岩壁や巨石に彫像された仏神を“磨崖仏(まがいぶつ)”と呼ぶのだけれど、初めて足を踏み入れる町があるときは事前に下調べし、もし近くに有れば日程を調整して寄り道をする。大概は辺鄙な山裾に彼らは在って、周辺には人影らしきものがまず見当たらない。寂然とした大気が肌にしっくり来るし、野仏の儚さ、慎ましさにつよく惹かれる。
建屋で何重にも囲われ、ときには防犯用のガラスに覆われ、湿度計まで片隅に備わって入念に守られたものと違い、その面影というのは、正確に言えば現在進行形で刻一刻と“無”へ突き進んでいる。外気温に直に触れ、風雨に晒され、冬には染み込んだ水の凍結で亀裂が走る。無くなることを前提に生まれ、その宿命に抗わない様子に内心ほっとするところがある。強情を張らなくても良いのかな、と思えてくる。
樹木や苔類の侵食もあるし、置かれた環境の変化とともに顔や胴を撫でる光の照度も違っていく。百年、物によっては千年を越えて居続ける彼らであるから、私たちの生命の尽きるよりも遥かに長くその存在を留めるには違いないけれど、今その時の見姿というのは二度とは再生出来ない道理であって、きわめて刹那的な対面となっていく。一期一会の逢瀬に近しい。どうやらそんな遣る瀬ない性格の時間に魅せられ、灯を面前とする蛾のように寄らずにいられないのだ。
先日のそれは最近の作であり、石工が自身の所有する石切り場に掘った観音像であった。背丈が三十メートル程もある巨大な御姿なのだが、五年前の大地震によって顔の部分がそっくり崩れ落ちている。この欠損により信仰の対象から外され、造った側にしても技能を世に知らしむ役どころを断念したのだろうか、それとも意気消沈して立ち直れないものか、手入れがされず、足元は雑草が生い茂っており、その葉陰には小動物が立てるらしいガサガサいう物音すら聞こえて、実にさびしい場処となっていた。
顔面の消滅により価値を失ったと捉える世間の目は分からないでもないが、しかし磨崖仏とは本来そういう土くれへと溶解していく運命なのだし、むしろ欠損なり磨耗を経ることで見る者の想念を膨らませ、人生の実相や世界の意味を問い直す力が具わると考えるから、これはこれで十分に胸を打つ姿とわたしには思われ、だいたいにして頭部の破壊があったと聞けばこそ妙に気持ちが騒いだのが本音であって、真新しく無傷であったなら、その顔立ちが綺麗であったなら、わざわざこんなところまで出向いては来ない。趣味の域から崇高な仏へと化身を遂げたのだ、と自分なりに解釈している。蒼空を背にした偉容に見惚れ、しばし立ち尽くした。
地響きのなか大地が波打ち、観音の顔にひびが入る。やがて大きく砕けて落下していく様子を幻視することは、痛ましくも胸にひびく時間であったのだし、それをきっかけに五年前の映像が脳裏に押し寄せた。忌まわしき記憶を反芻し、地下深くに隠れ潜んでじりじりと溜まっていく桁外れの力を予感し、畏怖することは大切なことと感じて、のんびりした観光の気分ではなかったにせよ、短時間ながら充たされるところがあった。
それにしても、穿たれたようになった頭部にいくら目を凝らせど、当初の顔立ちはどのようであったか想像することは難しい。色んな顔を付け添えようとしても、軽々と指で弾かれてしまう感じがする。空隙がそのままで自己主張し、安易なすげ替えを拒むのだった。過去に発掘されたギリシア彫刻の頭部や腕の不在を連想したのだったし、加えて絵画や映画における暴力や疾病による身体部位の削奪をいくつも思い返した。そこで湧き上がるさまざまなこころの反射と、風雨に輪郭を奪われていく磨崖仏を前にした際の感懐との段差をあれこれ考えながら、湿ってむかるむ細道を下り歩いた。
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