2018年4月29日日曜日
“重力にあらがうこと”(7)~雨のエトランゼ~
石井隆は劇画から台本、そして映画創作のそれぞれの局面において、投身するおんなを何度も描いてきた。【雨のエトランゼ】(1979)と似た場面もあれば、逃避や復讐、救命を目的としたもの、アングルがまるで違う物など多種多彩だ。ある意味、石井隆ほど投身というアクションに魅了された作家はいない。読み手はさまざまな面相をした跳躍や墜落を見せられ、そこに既視感を抱きながらも気持ちはやはり緊縛されていき、固唾を呑んで劇の成り行きを見守る羽目となる。
情念と欲望、保身と現実のべたべたした癒着に誰もが疲れ果て、ついに誰かが、それは大概がおんなたちなのだが、高い屋上や階層から身を宙に躍らせる形を取る。観賞を終えて冷静になって振り返れば、石井がいかにその行為に活力を持たせようと心血を注いでいるか分かってくる。いや、その前段階として、跳躍や墜落の現場の臨場に対して想像を膨らませ、頭のなかにそこにある物すべて、室内装飾から人体から、風向きや雲の動きといった天候や、何にも増して人物の表情と思考の細々としたものを構築しようと躍起になっているのが分かる。
たとえば【女高生ナイトティーチャー】(1983)という短篇において、男は起床後に目にした新聞に知り合いのおんなの転落死亡事故の記事を見つけてしまい、凍りついたようになって読み進めるのだったが、その硬く微動だにしない背中の裏でまざまざとおんなの窓をつき破り地上に落下していく様子を幻視してしまうのである。石井隆という劇画作家が担ってしまったハイパーリアリズムの手法が、この徹底した想像を自身に迫り、また、劇中の人物にも求めてしまっている。
【女高生ナイトティーチャー】の墜死について言葉をさらに繋げると、その一連の頁で唸らされるのは石井のアクションへのこだわりであって、墜落直前の人体にそなわった慣性が次にどのような落下の姿勢を決定づけるか、とことん幻視し尽くされているところだ。その繊細というか、そら恐ろしい想像の広がりに私たちは言葉を失う。おんなは強い力で何度も窓ガラスに後頭部を打ちつけられ、ひび割れ、飛散していく破片と共に宙へと舞っていく。それぞれに付された慣性の力が人体とガラス片に働き、放物線を描いてゆるりと押し倒すのだった。そのままおんなの身体は仰向けとなって、遥か地面へと音もなく弾かれていく。石井劇での人体落下とはどのような描写を言うのか、その特性がしっかりと描かれていると思う。
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