現実に起きた1932年の「首なし娘事件」で心にとどめ置きたいのは、“頭が切断され持ち去られていた”という箇所と、“頭には長い頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのようにかぶり、女性用の毛糸の下着の上に黒い洋服を着て”という部分だ。最初の状況は『GONINサーガ』(2015)を、後の方は『GONIN』(1995)のそれぞれの場面を彷彿とさせる。
特に『GONIN』にて、二重に現実離れした展開をなぞってみせるジミー(椎名桔平)の末期は、当事件に触発されたと考えてまず間違いない。ナミィー(横山めぐみ)を目前でなぶり殺され、自らも瀕死の態となった男は、かたわらに落ちていたナイフを拾い上げて実行し、身に纏い、よろよろとした足取りで仇の待つ事務所に歩んでいった。例によって凄惨な奪衣の場面は私たちの視界から隠され、観客はいきなり扉の奥から現われたぼろ雑巾のような風体の男に驚かされるのだった。
いや、大いに戸惑ったというのが本当のところであろう。当初『GONIN』を観たとき、私も十分に認識し得なかった。血に汚れたおんなの服を重ね着して哀しみの鬼と化した男の凄みは即座に伝わったが、仁王立ちする全身像を捉えたのはわずか数秒のカットであって、また薄暗がりでもあり、違和感を微かに覚えたものの頭皮、毛髪の装着までは察知し切れず、仰天したヤクザがこらえ切れず嘔吐する様子を怪訝にさえ思った。
ようやく女装の詳細を理解しても、あまりに“非現実的”な想像の産物と思えた。こんな馬鹿な事はどんな狂人だってしないだろう、荒唐無稽すぎる、勇み足ではなかったか。どちらかと言えば観念的な描写と断じて、その展開を訝ったのだった。そんな訳だから、今から八十年程前に生を振り切った男の死装束が、愛したおんな遺髪と衣服であったことを事実と知ったときの驚愕といったらなかったし、自身の視野の狭さを大いに恥じると共に石井の劇の階層がいかに厚いかを再認識した。
石井の画業の戦端となったのが、「事件劇画」、「実話雑誌」という実話系の雑誌への短篇やイラスト掲載であった事をここで思い返す必要がある。庶民の生活に渦巻く実在の事件を題材とし、痴情のもつれから傷害や死に至る顛末を描くことが多かった。また、初期の短篇【淫花地獄】(1976)は、雪原に建てられた見世物小屋を覗いた若い姉と弟が小屋の主である男にかどわかされる幻想譚であるのだが、出し物は奇怪な蝋人形を配したジオラマなのだ。江戸川乱歩あたりが好んだ景色であるが、石井の場合、これが上の事件の十年前にあった別の一件、連続少女殺人の再現となっており、犯人である吹上佐太郎(ふきあげさたろう)の相貌を模した怪人が幕の裏側に息ひそめていて油断した姉弟を手に掛けるのだった。
石井は、現実に生きる人間が何かの拍子に軌道から外れ、破滅していく様子を熟知している。それが壁一枚を隔てた場処にてそっと息づき、浸潤の機会を窺っていることを理解している。映画『GONIN』の構想に当たり、かねてより思案の途上にあっただろう1932年の事件の顛末を流用したことは実に自然この上ない展開であって、何処にも無理がない。
彼の劇をリアルではないと迂闊にも書いてしまう人が今も散見されるのだけど、それは自らの見識のいかに足らないかを世間に公言するに等しい。リアルという概念は実は怖しく狭い。世界は不可視の領域を膨大にかかえているのであって、私たちはひと握りの情報や体験をもって大概を知り尽くしたと錯覚しているだけだ。したり顔で真に迫っている、嘘っぱちだと安易に批評しているが、実際のところは相当に曖昧なものに頼っていて的外れになりがちだ。
周りにはどこもかしこも境界線が張りめぐらされ、何かの拍子に越えた先に待ち構える事態を誰も予想だに出来ない。恋情、色情、怨嗟という果てに立ち上がる極限のリアルを石井は数多くの事件簿から探知し、考察のために常にたずさえ、深く静かに潜航して見える。そうして、その一部を劇に注ぎ入れ、重石と成して、より深いこころの淵をめがけて黙々と放っている。
石井隆の世界を考える上で避けては通れぬ関所と信ずるが、やや躊躇してしまう自分がいる。まったく無関係の間柄の事件に触れようとしている。人間同士を、それも一方は犯罪者を、横一列に並べて書くことはいかにも乱暴で稚気が過ぎるのでないか。
改めてここで確認したいのは、石井隆は娯楽の提供者に過ぎないという点だ。社会の一員として生業に励んできた事は私たちのよく知るところだし、堅い倫理観を基盤と為して、物語世界をしっかりと支えている。不穏な方角への漂流を許さず、針路を決して誤らない凄腕の舵取りであればこそ、私たちは長年に渡って身をゆだねてきた訳である。クロノメーターを村木に、六分儀を名美の姿に変えて魂の夜を航っていく、石井の物語は一種の海図であり、人間全般の不思議を探る夢路に過ぎない。
過ぎない、過ぎない、と、まるで高飛車な言い方だけど、このような烈しい語句を用いないと誤解を招きそうな危険水域だ。概要を私の手で要約してしまうと、どうしても主観が加わってしまうから、まずはウィキぺディアから全文を引いてみる。八十年以上も前、世間を騒然とさせた事件のあらましがこれだ。
「首なし娘事件(くびなしむすめじけん)は、1932年(昭和7年)に愛知県で発生した殺人事件。詳細な事情は不明であるが、男が恋愛関係にあった女を殺害し、さらに遺体を切断したものである。解体された遺体の状況が、常軌を逸したバラバラ殺人であった。
事件の概要
1932年(昭和7年)2月8日、愛知県名古屋市中村区米野町の鶏糞小屋で、若い女性の腐乱死体が発見された。体つきから女性と分かったものの、遺体は常軌を逸した損傷を受けていた。頭が切断され持ち去られていた上、胴体から乳房と下腹部がえぐり取られていた。捜査の結果、遺体の身元が19歳(当時)の女性と判明。彼女と恋愛関係にあった和菓子職人の男性(当時43歳)が、1月14日に仕事先の東京から舞い戻り、旅館で彼女と何度も会っていた形跡があった。警察は、聞き込みの結果から、1月22日ごろ和菓子職人の男性が女性を殺害した上、遺体を切り刻んだと推測。彼を指名手配したが、行方はつかめなかった。
ところが2月11日、犬山城にほど近い犬山橋近くの木曽川河原で、被害者の頭部が遺留品とともに発見された。頭部からは頭髪とともに頭皮がはぎ取られていたうえに眼球がえぐられ、下あごが刃物で著しく損壊されていた。
さらに3月5日。頭部の発見現場近くの茶店の主人が、掃除のため別棟の物置を開けようとした。ところが、引き戸は中から鍵が掛けられている。いぶかしみながら扉を外して入ったところ、異様な姿の首吊り遺体を発見した。死後1ヶ月経過した遺体は腐敗が進んで猛烈な臭気を発し、腐乱死体であることを差し引いてもその姿は常軌を逸していた。遺体の正体は中年の男性で、頭には長い頭髪がついたままの女性の頭皮をカツラのようにかぶり、女性用の毛糸の下着の上に黒い洋服を着て、足にはゴムの長靴をはいていた。上着のポケットには女性の財布が入っていたが、その財布に入れていたお守り袋の中身には女性の眼球が収められている。さらに小屋の片隅にあった冷蔵庫には、名古屋市で発見された被害女性の遺体から持ち去った乳房と下腹部が、安置でもするように隠されていた。遺体の正体は、被害女性の頭皮をかぶり、その体の一部分をたずさえた犯人(和菓子職人の男性)であった。
群馬県で生まれ育った犯人は、若い頃から神仏を篤く信仰し、死後の世界の存在を信じて疑わなかった。後に和菓子職人となった彼は東京・浅草で和菓子店を営み、妻と子供にも恵まれていたものの、1923年(大正12年)の関東大震災で店を失う。彼は妻子を捨て、仕事を求める旅に出た。その道中である女性と知り合い、名古屋市に落ち着いて所帯を持つことになる。犯人は饅頭工場で働き、後妻は裁縫を近所の娘達に教えていた。この裁縫教室の教え子の中に、被害女性がいた。やがて健康がすぐれない後妻は裁縫教室を閉じて入院し、被害女性は師匠(後妻)の元へかいがいしく見舞いに通っていた。その生活の中で、犯人は被害女性と関係を持つようになる。1931年(昭和6年)秋、後妻は看病のかいもなく病死。後妻の遺体は献体されたが、犯人は妻の遺体が解剖されていく有様を、目もそらさず見守っていたという。
やがて犯人は、些細なことで工場を辞職。心機一転を図って12月に上京したものの、内向的な性格も手伝って仕事につまずいた。そして、昭和7年1月14日に名古屋に戻り、被害女性を旅館に呼び出した。その後は昼も夜も無く情事にふけった末、彼女を最初の事件現場に連れ込んで絞殺、遺体を損壊した。
犯人は、最終的に愛する女性との一体化を望み、彼女の頭皮や下着を纏って自殺を遂げたものと思われる。
合田一道+犯罪史研究会『日本猟奇・残酷事件簿』扶桑社 2000年 ISBN 4-594-02915-9」
以上がウイキペディア掲載のすべてであるのだが、この手の猟奇犯罪を列挙する書籍に載る内容もそう大差ない。不可視領域が広く、これ以上の深堀は当時も今も難しいと思われる。それにしても凄絶で血なまぐさい景色がこれでもかと脳裏に浮かび、まったく悪夢でも見そうだ。胃のあたりが痺れたようになって、なんだか口の中が妙に酸っぱい。
思考の翼がどれほどの黒雲にもみくちゃにされても、天と地を取り違えることはなかった、劇中に大量の血の雨が降ろうとも、それは一個の人間が想像力を駆使して為した舞台化粧に過ぎなかった、そんな石井隆の画業と、ここまで完全にとち狂った実在の罪人のふるまいを連ねて書くなんて、やはり言語道断で罰当たり以外の何ものでもない気がしてくる。
この事件について、それでは世の識者はどんな見解を抱いたものだろう。異常な顛末であるけれど、犯罪を見慣れた目にはどのように映ったものか。手元に置かれた関連書籍の何冊かをめくり、該当する声を抜き書きしてみよう。
劇作家で評論家でもある山崎哲(やまざきてつ)は、「かれが切り取ったのは女性性徴というより、母性性徴だった」、「母に同一化したかったのだと、なんだかしきりにそんな気がしてならない」と書いている。(*1) ノンフィクション作家および犯罪評論家の朝倉喬司(あさくらきょうじ)は、「異常というもおろかな事件のありさまだが、見方を変えていえば、これは一種の情死、心中である。おそらく2人には、一緒になりたくてもなれない何らかの事情があったのだろう。2人は死の前、名古屋市内の旅館で、セックスに没入していたことが確かめられている。事件は、「性」の濃密さが2人に「死」を越境させ、異常性愛が必然性を帯びて事件になったものと見てよさそうだ」と説いている。(*2) 表層の奇怪さから最初は慄(おのの)くだけであったのだが、なるほどそういう胸中であったかもしれぬと頷き、何となく可哀想に思える。瞳を震わせた緊張がみるみる解けて感じられる。
また、女装行為を主題に据えて日本人の根幹を探る本においては、頁をかなり割いて当事者の心理を考察しているのだけど、読み進むこちらの内に明らかな心象の変化が起きていく。少し長いが書き写す。
「遺屍から各部を奪いとったことは、(中略)最愛の女性(あるいは女性という性)になりきって死にたいという動機から出ているのであり、惨虐行為自体に目的があったとは考えにくい」、「目的は、直後にそれらを身につけ「変身」して自殺するためだったのである。」「阿部定が、殺した相手の陽物を「形見」として持ち歩いたのとは、かなり異るケースだと言わざるを得ない。」
「一女性を超えて、女性一般に帰一しようとしたと思われる節がある。」「事件のわずか二年前、所帯を持っていた(氏名/後妻)を亡くしている。死にあたっての「女装」には、(氏名/後妻)に対する思いも込められていると把えられないか。さらに、死に直面して、生命の始源としての女性に帰一することによって不安をやわらげ、同時に再生を期待するといった心象が、彼に働きはしなかっただろうか。」
「死者の衣服及び外被をあえて身につけることにより、死霊(死穢ではない)を自らに引き受け、それに帰一しようとしたのではなかったか。そして彼が帰一しようとした死霊とは、(氏名/被害女性)の死霊であったと同時に、一女性を越えた女性一般の死霊でもあったのではなかったか。」(*3)
死者には言葉がない。私たちは真摯に思いをめぐらせ、虚空に指先を伸ばすより他に為す術はないけれど、人間の内奥を探求し続けた彼らのつぶやきには力がそなわっている。推論ばかりの文面となってしまうのは仕方ないが、どの意見もこちらの懐に到達してぶるぶる震動し、冷めた体温をやさしく呼び戻すようだ。
文字列を目で追いながら、石井世界の劇中にて倒れていった、いくつもの寄る辺なき魂がゆらゆらと佇立し始める。あの影も、あの所作も、この実在した男女ふたりの最期とどこか似ていると感じられ、木霊するその声が徐々に大きくなっていく。
(*1):「物語 日本近代殺人史」山崎哲 春秋社 2000 117頁
(*2):「都市伝説と犯罪―津山三十人殺しから秋葉原通り魔事件まで」 朝倉喬司 現代書館 2009 192頁
(*3):「女装の民俗学 性風俗の民俗史」下川耿史、田村勇、礫川全次、畠山篤 批評社 1994 104頁、106頁、110頁
事件であれ事故であれ、肉体の損傷がともなうと別格扱いとなる。紙面を飾り、書籍にも繰り返し取り上げられる。特に“切断”という字面には非常用ボタンの役割があって、眼球の後ろあたりのぼんやりした部分をぱっと覚醒させる力が宿っている。恐怖を煽り、ざわざわした生理的嫌悪を抱かせる。もしも身近で起きたときには、誰もが警鐘を鳴らすべく躍起となるように思う。本能に由来するこの咆哮は絶対であり、私たちを強引に引きずっていく。
小説、劇画や映画といった創作劇においても“切断”は際立った色彩を帯びるが、石井の世界においてはどうであろう。魂と肉体が暴力組織に蹂躙されていく状況を好んで描くことから、人体の“切断”が挿入される局面が多々あるのだが、そんな石井の劇画作品と映画作品を通じて、そこに一定の方向性のようなものが見え隠れするように私は感じている。
石井作品のみを凝視してもなかなかこの暗黙の指針は明らかにならないのだけど、よく似た題材の他者のものに触れた後、余韻にひたりながらふと思い至る流れである。たとえば、最近復刻された上村一夫の【悪の華】(1975)(*1)では、数多くのおんなの手足や首の切断が奔放に、ひどく攻撃的に重ねられるのだったが、同様に女性をつぎつぎに拉致しては縄で固定し、アートバフォーマンスよろしく刃物で殺めていく狂人の寒々とした日常を描いた劇画、【魔奴】(1978)や【魔楽】(1986)をこれと比較することで石井特有の拍子が露わになる。遺体を極力そのままにし、解体して玩(もてあそ)ぶ行為がまず見当たらない。土俵際で踏み止まり、するりと回避する慎ましさ、あえかな抑制の手触りがある。
さらに例示するなら、映画『フリーズ・ミー』(2000)はマンションの一室での孤闘を強いられたおんな(井上晴美)が、襲来するならず者を順次殺害していく話であるが、頭骨もその奥に淀んだ身勝手な思考回路もすべて粉微塵になれ、男など全部どこかに消えて無くなってしまえ、とばかりに腕を大きく振り上げるヒロインの繊細な心理描写とは対照的に、ここで石井は叩かれる側の被害状況の説明を回避する。竹中直人演じるやくざ者を殺める際に、動きを封じるために頭をすっぽり布で覆ってから力まかせに撲っていく辺りがそうだし、殺害後に処分に困って業務用の冷凍庫を買い揃えるにあたって、男たちの肉体を切り刻むことなく、すっぽりと収納なる大型の機種を求める部分もそうで、針が大きく振れる前に薄いベールが被せられ、私たちの視野を白く霞ませる。
『GONIN』(1995)で画布(銀幕)の外に追い出された形の小指二本の切断、『夜がまた来る』(1994)で終ぞ寄らぬままで遠巻きに徹した、やはり指詰めの儀式。『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)の冒頭、風呂場で展開される家族総出での人体の細分化作業も同様で、カット割りや構図からはやはり隠蔽の跡がありありと読み取れる。
ゴア(GORE)と呼ばれる昨今流行する残酷描写は、コンピューターを用いて精度をいよいよ高めており、また、特殊メイクも迫真性がより増して、現実の人体損傷を完全に再現し得る段階に入ったと受け止めているが、石井は素材として過去も現在もこれを積極的に採用しない。肉片や骨の存在は俳優のリアクションおよび効果音を介しておぼろげに観客に託されるのであって、それ自体の具体的な接写は控えられる。『GONIN』の風呂桶に浸かった腐乱死体や、やはり『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』での地下洞窟にて壁にもたせかけられたミイラの扱い方を眺めればそれは一目瞭然であって、視野角から微妙に外し、また、遺体損傷の細部が観客に読み取れぬ程度の遠目に、ぐっと引いた位置から撮ろうと腐心している。徹底して迂回してみせて、ある意味、細部までこだわる石井らしい采配が効いている。
石井隆という作り手にとって、人体の損壊はそれでは一体どういう位置付けなのだろう。生理的嫌悪から逃げているとは考えにくい。石井世界を貫いている倫理観に基づく、教育的な配慮だろうか。美意識の問題だろうか。それとも、血や肉といった具体的な描画は物語の尾ひれ、付け足しの部類と考えているのか。例えば『サイコ Psycho』(1960)でヒッチコックが世に送った湯浴み場面の卓抜した編集を意識し、傷口を見せない、殴傷、裂傷のあらましを封じる事で観客の想像力の牽引を図ったものだろうか。
そういえば、わたしたちは最近作『GONINサーガ』(2015)においても、上記のルールに沿った死体損壊を目撃している。相棒であるおんな(福島リラ)を喪った殺し屋(竹中直人)は、その亡骸を前に声を限りに叫び、涙の坩堝と化し、その果てにおんなの身体と頭部を切り離してしまうのだったが、切断行為そのものの時間は画布(銀幕)の外に置かれ、私たちの目から巧妙に隠されていくのだったし、台所あたりから見つけたらしいレジ袋にがさがさ、ごとりと入れられたおんなの頭部は、男の腰のベルトあたりに結ばれて死出の旅路へ帯同されていくのだったけれど、白いビニール被膜にて傷口の詳細は隠されて、血なのか涙なのか訳の分からぬ液体にべったり濡れた髪の毛が少しだけ視認されるに過ぎない。隠蔽につぐ隠蔽、撒かれた煙幕。意図的に挿し込まれた、違和感の漂う空隙。
ここに至って、鈍感な私もさすがに変だと気が付いた。単純な倫理観の縛りではなく、もっと重大な何かが石井の劇の人の殺め方、傷つけ方に潜んでいる。夜目遠目傘の内ではないけれど、石井は詳しく“描かない”ことで観客の興味や想いの集束を図っている、それは間違いはないのだが、ここまで切断が多発し、なお且つ露悪的な描写を徹底して避け続けている事は、作者が切断の“描写”ではなく、その“行為”や“意識”に関して並外れてこだわっていて、相当の思い入れなり信念のあることの裏返しだろう。忌まわしきものと捉えるのではなく、確かな道程としてドラマに組み込んでいる。一体全体、そのこだわりとは何であるのか、何処を起源としているのか。石井の真意とは何だろう。
(*1):「悪の華 上村一夫ビブリオテーク」 岡崎英生 著 上村一夫 絵 まんだらけ 2012
忘れがたい男優に原保美(はらやすみ 1915-1997)がいる。かれこれ三十年以上も前となるが、都内での催しに登壇したのに対し、一冊の本を差し出しサインをねだっている。その頃は脚本家が役者以上に注目され、書店には華やかな装丁が為されたシナリオ本が並んでいた。この日持参した単行本も、原がかつて出演したテレビドラマのそれだった。
当時、家庭にビデオレコーダーは普及しておらず、ブラウン管に映る影はその場限りの走馬灯と思われた。鑑賞には自ずと集中力を要したし、後日脚本集に目を通せば、ト書きと台詞の妙技に酔うばかりでなく、網膜に漂着した景色を懸命にたぐり寄せて反芻する時間となった訳であり、持参した本にしても血肉となってもはや感じられるのだった。時おり背後から励ましを送ってくれる気の置けない随走者といった位置付けであったから、その出演者に間近で会えるのは望外の喜びだった。
おお、こんな本が出てるんだねえ、と目を細めた表情が脳裏に貼り付いている。誠実さと淋しさを甘く香らせた外貌には、頑な過ぎる気真面目さといったものが裏打ちされて見えた。もちろん、実際のところは分からない。人間の皮膚の下には、色相のまるで違う雑多なものが貼り付いている。それは重々承知しているけれど、わたしの中の原保美という男は常に慎重で繊細な存在に目に映った。
面立ちというものが各人のこころの基盤の凹凸を何かしら反映しているとしたら、この俳優の内実には、過去、いったいどんな色の杭がどれだけ深く刺さっていたものだろう。彼の実母が歌人であることを意識したのは最近のことだ。原阿佐緒(はらあさを)の生家、そこは保美も幼い日を過ごした場処であるのだが、改装されて記念館となっているところに寄り道する機会があり、知識をいくらか得てから展示物を眺めようと決めて、関連書籍を幾冊かまとめて読んだのだった。自然、特に蝶や蚕を用いた比喩が巧みで、文体に独特の脈動が宿っている。心底驚いたし、何よりも懸命に生き抜いた人と感じ入った。ささやかな共鳴を覚えると共に、俳優原保美が織り成す独特の間合いや光彩がどこから来たのか、少しばかり分かった気がした。
司会者より母の思い出について話を振られた保美は、とても美しい人であった、おぶってもらった感触を覚えている、と、静かに返したのだったが、その低音の一語一句が耳朶に居座っている。あの折の想いの程に今更ながら気付かされ、特別の資質を引き継いだ人だったことを了解した。こうして三十年程も経ってから結線するとは、人生とはつくづく長い迷路、果てしない貝合わせをしているのだな、と驚くより他ない。
さて、わたしは原家の研究家ではないから、興味の向かう先は無遠慮にずれてしまうのだけど、偶然読み進めた阿佐緒の評伝の中で「右の足」という短編小説の存在を知り、実に面白い発想をする人が世の中にあったものだと感心したのだった。小説の紹介箇所を書き写してみよう。
「自分の右足の美しさを知った女主人公小枝子が、右足に接吻されると性の愉悦を覚えることに気付き、恋人の青年や同宿した女友達に接吻して貰う。やがて運命の迷路に立った小枝子は、自分が滅びることで、相手も自分も救われると考える。そして「死を豫知(よち)した瞬間、然(し)かも意識を失わぬ中に医師に右足を切断して貰」い、右足の一番形の好い指の一本を、緑の小箱に入れて送る、と高熱のなかで考える、という被虐的な内容である。退廃、官能、虚無が色濃く漂う」。「阿佐緒は男性の側からの性的愛玩物である「足」を、女性の側からの性的嗜好として、この「右の足」への偏愛を告白したのだ。」(*1)
人体の限定された部位を偏愛する物語や事件は珍しくはないが、発表の時期がとにかく早い。大正10年、西暦に直せば1921年である。やや乱暴な比較とは思うが、首を愛でた谷崎潤一郎の「武州公秘話」(昭和6年)の十年前、阿部定による情死事件(昭和11年)の十五年前、川端康成の「片腕」(昭和38年)の四十二年前に当たる。地方の素封家で生まれ、幼少のころから西洋画集を眺めて育った阿佐緒というおんなの、その魂の奥に培われた世界観がいかに広角で真新しかったか、どれほど先鋭だったか理解出来る。
それにしても、恋しい相手の肉体の一部を欲望にまかせて奪い去るというのではなく、自らの側を切断して捧げようとする顛末は、傷害や遺体損壊が横行する殺伐とした現代にあってもなかなか見ない凄みのある奇想だ。熱狂的なファンが己のイコンに対して、自身の体毛や体液を忍ばせた贈り物をするらしい事はどこかで聞いたことがあるが、出血と激しい痛みをともなう切断を経て与えようとする行為はさすがに多くは聞かない。
高岡智照(たかおかちしょう)が新橋の芸者だった頃、小指を切り落とし、仲たがいした情夫に差し出すことで真情を訴えたのは1911年(明治44年)のことだ。原の「右の足」の十年前に起きて、世間を騒然とさせたらしい。(*2) この辺りの記憶が原の筆を取らせたものだろうか。原は1888年、高岡は八年遅れの1896年生まれであり、ほぼ同世代にあたる。高岡の指詰め事件を、原は二十三歳の花盛りの時分に見知った可能性がある。
いやいや、安易に決め込むのは前からの悪い癖だ。高岡の件だけが執筆のきっかけということはあるまい。当時の色恋の峠なり末路には、その手の流血の景色が日常的に湧いていたのかもしれぬ、と思い直す。情念の濁流は昔も今も花柳界にごうごうと渦巻き、その氷山の一角が“指きり”という形でわずかに露呈したのだろう。血なま臭い風に世間は、そして歌人は、絶えず吹かれ続けていた。第一歌集を上梓しようとする原の眼前に、狂恋の血の雨が日夜降りしきり、原をして情事の果てに人体切断という局面に至ることは自然の理という概念を育たせ、執筆時により滑らかに、まるで垣根なく、身体部位の贈呈という強靭な表現へと飛躍させていった、とする方が説得力を持つ。
息をして、飯を食い、生きていかねばならぬ私たちは、その生で一度か二度、壮絶な恋愛の嵐に見舞われる定めであるけれど、哀悼傷身の儀式がかつて我が国にもあったように、時代が違えば個々のルールも変遷するのであって、身体の自己損壊と切り取られた部位の寄託を愛情の深い証しと信じられた歳月が歴史の何処かにあっても不思議はない。私たちのこころの奥にはそんな烈しさ、極端さへと我が身を手招く踏み台が隠れているのではなかろうか。
(*1):「うつし世に女と生れて 原阿佐緒」 秋山佐和子 ミネルヴァ書房 2012 193頁
原阿佐緒の「右の足」は、同人誌「玄土(くろつち)」大正10年1月号、第二巻第一号に所載
(*2):「遠花火―高岡智照尼追悼」(伊藤 玄二郎 かまくら春秋社 1995)に引用された自伝の、小指切断の前後の様子を読む限りにおいては、高岡を突き動かしたのは極大化した憤怒であったようであるが、事件により絶縁に至ったふたりはその後再会し、しばしの間ながら親しく付き合ったのも事実であって、察するに自傷の際にほとばしったのは嫌悪をともなう性質の怒りではなく、やはり恋慕より派生して急激に膨張した悲哀に基づく行動であったと受け止めている。
岩壁や巨石に彫像された仏神を“磨崖仏(まがいぶつ)”と呼ぶのだけれど、初めて足を踏み入れる町があるときは事前に下調べし、もし近くに有れば日程を調整して寄り道をする。大概は辺鄙な山裾に彼らは在って、周辺には人影らしきものがまず見当たらない。寂然とした大気が肌にしっくり来るし、野仏の儚さ、慎ましさにつよく惹かれる。
建屋で何重にも囲われ、ときには防犯用のガラスに覆われ、湿度計まで片隅に備わって入念に守られたものと違い、その面影というのは、正確に言えば現在進行形で刻一刻と“無”へ突き進んでいる。外気温に直に触れ、風雨に晒され、冬には染み込んだ水の凍結で亀裂が走る。無くなることを前提に生まれ、その宿命に抗わない様子に内心ほっとするところがある。強情を張らなくても良いのかな、と思えてくる。
樹木や苔類の侵食もあるし、置かれた環境の変化とともに顔や胴を撫でる光の照度も違っていく。百年、物によっては千年を越えて居続ける彼らであるから、私たちの生命の尽きるよりも遥かに長くその存在を留めるには違いないけれど、今その時の見姿というのは二度とは再生出来ない道理であって、きわめて刹那的な対面となっていく。一期一会の逢瀬に近しい。どうやらそんな遣る瀬ない性格の時間に魅せられ、灯を面前とする蛾のように寄らずにいられないのだ。
先日のそれは最近の作であり、石工が自身の所有する石切り場に掘った観音像であった。背丈が三十メートル程もある巨大な御姿なのだが、五年前の大地震によって顔の部分がそっくり崩れ落ちている。この欠損により信仰の対象から外され、造った側にしても技能を世に知らしむ役どころを断念したのだろうか、それとも意気消沈して立ち直れないものか、手入れがされず、足元は雑草が生い茂っており、その葉陰には小動物が立てるらしいガサガサいう物音すら聞こえて、実にさびしい場処となっていた。
顔面の消滅により価値を失ったと捉える世間の目は分からないでもないが、しかし磨崖仏とは本来そういう土くれへと溶解していく運命なのだし、むしろ欠損なり磨耗を経ることで見る者の想念を膨らませ、人生の実相や世界の意味を問い直す力が具わると考えるから、これはこれで十分に胸を打つ姿とわたしには思われ、だいたいにして頭部の破壊があったと聞けばこそ妙に気持ちが騒いだのが本音であって、真新しく無傷であったなら、その顔立ちが綺麗であったなら、わざわざこんなところまで出向いては来ない。趣味の域から崇高な仏へと化身を遂げたのだ、と自分なりに解釈している。蒼空を背にした偉容に見惚れ、しばし立ち尽くした。
地響きのなか大地が波打ち、観音の顔にひびが入る。やがて大きく砕けて落下していく様子を幻視することは、痛ましくも胸にひびく時間であったのだし、それをきっかけに五年前の映像が脳裏に押し寄せた。忌まわしき記憶を反芻し、地下深くに隠れ潜んでじりじりと溜まっていく桁外れの力を予感し、畏怖することは大切なことと感じて、のんびりした観光の気分ではなかったにせよ、短時間ながら充たされるところがあった。
それにしても、穿たれたようになった頭部にいくら目を凝らせど、当初の顔立ちはどのようであったか想像することは難しい。色んな顔を付け添えようとしても、軽々と指で弾かれてしまう感じがする。空隙がそのままで自己主張し、安易なすげ替えを拒むのだった。過去に発掘されたギリシア彫刻の頭部や腕の不在を連想したのだったし、加えて絵画や映画における暴力や疾病による身体部位の削奪をいくつも思い返した。そこで湧き上がるさまざまなこころの反射と、風雨に輪郭を奪われていく磨崖仏を前にした際の感懐との段差をあれこれ考えながら、湿ってむかるむ細道を下り歩いた。
四枚のディスクで構成された「GONINサーガ ディレクターズ・ロングバージョン BOX」には、主要キャストやスタッフ参加のオーディオコメンタリーが収められている。石井隆はここで、劇中に飛ぶ蠅について語っていた。小説版から抜き出せばこんな場面だ。
「明神の指がトリガーを引き、ドドドドド!とウージーピストルが炸裂(さくれつ)して麻美を襲うが、今度はその側で死んでいる慶一の体を砕き、次の瞬間、慶一の死肉を食らっていた蠅が、ブーンと羽音を唸(うな)らせて慶一から飛び立ち、それはまるで慶一の血肉を食(は)んだ蠅が慶一自身と化したかの様に明神に向かって翔(と)んで行く。」(*1)
含みがあって裏読みを誘う文章だけど、マイクを前にした石井はこの蝿を亡者の化身として描いた旨、淀みなく打ち明けるのだった。人間が最期には一匹の蠅へと化している。殺し屋に纏わりついて離れなかったあの小さな影は、柄本佑が演じた警官のなれの果てなのだ。『GONINサーガ』(2015)は、前作『GONIN』(1995)のこまごました事象や台詞を連連と再生してみせ、血脈であるとか、回る因果にむけて観客の意識をきつく束ねるからくりであって、この蝿への変身もそんな反復のひとつだ。石井世界の彷徨者には自明ゆえ驚くに当たらないのだが、初めてこの石井のたくらみを耳にした読み手は当惑を覚えるに違いない。
十九年前のわたしがそうだった。「映画芸術」に掲載された石井と山根貞男の対談の冒頭で、荻原(竹中直人)の惨殺された家族の蠅への転生が、さも当たり前のようにふわりと軽い物言いで記されてあるのを読み、大いにうろたえた。石井世界の森羅万象は漠然と配置されたものではなく、ひとつひとつがかなり周到に準備された精密な装飾であり、物によってはその背後に無限の不可視領域を抱えたまま黙って控えている。畏怖すべきサブキャストとして、映される全要素を捉える必要がある。底知れぬ罠や複線を懐胎した結晶空間なのだと私は肝に銘じ、それからは自ずと留まる時間を増やしていったのだし、粘り腰の鑑賞をするのが常になった。
前述のとおり、小泉八雲がその著書に記し、また、別の識者も専門書で説くように、人のたましいが蠅に姿を変えるという内容の民話や伝説は珍しくない。(*2)(*3) 勉強嫌いのうえに先達の声に耳を貸そうとしない傲慢不遜の私が、その手の知識に疎かっただけであって、化け物の妖しげな飛跡は古来から人間の死線に寄り添っていた訳である。たとえば、先に取り上げた大林太良(たりょう)による「葬制の起源」の中にも、蝿(ここでは幼虫であるウジ)が重要な位置に座る人類創生の神話が紹介されている。
「《ひっくり返しの法則》とはいったいなんであろうか?早くいえば、起源についての観念が、終末についても適用されたり、終末についてのと同じ考えが起源についても述べられることである。(中略)死体が腐ってくるとウジがわく。ところが、これを逆にして、ウジから人間が生まれたという神話が生まれる。ポリネシアのトンガやサモアの神話がそうである。ターガロア神はその娘のトゥリをヤマシギの形で天降(あまくだ)らせた。裸の岩に生物を住まわせるためである。このようにして発生した蔓草(つるくさ)の一つが枯れ、その葉からウジムシが生まれた。トゥリは嘴(くちばし)で、このウジムシをくだくと、なかから人間をつくりだしたという。」(*4)
ウジを直視するカットは『GONINサーガ』に盛り込まれておらないから、この南海の古代神話と映画とは直接像を重ねない。けれど、私の奥には目覚めの亀裂をもたらし、鼓動にも似た弾んだ音が止まらなくなる。最下層と目される場処から新たな人間が誕生するという、極めてコントラストの強い舞台空間での浮上イメージは、どこか石井世界と通底してはおらないか。
汚辱の暗い淵におもむろに出現する聖性、悲壮なまでのその照り返し、苦悶の隙間を突いて湧き出す生命の閃きを、思えば石井隆という作家はこだわって描いてきた訳である。『GONINサーガ』にて残飯や排泄物といった汚穢(おえ)にこれでもかとまみれていく強調表現と、その後に待ち構える激烈で神々しい死闘も、これと軌を一にするものと捉えて良いし、蝿も単なる羽虫ではなく、程なく聖性を帯び始める。
劇の終盤、ダンスフロアの床下に潜んだ若者は、傷つき膿んで臭う身体をしばし横たえる。何処からやって来たものか、その傷口には蝿の幼虫がたかり、徐々に身体が乗っ取られていくのだが、凄惨の極北にあるそんな姿というものが忌まわしい糞袋の域を脱していき、やがては妙に温かな人間味なり活力を帯びて感じられるから不思議だ。蝿にまつわる神話を縷々(るる)見ていけば、スクリーンに蠢くものの光彩は違って来るのは当然で、なるほど錯覚と言われればその通りなのだけど、石井隆のつむいでいるのはやっぱり神話と感じられるし、いつしか奇蹟の証言者、神降ろしの目撃者に選ばれているという堅い自覚が芽生える。
コメンタリーの中で石井は「日本人の宗教について描こうとしている」旨をつぶやいて、これを悪い冗談ととらえた面々に一笑に付される箇所があったけれど、あながちそれは本音ではなかったか。たとえば、『死んでもいい』(1992)の終局に置かれた高層ホテルの浴室にて、叩かれ失神し、血反吐に汚された身体を男の手で洗い清められ、綺麗に着替えまでされて寝台に横たわる大竹しのぶの一連の始末に関して、湯灌(ゆかん)という言葉が日本にはあるのだ、とするりと説いてみせるのが石井隆という作家の怖さであるから、彼のドラマ創りの根幹に膨大な民俗学や葬送の知識があると考える方が至極自然である。
石井世界の劇で用いられる素材なり物語を支配する死生観は、荒唐無稽の思いつきではないのだ。出たとこ勝負の混沌状態ではない。作調は常に破壊に次ぐ破壊、寒々しい情景であるのだけど、荒れ放題になった庭園の趣きではなく、どちらかと言えばその逆の徹底した理詰めの作業を経て、綺麗に整列なった植樹が為されている。選ばれたその木々が多く、それぞれ豊かに葉を茂らせ森の様相を呈しているだけであって、内実はずいぶんと手が込んだ造園なのだ。
『GONIN』と『GONINサーガ』において、息絶えた身体からの離脱(霊の出現をふくめて)が繰り返し描かれている点を、こうして丁寧に消化していけば、新旧二篇を貫く線は縦方向の“昇天”ではなく、横方向への“滞留”もしくは“転生”であると気付くのだし、そこにはたぶん現在の作者の死生観が盛り込まれている。煩悩まみれの現世で、伽藍の建立と寄進に踏ん張る男のまなざしが宿っている。宗教画としての側面が『GONINサーガ』には確実にあって、蝿は花押(かおう)となってそこに留まりつづけている。
(*1): 「GONIN サーガ」 石井隆 角川文庫 2015 377頁
(*2): 「葬制の起源」 大林太良 中公文庫 中央公論社 1997 85-86頁
(*3):http://grotta-birds.blogspot.com/2011/11/blog-post.html
(*4):http://grotta-birds.blogspot.jp/2015/10/blog-post_22.html