2020年2月14日金曜日

“まるで瀕死のキリストのよう”『死霊の罠』~生死に触れる言葉(7)~


 再度『花と蛇』(2004)に潜水する前に、石井演出ではなく池田敏春の手になる『死霊の罠』(1988)について触れたい。『花と蛇』の絵解きに『死霊の罠』をわざわざ引っ張り出す理由は、劇の構造にきわめて似通った箇所が認められるからだ。

 『死霊の罠』は軍事施設の廃墟に迷い込んだ複数の男女が得体の知れぬ心霊じみたものに翻弄されたあげく、一人また一人と襲撃され、やがて殲滅に至るという恐怖映画である。その劇中での酸鼻をきわめる冥府めぐりは、石井という絵師によって隅々まで企てられたものだ。世間には池田が脚本を書き直した旨の記載が一部見受けられるが、仮にあったにしても極めて瑣末なレベルでの変更であろう。台本上にはまさに石井の手で狂いのない主線(おもせん)が引かれており、うつくしく仕上がった下絵に向かって池田が彩色を施した流れである。

     数枚の古びた写真が立てかけてある。
     その一枚を見て、名美、驚く。
     母親とその手をしっかり握った少年が立っている。その少年は、
     あの男、大輔に似ているようでもあり………いや、確かに少年
     時代の大輔だ。
     そして、その母親は………その女の顔は……… 名美にそっくりだ。(*1)

 上に引いたのは『死霊の罠』の終盤を飾る描写だ。容赦ない残酷な殺戮がくり返され、廃墟空間に生き残った者は主人公のおんな(小野みゆき)ひとりとなっている。妙な風体の若い男(本間優二)に誘われるようにして足を踏み入れた小部屋で、おんなは自分に似た顔立ちの別のおんなの写真を発見してしまう、というショッキングな場面である。

 実際の映画を面前とした多くの観客は、この唐突な場面挿入に実は気持ちが追いつかない。いわくありげな親子写真の中のおんなは主人公を演じた女優が二役で撮影されたものであるのか、それとも顔だけ合成ではめこまれたのか一瞬間だけでは判然とせず、嚥下し得ない異物感がどうしても渦巻いてしまう。同一人物とはどう見ても思われず、別人として見切るより仕方ない。前後の流れから主人公は即座に自分と「そっくり」であると勘付き、連続殺人者が自身と母親像を勝手に重ねている事を察して慄(おのの)くのだけど、観客たちがこの危うい展開につき十分に了解するのはフィルムのコマがさらさらとしばらく流れた後である。

 とても「そっくり」とは言えない写真を登用したのは演出上のミスなのか、それとも、池田があえて混迷を手引きして観客の不安を煽っているのか。その辺りは解からないが、過失であれ故意であれ、石井の意図するものを素直に汲み取れてはおらないのは事実である。台本のト書きはさらに続いていく。

     しかもその女の顔には、、残酷にもたくさんの虫ピンが刺されていて、
     まるで瀕死のキリストのようだ。(*2)

 畳かけるように異様な描画が準備されている。経年でやや反った印画紙に定着なったモノクロームの面影は、金属製の無数のピンで突き貫かれていたのである。

 しかし、先の「そっくり」に続き、ここでの池田の演出も適確さを欠いたと言わねばならない。もしかしたら十分な理解に至らぬままに終わった観客も居たのではないか。大概の読み手は写真と虫ピンの組み合わせを猟奇犯罪者の戯れと捉えたまま、混沌する闇をラストシークエンスまで追い立てられていく。肖像写真に託された歪(いびつ)な愛憎の発露や、舞台を覆い尽くしている重く淀んだ動機について想いを馳せることが正直かなわない。

 石井は実にこの時「瀕死のキリスト」と形容していたのである。映画を観た者のうち、はたして幾たりが聖人の磔刑に思い至っただろう。丑の刻参りの五寸釘を連想するか、それとも選挙ポスターか何かにされた画鋲による悪意の悪戯を思い起こすのが関の山だ。映画と台本は別物と言われればそれまでだが、完成された『死霊の罠』だけを漫然と眺めていても石井世界の劇構造の類似と連続に思い至ることは難しいように思う。

 此の文章は石井隆をめぐる思索の旅路であるから、仕上がった映画『死霊の罠』からやや乖離する事にはなるけれど、冒険的に石井の台本にひたすらにじり寄り、そこに何が描かれているかを玩読したい。池田の手腕を悪く捉えている訳でなく、石井の劇で繰り広げられる幾多の性愛劇を貫く脊髄が露出し、そこに何が流れるかを垣間見せる重要な一行が在ると思われる。

 「まるで瀕死のキリストのよう」という石井の記述から想起される具体的な磔刑図は、さてどんな絵柄であるのか。丘陵に突き刺さった十字架と、これに四肢を打ち付けられた人体を描くのが磔刑図の基本構図である。左右にはふたりの罪人も同じかたちで並べ置かれることが多い。両手を左右に広げて固定された三人の男の身体を四角い額内に配置すると、自然と遠景になっていき、見る側と聖人の距離はみるみる広がっていく。

 無惨な傷口は精彩さを失って曖昧となり、コップのふちに居残る乾いた口紅の痕めいたとりとめの無さか、半日ぶりに外した紙製マスクの内側に点々と染みを作る鼻汁の成れの果てのごとき儚さとなって致死的な損傷の実感を失う。そもそも聖性を付された男の顔立ちには俗世に蠢く煩悩具足の凡夫への憐憫や情愛の滲出が眉根のあたりにじわりと顕されており、厳かな面体を見上げるわれらは生きた身を襲う激痛をそこで想起させることが難しい。宗教画家たちも奇蹟の顕現を匂わせる黒雲や、足元に集いさまざまに明滅する人物の心理描写に注力するばかりである。

 十字架上の聖人像はなるほど「瀕死」の状態にあるが、永遠の生命が既に約束されていて、「死」から急速に遠のいている。もはや「瀕死」の際から回復して「蘇生」と「栄光」へと突き進んでいるのであって、神の子の肢体は逞しく堂々と息づくのである。

 石井が私たちに見せたい描写は決してそれではない。「顔にたくさんの虫ピンが刺された」様子と「瀕死のキリスト」を結束させた石井が導くのは、遠目で窺う刑死の記録図ではなく、明らかに肉の痛みであり生理的不快の頂点である。「たくさんの虫ピン」というのはいばらで編まれた冠を指し、それが額やこめかみにきりきりと刺し入り、頬や喉、瞼をざっくりと裂いていく様子なのであり、たとえばマティアス・グリューネヴァルト Matthias Grünewald の描く祭壇画の、執拗に筆が重ねられた獄死の詳細描写にも似た傷ましさを想起させようと努めている。

 おんなという存在を聖母や阿弥陀如来に似た厳かにして平穏無事な佇まいに押し上げるのではなく、キリストや彼と共に磔なった左右の罪人と同然の肉体の痛苦へと突き放し、それが一時的ではなく延延と解放されぬまま続いていく。現実世界で日常化している性愛の地獄をこれに重ねて、人間としておんなが一方的に負わされがちな差別と重圧をひたすら想い続ける。

 このト書きはだから役者を焚きつける鞭でも餌ではなく、美術部への差配でもなく、『死霊の罠』という物語の核心部分であるのだし、ひいては執筆者石井隆の恋愛劇の一局面に関するかたくなな姿勢が如実に表されている。

 テレビモニターに映し出される女人と記憶の底に居続けるおんなを重ね合わせて激しく懸想(けそう)し、自らの精神構造を拡大させた洞窟めいた場処へといざない、痛みを執拗に与えながらもそれが直接的な肉の快楽と結び付かず、徹底した宗教画の再現となっていて単純な嗜虐性向の具体化ではない。これはどう見ても『花と蛇』と双生児の作品であろう。粘ついた視線で嗜虐性愛の坩堝を撮り切った『花と蛇』とはまるでジャンルを違えて見えるかもしれないが、同一の骨格を有していると言っても構うまい。

 台本上のト書きには石井の振るったノミ跡があざやかに残されており、二作品を取替引き替えして眺めることで炙り出される共通の刻線が見つかる。それが烈しく発光してひと筋の白い道を示していく。それぞれが独立していながら、一反の織物の左右に綺麗に裂け目無しに連なる姿が見えてくる。そこに石井のまなざしが確実に活きている。

 両者の間に十六年という長い歳月を挟むにもかかわらず、まぎれもなく彼の世界に捕りこまれているという厳然たる事実を前にして、強靭と形容してもぜんぜん誇張とは言えない畏るべき持続性、鬼気迫る連続性に言葉を失うのである。

(*1) (*2):『死霊の罠(仮題)─コンクリート・ハンティング─』(決定稿) 78ページ シーン番号61 医務室。





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