事件であれ事故であれ、肉体の損傷がともなうと別格扱いとなる。紙面を飾り、書籍にも繰り返し取り上げられる。特に“切断”という字面には非常用ボタンの役割があって、眼球の後ろあたりのぼんやりした部分をぱっと覚醒させる力が宿っている。恐怖を煽り、ざわざわした生理的嫌悪を抱かせる。もしも身近で起きたときには、誰もが警鐘を鳴らすべく躍起となるように思う。本能に由来するこの咆哮は絶対であり、私たちを強引に引きずっていく。
小説、劇画や映画といった創作劇においても“切断”は際立った色彩を帯びるが、石井の世界においてはどうであろう。魂と肉体が暴力組織に蹂躙されていく状況を好んで描くことから、人体の“切断”が挿入される局面が多々あるのだが、そんな石井の劇画作品と映画作品を通じて、そこに一定の方向性のようなものが見え隠れするように私は感じている。
石井作品のみを凝視してもなかなかこの暗黙の指針は明らかにならないのだけど、よく似た題材の他者のものに触れた後、余韻にひたりながらふと思い至る流れである。たとえば、最近復刻された上村一夫の【悪の華】(1975)(*1)では、数多くのおんなの手足や首の切断が奔放に、ひどく攻撃的に重ねられるのだったが、同様に女性をつぎつぎに拉致しては縄で固定し、アートバフォーマンスよろしく刃物で殺めていく狂人の寒々とした日常を描いた劇画、【魔奴】(1978)や【魔楽】(1986)をこれと比較することで石井特有の拍子が露わになる。遺体を極力そのままにし、解体して玩(もてあそ)ぶ行為がまず見当たらない。土俵際で踏み止まり、するりと回避する慎ましさ、あえかな抑制の手触りがある。
さらに例示するなら、映画『フリーズ・ミー』(2000)はマンションの一室での孤闘を強いられたおんな(井上晴美)が、襲来するならず者を順次殺害していく話であるが、頭骨もその奥に淀んだ身勝手な思考回路もすべて粉微塵になれ、男など全部どこかに消えて無くなってしまえ、とばかりに腕を大きく振り上げるヒロインの繊細な心理描写とは対照的に、ここで石井は叩かれる側の被害状況の説明を回避する。竹中直人演じるやくざ者を殺める際に、動きを封じるために頭をすっぽり布で覆ってから力まかせに撲っていく辺りがそうだし、殺害後に処分に困って業務用の冷凍庫を買い揃えるにあたって、男たちの肉体を切り刻むことなく、すっぽりと収納なる大型の機種を求める部分もそうで、針が大きく振れる前に薄いベールが被せられ、私たちの視野を白く霞ませる。
『GONIN』(1995)で画布(銀幕)の外に追い出された形の小指二本の切断、『夜がまた来る』(1994)で終ぞ寄らぬままで遠巻きに徹した、やはり指詰めの儀式。『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の冒頭、風呂場で展開される家族総出での人体の細分化作業も同様で、カット割りや構図からはやはり隠蔽の跡がありありと読み取れる。
ゴア(GORE)と呼ばれる昨今流行する残酷描写は、コンピューターを用いて精度をいよいよ高めており、また、特殊メイクも迫真性がより増して、現実の人体損傷を完全に再現し得る段階に入ったと受け止めているが、石井は素材として過去も現在もこれを積極的に採用しない。肉片や骨の存在は俳優のリアクションおよび効果音を介しておぼろげに観客に託されるのであって、それ自体の具体的な接写は控えられる。『GONIN』の風呂桶に浸かった腐乱死体や、やはり『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』での地下洞窟にて壁にもたせかけられたミイラの扱い方を眺めればそれは一目瞭然であって、視野角から微妙に外し、また、遺体損傷の細部が観客に読み取れぬ程度の遠目に、ぐっと引いた位置から撮ろうと腐心している。徹底して迂回してみせて、ある意味、細部までこだわる石井らしい采配が効いている。
石井隆という作り手にとって、人体の損壊はそれでは一体どういう位置付けなのだろう。生理的嫌悪から逃げているとは考えにくい。石井世界を貫いている倫理観に基づく、教育的な配慮だろうか。美意識の問題だろうか。それとも、血や肉といった具体的な描画は物語の尾ひれ、付け足しの部類と考えているのか。例えば『サイコ Psycho』(1960)でヒッチコックが世に送った湯浴み場面の卓抜した編集を意識し、傷口を見せない、殴傷、裂傷のあらましを封じる事で観客の想像力の牽引を図ったものだろうか。
そういえば、わたしたちは最近作『GONINサーガ』(2015)においても、上記のルールに沿った死体損壊を目撃している。相棒であるおんな(福島リラ)を喪った殺し屋(竹中直人)は、その亡骸を前に声を限りに叫び、涙の坩堝と化し、その果てにおんなの身体と頭部を切り離してしまうのだったが、切断行為そのものの時間は画布(銀幕)の外に置かれ、私たちの目から巧妙に隠されていくのだったし、台所あたりから見つけたらしいレジ袋にがさがさ、ごとりと入れられたおんなの頭部は、男の腰のベルトあたりに結ばれて死出の旅路へ帯同されていくのだったけれど、白いビニール被膜にて傷口の詳細は隠されて、血なのか涙なのか訳の分からぬ液体にべったり濡れた髪の毛が少しだけ視認されるに過ぎない。隠蔽につぐ隠蔽、撒かれた煙幕。意図的に挿し込まれた、違和感の漂う空隙。
ここに至って、鈍感な私もさすがに変だと気が付いた。単純な倫理観の縛りではなく、もっと重大な何かが石井の劇の人の殺め方、傷つけ方に潜んでいる。夜目遠目傘の内ではないけれど、石井は詳しく“描かない”ことで観客の興味や想いの集束を図っている、それは間違いはないのだが、ここまで切断が多発し、なお且つ露悪的な描写を徹底して避け続けている事は、作者が切断の“描写”ではなく、その“行為”や“意識”に関して並外れてこだわっていて、相当の思い入れなり信念のあることの裏返しだろう。忌まわしきものと捉えるのではなく、確かな道程としてドラマに組み込んでいる。一体全体、そのこだわりとは何であるのか、何処を起源としているのか。石井の真意とは何だろう。
(*1):「悪の華 上村一夫ビブリオテーク」 岡崎英生 著 上村一夫 絵 まんだらけ 2012
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