2016年4月27日水曜日
“帰一”~着衣の根源②~
石井隆の世界を考える上で避けては通れぬ関所と信ずるが、やや躊躇してしまう自分がいる。まったく無関係の間柄の事件に触れようとしている。人間同士を、それも一方は犯罪者を、横一列に並べて書くことはいかにも乱暴で稚気が過ぎるのでないか。
改めてここで確認したいのは、石井隆は娯楽の提供者に過ぎないという点だ。社会の一員として生業に励んできた事は私たちのよく知るところだし、堅い倫理観を基盤と為して、物語世界をしっかりと支えている。不穏な方角への漂流を許さず、針路を決して誤らない凄腕の舵取りであればこそ、私たちは長年に渡って身をゆだねてきた訳である。クロノメーターを村木に、六分儀を名美の姿に変えて魂の夜を航っていく、石井の物語は一種の海図であり、人間全般の不思議を探る夢路に過ぎない。
過ぎない、過ぎない、と、まるで高飛車な言い方だけど、このような烈しい語句を用いないと誤解を招きそうな危険水域だ。概要を私の手で要約してしまうと、どうしても主観が加わってしまうから、まずはウィキぺディアから全文を引いてみる。八十年以上も前、世間を騒然とさせた事件のあらましがこれだ。
「首なし娘事件(くびなしむすめじけん)は、1932年(昭和7年)に愛知県で発生した殺人事件。詳細な事情は不明であるが、男が恋愛関係にあった女を殺害し、さらに遺体を切断したものである。解体された遺体の状況が、常軌を逸したバラバラ殺人であった。
事件の概要 1932年(昭和7年)2月8日、愛知県名古屋市中村区米野町の鶏糞小屋で、若い女性の腐乱死体が発見された。体つきから女性と分かったものの、遺体は常軌を逸した損傷を受けていた。頭が切断され持ち去られていた上、胴体から乳房と下腹部がえぐり取られていた。捜査の結果、遺体の身元が19歳(当時)の女性と判明。彼女と恋愛関係にあった和菓子職人の男性(当時43歳)が、1月14日に仕事先の東京から舞い戻り、旅館で彼女と何度も会っていた形跡があった。警察は、聞き込みの結果から、1月22日ごろ和菓子職人の男性が女性を殺害した上、遺体を切り刻んだと推測。彼を指名手配したが、行方はつかめなかった。
ところが2月11日、犬山城にほど近い犬山橋近くの木曽川河原で、被害者の頭部が遺留品とともに発見された。頭部からは頭髪とともに頭皮がはぎ取られていたうえに眼球がえぐられ、下あごが刃物で著しく損壊されていた。
さらに3月5日。頭部の発見現場近くの茶店の主人が、掃除のため別棟の物置を開けようとした。ところが、引き戸は中から鍵が掛けられている。いぶかしみながら扉を外して入ったところ、異様な姿の首吊り遺体を発見した。死後1ヶ月経過した遺体は腐敗が進んで猛烈な臭気を発し、腐乱死体であることを差し引いてもその姿は常軌を逸していた。遺体の正体は中年の男性で、頭には長い頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのようにかぶり、女性用の毛糸の下着の上に黒い洋服を着て、足にはゴムの長靴をはいていた。上着のポケットには女性の財布が入っていたが、その財布に入れていたお守り袋の中身には女性の眼球が収められている。さらに小屋の片隅にあった冷蔵庫には、名古屋市で発見された被害女性の遺体から持ち去った乳房と下腹部が、安置でもするように隠されていた。遺体の正体は、被害女性の頭皮をかぶり、その体の一部分をたずさえた犯人(和菓子職人の男性)であった。
群馬県で生まれ育った犯人は、若い頃から神仏を篤く信仰し、死後の世界の存在を信じて疑わなかった。後に和菓子職人となった彼は東京・浅草で和菓子店を営み、妻と子供にも恵まれていたものの、1923年(大正12年)の関東大震災で店を失う。彼は妻子を捨て、仕事を求める旅に出た。その道中である女性と知り合い、名古屋市に落ち着いて所帯を持つことになる。犯人は饅頭工場で働き、後妻は裁縫を近所の娘達に教えていた。この裁縫教室の教え子の中に、被害女性がいた。やがて健康がすぐれない後妻は裁縫教室を閉じて入院し、被害女性は師匠(後妻)の元へかいがいしく見舞いに通っていた。その生活の中で、犯人は被害女性と関係を持つようになる。1931年(昭和6年)秋、後妻は看病のかいもなく病死。後妻の遺体は献体されたが、犯人は妻の遺体が解剖されていく有様を、目もそらさず見守っていたという。
やがて犯人は、些細なことで工場を辞職。心機一転を図って12月に上京したものの、内向的な性格も手伝って仕事につまずいた。そして、昭和7年1月14日に名古屋に戻り、被害女性を旅館に呼び出した。その後は昼も夜も無く情事にふけった末、彼女を最初の事件現場に連れ込んで絞殺、遺体を損壊した。
犯人は、最終的に愛する女性との一体化を望み、彼女の頭皮や下着を纏って自殺を遂げたものと思われる。
合田一道+犯罪史研究会『日本猟奇・残酷事件簿』扶桑社 2000年 ISBN 4-594-02915-9」
以上がウイキペディア掲載のすべてであるのだが、この手の猟奇犯罪を列挙する書籍に載る内容もそう大差ない。不可視領域が広く、これ以上の深堀は当時も今も難しいと思われる。それにしても凄絶で血なまぐさい景色がこれでもかと脳裏に浮かび、まったく悪夢でも見そうだ。胃のあたりが痺れたようになって、なんだか口の中が妙に酸っぱい。
思考の翼がどれほどの黒雲にもみくちゃにされても、天と地を取り違えることはなかった、劇中に大量の血の雨が降ろうとも、それは一個の人間が想像力を駆使して為した舞台化粧に過ぎなかった、そんな石井隆の画業と、ここまで完全にとち狂った実在の罪人のふるまいを連ねて書くなんて、やはり言語道断で罰当たり以外の何ものでもない気がしてくる。
この事件について、それでは世の識者はどんな見解を抱いたものだろう。異常な顛末であるけれど、犯罪を見慣れた目にはどのように映ったものか。手元に置かれた関連書籍の何冊かをめくり、該当する声を抜き書きしてみよう。
劇作家で評論家でもある山崎哲(やまざきてつ)は、「かれが切り取ったのは女性性徴というより、母性性徴だった」、「母に同一化したかったのだと、なんだかしきりにそんな気がしてならない」と書いている。(*1) ノンフィクション作家および犯罪評論家の朝倉喬司(あさくらきょうじ)は、「異常というもおろかな事件のありさまだが、見方を変えていえば、これは一種の情死、心中である。おそらく2人には、一緒になりたくてもなれない何らかの事情があったのだろう。2人は死の前、名古屋市内の旅館で、セックスに没入していたことが確かめられている。事件は、「性」の濃密さが2人に「死」を越境させ、異常性愛が必然性を帯びて事件になったものと見てよさそうだ」と説いている。(*2) 表層の奇怪さから最初は慄(おのの)くだけであったのだが、なるほどそういう胸中であったかもしれぬと頷き、何となく可哀想に思える。瞳を震わせた緊張がみるみる解けて感じられる。
また、女装行為を主題に据えて日本人の根幹を探る本においては、頁をかなり割いて当事者の心理を考察しているのだけど、読み進むこちらの内に明らかな心象の変化が起きていく。少し長いが書き写す。
「遺屍から各部を奪いとったことは、(中略)最愛の女性(あるいは女性という性)になりきって死にたいという動機から出ているのであり、惨虐行為自体に目的があったとは考えにくい」、「目的は、直後にそれらを身につけ「変身」して自殺するためだったのである。」「阿部定が、殺した相手の陽物を「形見」として持ち歩いたのとは、かなり異るケースだと言わざるを得ない。」
「一女性を超えて、女性一般に帰一しようとしたと思われる節がある。」「事件のわずか二年前、所帯を持っていた(氏名/後妻)を亡くしている。死にあたっての「女装」には、(氏名/後妻)に対する思いも込められていると把えられないか。さらに、死に直面して、生命の始源としての女性に帰一することによって不安をやわらげ、同時に再生を期待するといった心象が、彼に働きはしなかっただろうか。」
「死者の衣服及び外被をあえて身につけることにより、死霊(死穢ではない)を自らに引き受け、それに帰一しようとしたのではなかったか。そして彼が帰一しようとした死霊とは、(氏名/被害女性)の死霊であったと同時に、一女性を越えた女性一般の死霊でもあったのではなかったか。」(*3)
死者には言葉がない。私たちは真摯に思いをめぐらせ、虚空に指先を伸ばすより他に為す術はないけれど、人間の内奥を探求し続けた彼らのつぶやきには力がそなわっている。推論ばかりの文面となってしまうのは仕方ないが、どの意見もこちらの懐に到達してぶるぶる震動し、冷めた体温をやさしく呼び戻すようだ。
文字列を目で追いながら、石井世界の劇中にて倒れていった、いくつもの寄る辺なき魂がゆらゆらと佇立し始める。あの影も、あの所作も、この実在した男女ふたりの最期とどこか似ていると感じられ、木霊するその声が徐々に大きくなっていく。
(*1):「物語 日本近代殺人史」山崎哲 春秋社 2000 117頁
(*2):「都市伝説と犯罪―津山三十人殺しから秋葉原通り魔事件まで」 朝倉喬司 現代書館 2009 192頁
(*3):「女装の民俗学 性風俗の民俗史」下川耿史、田村勇、礫川全次、畠山篤 批評社 1994 104頁、106頁、110頁
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