2020年6月17日水曜日

“電車という背景”~石井隆の時空構成(2)~


 天空から不如帰(ほととぎす)が舞い降りて、けたたましく鳴きはじめた。車の往来もなく森閑とした住宅街に鳥の声のみ響き渡る。時計を手元に引き寄せてみれば、それも真夜中の午前3時24分である。

 まんじりともせず様子をうかがうが、なかなか鳴きやみそうにない。勘弁してくれと身悶えしつつ、その一方で憧れに似た気持ちが湧いてくる。夜気につつまれながらさぞ当人は気持ち良かろう。本能おもむくままにさえずり、遠慮のかけらもない朗朗たる雄叫びである。それに引き換え、我らの萎縮した日常はどうであろう。人の口元を調べ、紙や布の遮蔽物の奥で言葉を呑み込みながら、ひどく声量を抑えて暮らしている。

 鳥は東に移り、やがて南へと羽ばたき、さらにこれを忙しく繰り返しながらキョッキョッキョキョキョキョと豪快に鳴いている。さすがに物狂おしい気分に襲われる。うるさい奴、あたりは死んだように静かじゃないか。そんなに鳴いても同胞が返事をかえす気配もないのに何を独りいきんで叫ぶのか。

 それが先日の明け方だった。考えてみれば私とて彼奴の同類かもしれぬ。ウェブ空間に時折ひきこもって、好きな作家のことだけ思考して溜飲をさげている。深夜の孤鳥の忍音(しのびね)とそう変わらない。誰もこんな穿鑿(せんさく)など顧みるものはなくなった。新型ウイルスが無差別に街を呑み込んでいる時、映画や劇画内で詩情を誘う駅も鉄道もあったものではない。人々は明日の命がわからないのだ。

 愚痴を言っても詮無いから、先日のつづきを狂ったようにさえずってみる。「鉄路とプラットフォームをめぐって石井の内部に持続する一定の想いがある」と書いたが、これまで石井のインタビュウや単行本のあとがき等に鉄道に淫している旨を打ち明けるくだりはいっさい見当たらないから、これはあくまでも主観に基づくふわふわした思い込みでしかないし、そもそも石井隆を鉄道愛好の士であるとは最初から考えていない。操車場、プラットフォーム、改札口などが過去の劇画や映画作品に点描されるのだが、いずれもその描写は他の物象、たとえば商店街のさびれた店頭風景、たとえば冬枯れのすさんだ野原、たとえば水滴を蛇口からこぼす台所の流しなんかと同じ目線でしか捉えられていない。ここで言う持続する一定の想いとは、鉄道という物体そのものへの過熱した執着を指すものではない。

 ならば具体的に何を言うかと自問してみるが、どうも上手い言葉が導かれずに足踏み状態になってしまう。一向に筆が進まないから降参し、映画や小説と鉄道がどう関わってきたか、ふたりの識者の書籍を読み耽って頭の整理を始めた。選んだのは川本三郎(かわもとさぶろう)の「小説を、映画を、鉄道が走る」(*1)であり、臼井幸彦(うすいゆきひこ)の「駅と街の造形」、「シネマの名匠と旅する「駅」 映画の中の駅と鉄道を見る」、「シネマと鉄道」の計4冊である。(*2,*3,*4)

 一読して最初に感じたのは、同じ事象を目の前にして見方がここまで違っていくか、というシンプルな驚きであった。評論家、翻訳家の川本は1944年7月生まれであり、一方、大学卒業後は一貫して鉄道業界で生きてきた臼井もやはり1944年に生まれている。世代的にぴたり並んでいる両者が同じ映画を観てこうも違った反応を示すのが実に面白く、人間とは実に多彩な生き物だと改めて感心する。

 石井隆は彼らから少し遅れて1946年に生まれている。石井のなかにどんな色彩の鉄路が広がっているか、同世代のふたりの感想を読み込めば何かつかめる気が当初はしていたのだけれど、そんな単純な話ではないなと早々に諦める。ではまるで無駄足だったかと言えば読書自体は十分に面白く、また、さすが何冊も上梓している文筆家だけあって示唆に富む箇所がいくつも飛び出して楽しかった。いささか脱線気味であるが川本、臼井の記述で印象深い箇所をここで抜き出してみる。

 川本は野村芳太郎の『張込み』(1958)を引いて「夜行列車の旅は楽ではない」(*1 10頁)、「格差を身体で感じている人間には、夜行列車の旅情など思うゆとりはない。むしろ満員の車内に嫌悪感を覚える」(*1 30頁)と続けていく。また幾つかの日本映画を並べながら、「汽車には、近代日本を支えてきた交通機関でなければ表現出来ない日本の庶民の悲しさ、切なさが確かにある。それは高度経済成長以後の豊かな社会の乗り物といっていい飛行機や新幹線ではあらわせない」(*1 311頁)、「あの時代、多くの出征兵士が汽車に乗って戦地へと送られていったのだから、汽車は兵士たちの悲しみも運んでいる。戦争の記憶を刻みつけている。戦争の記憶を持たない飛行機や新幹線とそこが大きく違う。汽車が去る場面がいま見ても悲しいのは、戦争の記憶のためといってもいい」(*1 313頁)と綴っている。

 つらい現実からの一時の退避を庶民に約束する役回りの映画や小説に対し、川本は真っ向からその責務を拒絶する勢いで歴史に刻まれた切実な実景へと立ち戻る。「煤煙(ばいえん)の苦しみ」、「奉公」、「集団就職」といった単語が数珠つなぎとなって押し寄せ、映画のフィルムのコマごとに現実世界の哀しみを透かし見るべく読者にも強いてくる。実際それだけの重い風景を川本は間近にしながら育っていて、生々しい記憶の数々が苛烈な刺青となって彼を丸呑みして離さないのだ。肉体の痛苦と離別の愛惜が瞬く間に体内から浮上し、銀幕にハレーションをにじませるのである。

 私見となるが石井の劇を鳥瞰しつづけて得たひとつの感懐として、ここまで物語と現実の記憶が過酷に癒着する二重構造を石井世界は持たない。どちらかといえば次に並べる臼井の文調と石井の劇は線を結ぶように思われた。

 臼井は川本と同じく野村芳太郎の複数の作品を引いた上で、「駅の映像から始まる主人公の列車による移動を、単に移動の行為とするだけでなく、主人公が移動している「場」を感情としてとらえようとしている」(*3 188頁)と書いている。ここには長距離移動につき纏う肉体と精神の忍苦は影もかたちも消え失せ、替わってドラマに渦巻く感情がより大きく育って客車内部に充満している。石井隆の作劇上の「物」の捉え方の一端には、これに似た感情の寄り添いや思念の膨張が見受けられる。

 臼井が成瀬巳喜男の『乱れる』(1964)を引けば、「列車の座席という不思議な孤立空間に演出された無言のシーンは、二人が伝統的なモラルを越えて、互いの情愛を求める男と女に変容したことを暗示している」(*3 174頁)と書くのだったし、リーンの『旅情』(1955 )等の恋愛映画に触れれば、まず、「駅の空間は街の中の「ケ」の部分を濃密に引きずっている」(*2 5頁)、「駅に集散する人々の希望と失意、喜びと悲しみ、出会いと別れといった相対立し矛盾する思いが同時に交錯し、込められている」(*2 5頁)、だからこそ「駅では観客の心の襞に触れる憂いを帯びた表情を持つ人物が似合う」(*2 5頁)と解析してみせる。駅という空間が境界線上にゆらめく幻影城だと捉え、そこに人びとの屈託がとぐろを巻いてうねっていると捉えている。

 その上でつまりは「日常と非日常を繋ぐインターフェイスとして」(*3 131頁) 駅という特殊な場処があると畳み掛け、「これらの映画は、非日常の情事に溺れかけるが、結局は日常の生活にかろうじて戻っていく女性心理を巧みに描いている」(*3 131頁)と還して、駅や鉄道と情動が左右の車輪となって物語を前進させていると説くのである。この辺の文脈は石井隆の劇と通底するものが感じられる。

 石井の創作空間において鉄道が描かれるとき、それは初期の画集「死場処」(1973)からして既にそうなのだが、電車の内装も乗り合わせた乗客も普通の面立ちでありながら妙に不安を煽るところがある。おんなはバッグ片手にのっそりと立っていて、絵のなかで軸心となっているがゆえに密度ある存在感が与えられているのだけれど、そのたたずまいが最初からさりげなく不穏、剣呑であって、微妙に非日常を香らせている。

 「死場処」に収められた数葉の絵についてこれまで詳しく解題してみせた評論家はおらず、発行部数も少ないこともあって、ここで言葉を尽くして語ってみたところで大多数はさっぱり腑に落ちないはずである。いまはその書籍の輪郭についてさらっと語るにとどめなくてはなるまい。上の臼井の表現を借りれば、「日常と非日常を繋ぐ境界面」としての「場処」が描かれている。「日常と非日常」に加えて綱引きされるのが「伝統的なモラルと情愛」であろう。

 けれど承知の通り、石井の恋情劇は「結局は日常の生活にかろうじて戻っていく」という曖昧な収束で幕をおろさずに突き破ってしまう。そこでは「生と死を繋ぐ境界面」が執拗に描かれ、息をする者と息絶えた者が往還したり混在する段階にまで容易に達してしまう。ここでの背景画は人物を際立たせる添え物ではない。どこもかしこも「死場処」となり得るよね、貴方が今立ったり座ったりする場処だって随分と怪しいところだよ、そういう見えない渦に巻かれているのが人間だよね、実際そうだろ、そういうもんだろ、と囁きつづけるのである。

 石井の画集「死場処」に含まれる電車の場景や草むらにたたずむおんなというのは、人によっては帰還可能な日常が点描され、前後して挿まれた死者の絵とは水と油のように分離して見えるかもしれないが、あれ等は総て後戻り出来ない局面ばかりが描かれている。その切迫感を受け止めることが石井作品と真向かう上での要(かなめ)となる。 

(*1):「小説を、映画を、鉄道が走る」 川本三郎 集英社文庫 2014
(*2):「駅と街の造形」臼井幸彦 交通新聞社 1998
(*3):「シネマの名匠と旅する「駅」 映画の中の駅と鉄道を見る」  臼井幸彦 交通新聞社 2009
(*4):「シネマと鉄道」 臼井幸彦 近代映画社 2012

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