2020年3月1日日曜日

“この世では”と“まれびと”~生死に触れる言葉(9)~



 『花と蛇』(2004)には「この世ではお目に掛かれない」という台詞が登場する。異なる登場人物から別々に発せられており、そこには作り手石井隆の固執した想いが透けて見える。

森田「この世では滅多にお目に掛かれない物に囲まれて過ごしておられる、
   先生自体が稀人(まれびと)なんですよ。」(*1)

ピエロ「ショーを観にいらしてるんだよ、政財会や芸能界とかのセレブの
    皆さまが日々の疲れを癒しにね。だからこの世では一生掛かっても
    お目に掛かれない面白いショーをプレゼンしたいの。」(*2)

 「この世ではお目に掛かれない」という形容は多くが誉め言葉として用いられ、程度があまりに甚だしくて現実のものと思われない物を指す場面が一般的だ。肯定的に捉えれば、甘くかぐわしい快楽の渦につつまれて五感をふわふわと果てなく慰められる、あたかも桃源郷の魅惑的な場面が浮んでくるが、よくよく字面を眺めれば「現世では見ることが許されない、生命あるうちは拝めない」という事だから、剣呑な性格がその背後にくっ付いている。悪く考えればたちまち照明はバチンと音立てて暗くなり、辺りは血なまぐさい悪臭に一気に覆われる。

 既にこの映画を観終えている私たちは銀幕を彩る残虐な性愛地獄を記憶に刻んでいるから、「この世ではお目に掛かれない」という表現の背後に忌まわしい腐臭を当然ながら嗅いでしまう。すなわち、甘美で生きている実感をもたらすもの、上昇指向の明るい絵柄ではなく、おぞましい景色を即座に思い起こす。さらには超自然的な影響の作用する薄気味悪いもの、怪異なもの、それとも状況が極めて悲惨なさまをあれこれ連想し、死屍累々の、生き地獄のような奈落の底と思考の奥で結び付いていく。

 石井が起用されたのは主演女優からの直々の指名と言われているが、その期待に応えようとして石井は演出に臨んで照明にこだわり、衣小に心血を注ぎ、カメラアングルを工夫して女優を「この世ではお目に掛かれない」艶やかな姿態と表情へと導き、映像へと見事に定着させてはいるのだが、内実は死人の群がる地獄絵図となっている。

 手元にある別の作品『月下の蘭』(1991)の台本を手繰ってみれば、「この世ではお目に掛かれない」によく似たト書きが見つかった。「妖艶で悪魔的ですらある蘭の姿は、この世の物とは思えない美しさだ。」(*3)この世の物とは思えないという表現はもちろん世にありきたりであるし、石井の手癖とこれを捉えて読み流すことも可能であるが、改めて考えてみれば『月下の蘭』という物語の骨格は『花と蛇』とまるで同じである。蘭という名の売り出し中のアイドルが暴力組織に貸し出され、そこで政界の黒幕たる男の玩具にされるのだった。

 物語の展開を近しい『月下の蘭』が『花と蛇』の血筋にあたるとすれば、ここでの「この世の物とは思えない」という表現は一過性のものではなく、同じ目的で登用されたと捉えた方が自然ではあるまいか。
 
 救出のため向かった男の前に、捨て置かれた粗末なベッドに横たわる娘の姿があったのだが、絶え間ない陵辱により魂の臨界を越えたものか、それとも薬でも投与されたのか、茫洋とした動作と口調でぼそぼそ返答しながら横臥するその様子は既に異界のおんなの雰囲気であり、男は顔色をうしない凍りついてしまう。間に合わなかった、遅かったのである。その光景を称して石井は「この世の物とは思えない」と書いている。

 つまり、石井隆にとって「この世ではお目に掛かれない」「この世の物とは思えない」とは、かくも徹底して忌まわしさと哀しさがこびりついた形容であって、
「この世」と「あの世」を今すぐにもまたぎ得る容易ならざる局面、死線すれすれの危機的な状況に置かれたときに噴き上がる形容なのである。心底から美しいものとは、実は死とべったりと近接しており、いわゆる健全さや平穏な日常とは隔たったものではないか、と石井は捉えている。

 さて、『花と蛇』と『死霊の罠』(1988)が相似する構造を持ち、その類似箇所をまるで床面に点々とする血痕を辿るように読み解くことで両作と石井隆の劇の一面を探ろうとしている訳だが、上述の台詞にあったように「この世ではお目に掛かれない」物を蒐集する田代老人(石橋蓮司)は「まれびと」であるらしい。こちらが「まれびと」と称されるならば、もう一方『死霊の罠』の死線すれすれの廃墟に居つく奇怪な兄弟ヒデキもまた「まれびと」の位置付けとなるだろう。

「まれびと」とは一体何か。『花と蛇』に突如出現したこの形容は何を言いたいのだろう。興味を覚え、何度か此処でも触れてもいるのだが、正直今もってよく分からない。博物館に足を伸ばし、書籍をひもといたりもした。自然とこの響きに磁力を覚える日々を送っている。

 我が国には「まれびと(来訪神)」を村人が演じる祭祀が各地にあり、これを精力的に取材した石川直樹(いしかわなおき)の写真集が昨秋発売されて書店の棚を華々しく飾っている。書名はそのまま「まれびと」であり、発売後、直ぐに手に持って目を通している。石川の写真は一見に値するが、巻末に収められた伊藤俊治(いとうとしはる)の解説もまた面白かった。伊藤は牙剥く仮面や威圧的な棒を振り回す異相に対して恐怖し、交信の不可能性を嗅ぎ取った上で人間にあらざる神を強く想っている。

「このような異形の神々は、神が人と同形ではないことを明確に表明している。人を恐れさせ、狂気に満ち、決して人間化されることのない猛貌の神々として出現するのだ。その臨在を人間が最初に認識し始めた頃の神の原初的形態は、人々に安らぎや幸せをもたらすような形姿を持っていない。逆に人間に戦慄を与え、畏怖の念を起こさせ、この世に暴力的に介入し、侵犯し、荒ぶる霊性を振りまく存在として姿を現わす。」(*4)

 これはまさにヒデキのことを述べているようではないか。蛭子(ヒルコ)神とも嬰子(えいし)とも見える猛貌の霊性。あれは確かに「まれびと」的な造形だった。このように連想することは間違いだろうか。

 石川の写真は禍々しい祭神、決して人間化されることのない神々と同時に、きわめて人間臭いところも併行して捕らえていて、村人が代わる代わる演じ続けてきた長い歳月と祈りの日々の精神的土壌も滲み出てくる。多重露光なった素の部分、衣装を纏った村人の素朴な姿からわたしの脳裏で連結されるのは、今度は『花と蛇』の方のまれびと、田代老人の身体的な弱弱しさ、神ならざる等身大の人間のなれの果てである。

 超自然的な影響の作用する怪異な存在、『死霊の罠』のヒデキを私たちは化け物、特殊撮影の作り物と捉えては、くわばらくわばらと生理的に向こうへと押しやり、真っ当な思考回路を持つ存在として見たり考えたりはしなかったが、『花と蛇』と『死霊の罠』両作の血管をつなげて(作家性の強い石井作品群にだけは許されるし、むしろそうすべきと考える、)託された囁きを推理しながら再度味わい直すことで、まるで違った感懐に至ることが可能となる。

 両作を往還して徐々に誘われいく次の思索は、石井隆の作品に時おり出現するまれびとの発生に何がかかわり、そんな彼らは異界の者であるのか、それとも私たちの側にいるのか。彼らは主人公を脅す役割だけのいわば脇役なのか、それとも石井のまなざしが熱く長く降り注いでいく人間なのか、という問い掛けである。こちらに関しては後述する。

(*1):『花と蛇』準備稿 シーン番号19 遠山の社長室(時間経過の同夕)
(*2): 同       シーン番号58 円型コロシアム(時間経過)  
(*3):『月下の蘭』決定稿 シーン番号66 ホール状のペントハウス
(*4):「まれびと」 石川直樹 小学館 2019 242頁 伊藤俊治「異界を纏う/写真、仮面、憑依」



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