昏い電燈の下、石井隆の本を枕元に引き寄せ、そっと薄目で眺める夜がある。身体が火照ってたまらない訳ではないし、生きている実感が欲しくて皮膚(はだ)下の冷えた血をたぎらせるべく、火種を突っ込み煽っているでもない。眠りを邪魔しない、おだやかな小一時間になっている。
考えてみれば、この初期の劇画群を石井が作ったのは三十代前半であったから、自分はもう随分とその年齢を越えてしまっている。折り返し地点を過ぎてもはや恋情に惑う楽章でもないのだけど、なんだか無性に石井の苛烈な場面に引き寄せられる。作中に点々と置かれた断崖に近づき底の方をじっと覗き込みながら、くぐもった囁き声に耳を澄ます。いずれおまえもそうなる、この頸木(くびき)からは絶対に逃げおおせないよ、そろそろ順序が廻ってくるから身辺整理に入ってはどうなの。変な喩えで笑われそうだけど、死を巡る場面に視線を縛られる。厳粛な気分で頁をめくっている、それが実際嘘のないところだ。
新旧通じて数多(あまた)の“死教育”を石井隆作品から受けた私たちにとって、また、年齢を経て幾つもの野辺送りを済ませてようやく胸に抱くのは、石井の劇における死の内実は存外リアルなものだという、乾いた、同時にいくらか勃い感懐である。村木たち、名美たちは異常極まる状況に追いやられ、現実にはあまり見ない稀有な死出の貌(かたち)を取るのだけど、そんな画面上で交わされる感情の往還は現実の私たちのそれに近しい。
其処に天寿を全うする者はほとんどおらず、登場人物の生は中断を余儀なくされる。渡河してからでさえ憂いをいつまでも引きずり、彼らは歩み続ける。冥界が本当にそんなものかどうかを知るすべはないが、なんとなく当たっているような気になる。未整理のまま淵に飛び込み、支離滅裂になっていく寂寥感あふれる険しい局面こそが実際の死じゃないだろうか。ずるずると整理がつかない、そんな物じゃあるまいか。
そういえば、映画『花と蛇』(2004)と『花と蛇2 パリ/静子』(2005)において、また、先行する劇画【黒の天使】(1981)の挿話のひとつにおいて、石井は高齢者の死を活写していた。テレビモニターやマジックミラー越しに或る日おんなを見初め、粘つくように凝視した挙句に思考を持っていかれる。いつしか記憶の火鉢に溜まった灰の奥から、橙色(だいだい)に息づく情念が顔を覗かせ、男たちは犯罪まがいの際どい蒐集や止むことのない官能遊戯に取り憑かれていくのだった。その末路は混沌を極めるのだが、突如ざっくりと斬り落とされて舞台をのたうっていく。
望み叶って手中にした仄(ほの)明るい肌のかたわらに横臥し、やがて男たちはおんなにはげしく組み敷かれて死んでいく顛末なのだったが、はたして彼らは昇天し得たのだろうか。煩悩を見事なまでに振り払い、歓喜の渦に抱かれてこれまでの人生の苦役を忘れ、ああ、ようやく終わった、有り難う、と溜飲を下げたのかどうか。実はかなり疑わしいところがある。私見にはなるが、一見幸福そうに描かれた老人たちの臨終の奥まったところは、やはり相も変らぬ急な崖なり薄暗い森との対峙であり流浪であった。
石井の指し示す死は常に不可解で、無情で、それゆえに忘れ難い。荒涼とした風景が累々と列なって記憶に刻まれていくのだけれど、どうしてここまで鮮明に刷り込まれるかといえば、それは奇観であるよりも以前に現実の死と本源的なところで重なって、容赦がなく、力強いからだ。石井が描いたあの道を誰もが辿るより仕方ない。割り切れぬ節目の刻(とき)を迎え、瓦礫だらけの廃墟然とした路を誰もが歩むに違いない、と読み手の多くが信じてしまう。
劇中の自死にしても大概がはげしい錯乱をともなうものであり、安らかな幕切れには至っていない。残された友人や係累においては悔恨や疑念に苛まれる域では収まらず、むごい災厄が直接襲いかかる。さながら髪の毛をがしがしと掴まれ、地べたを思いきり引きずられるのが石井の劇の常套、あらがえぬ手順書だから、死はまったく終点ではなく、むしろ起点となって機能している。『夜がまた来る』(1994)しかり、『GONIN2』(1996)しかり。死が幕引きの道具とならない。
花冷えとなったここ数日は夜気に震え、布団に包まりながら、石井劇画の代表作【雨のエトランゼ】(1979)ばかりを読み返しているのだが、これもまた混迷の度が高いひとりのおんなの死出の山路だった。完全版(*1)がワイズ出版から出されたのは十八年程も前であったが、ミルキィ・イソベの装丁が美しいあの紅い本がどうした訳か見つからない。誰かに貸したままとなったのか、それとも整頓下手の私が迷子にしてしまったのか。仕方がないので古書店から別のものを送ってもらい、昼夜駆けて喉を渇した馬みたいになってがぶがぶと読み返しながら、これは相当に不可思議なひとの最期が描かれた、また随分と石井隆らしい鏡面構造体だといく度も面白く感じた。
巻末に添えられた反古(ほご)原稿は、石井隆という創造主が秘めた恐るべき執念やワンカットなり台詞ひとつひとつに徹底してこだわる堅牢な作家性をひも解く上で、きわめて重要な付録となっている。作品の熱量と編集人の熱意とが束となって伝導を果たし、こちらの脳髄を温める。やはり名著の風格がある。読み直して良かったと思う。
出版者、寄稿者の石井劇画に向き合う真摯さにほだされたところが正直あるし、また、このところ私が囚われ続けている考え、人と重力との間をめぐる駆け引きにちょうど巻きつき共振して、【雨のエトランゼ】について考える時間になっている。名美の投身する姿を石井は圧倒的な筆力で紙面に彫り込んでいるのだが、茫然と見送るしかなかった村木同然の虚けた顔になって、なんであんな事になったのか、どうして石井はあの形を選んだのか、めでたい桜の季節なのに、屋上から見やる厚い雨雲ばかりを想っている。
(*1):「おんなの街 Ⅰ 雨のエトランゼ」 石井隆 ワイズ出版 2000
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