この相似する展開と磔刑図の執拗な二度書きからは、石井なりの芯のある想いが託されて感じる。聖書を下敷きにして劇を編んでいる、と誰もが想像をめぐらすだろう。深く信仰に染まっており、それでこんな烈しい妄想を抱くのだ。石井作品を身近に感じずに来た人は、特に強く感じるに違いない。
実際、石井世界の端々に宗教画は溶け込んでいる。劇画と映画を丹念に読んでいくと構図や描写が単に似るだけでなく、その物ずばりの絵画が画面に取り込まれさえする。しかし、石井は決して敬虔な信徒ではない。語弊がありそうだから慌てて言い直せば、インタビュウを多く読み、たゆたうような面持ちのあの内省的な小文をこれまで幾つも蒐集して目で追いながら蓄積なる答えは、石井隆という人は聖画をせせら笑い、ふざけた態度を貫く不義者(ふぎもの)では当然ないにしても、では「信仰心」と世間一般で称される前傾の想いが厚く、教会や寺社へ足繁く通っては法話に耳を傾けるタイプかどうかといえば決してそうでないように思える。
針の触れ方は一方にだけ傾ぐことなく、私たち同様にゆらゆらと揺れているし、人間とは元来迷いや疑いを抱きながら、そして奇蹟を望みつつも絶望に甘んじていく動物であり、それを承知で周囲なり万物を見渡すべきと頑なに信じているのじゃないか。
熱心な石井の追尾者のなかには、名美という存在を十字架の聖人と連結させ得た猛者もいて、かつてそれを聞かされた際には大いに舌を巻いたのだけど、では自分の内部で名美なら名美をキリストと隙間なく溶接して一体化し得るかといえば、本音を晒せばよく解からない。泥濘(でいねい)に立つ白鷺のごとき悪夢的コントラストで描かれた性愛の修羅場と、いにしえの聖人の刑死の様相を重ねることは受け手内部の自然な共鳴と了解はする。されど、復活にいつか通じる聖人の苦闘と石井が捉えるどん詰まりの人間模様のそれぞれの輪郭が綺麗に重なっていかない。
現世という地獄の釜で、烈火にぐらぐらと煮込まれていく人間の運命を哀れとも愛らしくとも見やり、凄絶な美しさをそこに認めて内心たじろぎつつ、ただただ言葉なく立ちすくむばかりの救いのない各作品の終幕を面前にしてしまうと、素直にキリストと合致させることに抵抗を覚えてしまう。
その同好の士とは一度とことん意見を交わしたいと願っていたのだが、機会を得られぬまま今に至っている。そもそも仮に面談出来たとして、一体どんな答えが導き出せようか。この手の話は堂々巡りとなるのが常である。何となく気恥ずかしい気分にもなる。もしも石井本人に面会し得て、あのような映像をどう考えて透視したものか尋ねたところで、例のごとく微笑むばかりできっと答えてくれないだろう。これはもう誰に委ねることなく、ただただ私見を突き詰めていくより仕方がない次元の話だ。
石井ほど宗教に近しく、聖人から遠い者はいないように思うがどうだろう。石井の劇は奇蹟の顕現に満ち溢れているが、「神仏」自体による生々しい救済は終ぞ起こらない。肉体と精神が危機に瀕した登場人物の頭上を、お構いなしに悠然と飛び交う旅客機のように、「神仏」は平然と通り過ぎて一向に顧みることがない。明確な救世主の登場はなく、誰もが助からないまま崩れ折れていく。この辺は石井隆を語る上で極めて重要と思う。
ならば何故に時をまたいで湧出した『死霊の罠』と『花と蛇』の聖人描写におまえは驚き、これを世間に紹介するのか。さも石井隆がキリストの受難を常日頃から意識し、ヒロインの苦役や悲惨を重ね合わせては秘かに「おんな」を崇拝する男と決めつける展開ではないか。生涯かけた男の創作行為をひとつの型に封じ込めるような引用と解釈は、過去とこれからの彼からの発信を封殺しかねない危うさはないか。
言い訳ではなく、『死霊の罠』と『花と蛇』の台本ふたつの記述を通じて導き出されるものは石井隆を語る上での要諦だが、主軸は聖人「キリスト」ではないのだ。まなざしの「ずれ」が露出している点にこそ目を寄せるべきであり、それこそが私たち読み手にとっての最大の驚きである。
『花と蛇』でメッシーナの磔刑図を模して描かれたものを前とした際に、中央の聖人へ注がれたまなざしがするすると右へ左へとずれを起こし、両脇のふたりの罪人の肢体にかぶりついていくその「移動視線」。また、さながら絵画集に載った瀕死のキリスト像に顔を寄せまくり、1cm程の至近距離で頭部に冠されたいばらが肌を刺し、深く無数に傷つけていく様子を「凝視」した挙句、これを模して女の顔写真に虫ピンが刺さないでおかれぬ登場人物を創出してしまう『死霊の罠』の狂おしさ。
物象を視ることに真摯ゆえに石井の視線というのはひたすら「ずれていく」、はたまた「凝視していく」。これ等は明らかに「画家」のそれであろう。一般人が虚ろな顔で流し見してしまう箇所に足を止め、逆にぐいぐいと接近していく。大局や流行にはおかまいなしである。いわば「縁辺(えんぺん)へのまなざし」と呼ぶべきものが石井には具わっていて、作劇を支える根っ子のひとつになっている。これ無くして石井の世界は有り得ない。
たとえば映画でいえば『死んでもいい』(1992)の冒頭、大月駅の線路隔てたホームを家路に急ぐ大竹しのぶの豆粒ほどの歩む姿であるとか、『ヌードの夜』(1993)で消波ブロックの上に登ってあてどなく行き来する余貴美子のケシの実並みに小さくて心細い風情であるとか、そういった「凝視を求める」構図に見事に活かされていく。また、同じく『ヌードの夜』で床面に毛布をかぶって寝ていて来訪者の視線から完全に外れた位置にいる竹中直人の登場場面に例示されるように、字面そのままの「見捨てられた、顧みられぬ存在」への強いまなざしへと結実していく。天下国家とは無縁の、むしろ一般社会からも半ば放逐されて境界すれすれに住まわざるを得ない人間へと石井のまなざしは注がれ続け、寄る辺なき者の隣にいつの間にか音もなく佇んでいる。
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