何ものでもなかった。いつまでも止まらず、見ていて気が滅入って仕方ないから、手を伸ばして壁から外すと裏側の電池をはずして寝かしつけた。
近畿から東北に至る広範囲にむけて標準電波を送信する「おおたかどや山(やま)標準電波送信所」(福島県)が機能しなくなったので、手持ちの電波時計が正確な時刻を見失った為だと後で知った。他に確認すべきこと、思案すべき点は山積みでいつまでも時計ひとつに拘(かかずら)ってはいられないから、吹っ切るようにして次の作業に移ったのだけど、暗澹たる気分は刺青となって脳裏に刻まれている。
時計が当てにならなくなった、正確な時刻を示さなくなったことに強烈な拳(こぶし)を喰らった形となり、立ちくらみに似た症状が出た。少しばかり吐き気のともなう、地面が傾ぐような気分を味わったのだが、それは裏を返せば自分の中で時計が狂わないもの、遅れないものと信じ切っていた証拠である。実際は送電が止まれば、または、操作場のひとびとの避難が始まればたちまち混迷におちいる脆弱な基盤であって、薄氷に乗った如きが電波時計という物の正体なのだ。
それにしても、時計が正確だなんていつから信じ込んだのか。幼い時分の家の時計は少しずつずれて当たり前で、5分や10分の狂いは許容範囲でしかなかった。ネジの巻き忘れ、突然の故障など生活者にとっては至極一般的な出来事に過ぎない。目覚ましの役目など不信感を抱かせる最たるもので、枕もとに二個並べて寝る夜も普通にあった。
先日、ヴィットリオ・デ・シーカの『ひまわり I Girasoli』(1970)を観ていたら、ハネムーン旅行を愉しむ若い夫婦をめぐる歓喜や刹那感をあぶり出す仕掛けとして、宿泊した部屋の小型時計がいつの間にか止まっていたという軽妙な場面が挿み込まれていた。今は朝の6時か夕方の6時か分からない、いや、それでも構うまい。昼夜の感覚を失いながらもふたりは歯を見せ笑って済ませ、時計が針を刻まない空間へと没入していく。時代背景は1944年頃で古いのだけれど、似たようなハプニングは以前なら幾つも転がっていたように振り返る。(*1)
腕時計にしても信用し過ぎると墓穴を掘るところがあり、実用性からやや離れた存在だった。人によっては高額で精巧無比のものを携え、それで学業なり仕事に邁進しておられたかもしれないが、私の場合はそうではなかった。社会に出てからは擦り傷作りながら狭いところに腕をつっこみ、袖口まで濡らす仕事を与えられていたし、時間についていちいち意識したら苦痛を感じてしまう劣悪な環境でもあった。時計の存在を気にしないことが最初にまず求められる職場だった。大体にして往時は時計をする学生の割合は少なかったようにも思うし、今でも就く仕事によっては縁遠い道具でしかない。
ポケットベルや携帯電話がいつしか世に現われ、それで時刻を知ることは済ませられるから、自然と腕時計への憧憬は育たず、審美眼も養えぬまま今日に至っている。さすがに最近は国産の安時計をはめる日が増えたけれど、高温多湿のこの国土では外せるなら外した方がよい妙ちきりんな道具にしか思えない。そんな無粋な天邪鬼に育った自分なのに、三月の「正確な時計」の喪失にひどく慄(おのの)いたのが不思議といえば不思議だ。人は知らないうちに変質する。道具に使役させているつもりが、立場は逆転して彼らの奴隷になっていく。どんどん裸の王様にさせられていくのだけれど、知らぬは本人ばかりなのだ。
一般社団法人 日本時計協会のホームページに記載されている「日本の時計産業概史」という特集ページの下の方に、「1970年代のわが国のウオッチ生産(電子化への推移)」というグラフがある。これを見るとデジタル(電子式)の腕時計の生産量は1978年で約5分の1、1979年でようやく3分の1程度に過ぎない。生産量にしてこれであるから巷に溢れる腕時計のほとんどはまだねじ式か自動巻きであり、いつの間にか正確な時刻を忘れ、さらに油断すればひとの腕を枕にして寝息を立てるのが常だった。(*2)
劇画【夜がまた来る】(1975)を皮切りに「ヤングコミック」誌に続々と傑作を送り出し、出版業会の話題を席巻し、数多くの読者の耳目を集めた石井の劇画群というものの「時計をめぐる社会の現況」がまさにそうであった。これを踏まえた上で石井世界の時間の二極性を考える必要がある。公の時間と個人の時間がまったく別のものであり、性質がまるで違っていた点をきっちりと視野に入れた上で、作品を細かく丁寧に読み解くことが大切ではないか。
石井劇画が熱狂的に受け止められた1979年、石井は映画会社から依頼を受けて始めて脚本に手を染めた。『天使のはらわた 赤い教室』(監督 曾根中生)がそれであるが、承知の通り、あの映画は物狂おしく時間と歳月につき言及していく。それこそが主要な登場人物を激しく疲弊させるのである。時間という濁流をまともに喰らって壊滅する恋人の劇であった。
(*1): I Girasoli 監督 ヴィットリオ・デ・シーカ 主演 ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ 1970
(*2): 一般社団法人 日本時計協会 https://www.jcwa.or.jp/etc/history01.html
近畿から東北に至る広範囲にむけて標準電波を送信する「おおたかどや山(やま)標準電波送信所」(福島県)が機能しなくなったので、手持ちの電波時計が正確な時刻を見失った為だと後で知った。他に確認すべきこと、思案すべき点は山積みでいつまでも時計ひとつに拘(かかずら)ってはいられないから、吹っ切るようにして次の作業に移ったのだけど、暗澹たる気分は刺青となって脳裏に刻まれている。
時計が当てにならなくなった、正確な時刻を示さなくなったことに強烈な拳(こぶし)を喰らった形となり、立ちくらみに似た症状が出た。少しばかり吐き気のともなう、地面が傾ぐような気分を味わったのだが、それは裏を返せば自分の中で時計が狂わないもの、遅れないものと信じ切っていた証拠である。実際は送電が止まれば、または、操作場のひとびとの避難が始まればたちまち混迷におちいる脆弱な基盤であって、薄氷に乗った如きが電波時計という物の正体なのだ。
それにしても、時計が正確だなんていつから信じ込んだのか。幼い時分の家の時計は少しずつずれて当たり前で、5分や10分の狂いは許容範囲でしかなかった。ネジの巻き忘れ、突然の故障など生活者にとっては至極一般的な出来事に過ぎない。目覚ましの役目など不信感を抱かせる最たるもので、枕もとに二個並べて寝る夜も普通にあった。
先日、ヴィットリオ・デ・シーカの『ひまわり I Girasoli』(1970)を観ていたら、ハネムーン旅行を愉しむ若い夫婦をめぐる歓喜や刹那感をあぶり出す仕掛けとして、宿泊した部屋の小型時計がいつの間にか止まっていたという軽妙な場面が挿み込まれていた。今は朝の6時か夕方の6時か分からない、いや、それでも構うまい。昼夜の感覚を失いながらもふたりは歯を見せ笑って済ませ、時計が針を刻まない空間へと没入していく。時代背景は1944年頃で古いのだけれど、似たようなハプニングは以前なら幾つも転がっていたように振り返る。(*1)
腕時計にしても信用し過ぎると墓穴を掘るところがあり、実用性からやや離れた存在だった。人によっては高額で精巧無比のものを携え、それで学業なり仕事に邁進しておられたかもしれないが、私の場合はそうではなかった。社会に出てからは擦り傷作りながら狭いところに腕をつっこみ、袖口まで濡らす仕事を与えられていたし、時間についていちいち意識したら苦痛を感じてしまう劣悪な環境でもあった。時計の存在を気にしないことが最初にまず求められる職場だった。大体にして往時は時計をする学生の割合は少なかったようにも思うし、今でも就く仕事によっては縁遠い道具でしかない。
ポケットベルや携帯電話がいつしか世に現われ、それで時刻を知ることは済ませられるから、自然と腕時計への憧憬は育たず、審美眼も養えぬまま今日に至っている。さすがに最近は国産の安時計をはめる日が増えたけれど、高温多湿のこの国土では外せるなら外した方がよい妙ちきりんな道具にしか思えない。そんな無粋な天邪鬼に育った自分なのに、三月の「正確な時計」の喪失にひどく慄(おのの)いたのが不思議といえば不思議だ。人は知らないうちに変質する。道具に使役させているつもりが、立場は逆転して彼らの奴隷になっていく。どんどん裸の王様にさせられていくのだけれど、知らぬは本人ばかりなのだ。
一般社団法人 日本時計協会のホームページに記載されている「日本の時計産業概史」という特集ページの下の方に、「1970年代のわが国のウオッチ生産(電子化への推移)」というグラフがある。これを見るとデジタル(電子式)の腕時計の生産量は1978年で約5分の1、1979年でようやく3分の1程度に過ぎない。生産量にしてこれであるから巷に溢れる腕時計のほとんどはまだねじ式か自動巻きであり、いつの間にか正確な時刻を忘れ、さらに油断すればひとの腕を枕にして寝息を立てるのが常だった。(*2)
劇画【夜がまた来る】(1975)を皮切りに「ヤングコミック」誌に続々と傑作を送り出し、出版業会の話題を席巻し、数多くの読者の耳目を集めた石井の劇画群というものの「時計をめぐる社会の現況」がまさにそうであった。これを踏まえた上で石井世界の時間の二極性を考える必要がある。公の時間と個人の時間がまったく別のものであり、性質がまるで違っていた点をきっちりと視野に入れた上で、作品を細かく丁寧に読み解くことが大切ではないか。
石井劇画が熱狂的に受け止められた1979年、石井は映画会社から依頼を受けて始めて脚本に手を染めた。『天使のはらわた 赤い教室』(監督 曾根中生)がそれであるが、承知の通り、あの映画は物狂おしく時間と歳月につき言及していく。それこそが主要な登場人物を激しく疲弊させるのである。時間という濁流をまともに喰らって壊滅する恋人の劇であった。
(*1): I Girasoli 監督 ヴィットリオ・デ・シーカ 主演 ソフィア・ローレン マルチェロ・マストロヤンニ 1970
(*2): 一般社団法人 日本時計協会 https://www.jcwa.or.jp/etc/history01.html
0 件のコメント:
コメントを投稿