2014年9月5日金曜日

“弔文”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[12]~



 曽根中生監督が逝った。1970年代に日活ロマンポルノの一翼を担い「天使のはらわた 赤い教室」「博多っ子純情」など忘れえぬ佳作を残した映画作家だった。────こんな書き出しで始まる弔文が新聞の文化面を飾った。(*1)それが読売や朝日といった大衆紙ではなく、経済紙であったことが静かにそして明確に物語る点がある。客を呼び込める職業監督として、曽根の名が日本列島にあまねく浸透したことの証しだろう。

 五十過ぎから半ばとなって組織なり商売の心棒と化した男たちにとって、“ソネチュウセイ”という響きは風圧のある映像を即座に憶い出させ、それを脳裏に再生させてたゆたう時間は嬉しい白昼夢だった。職場や休憩室で同僚の視線を気にしつつ新聞を畳む手をそっと止め、老眼で霞む先の小さな記事を舐めるように読んだひとはきっと多かったに違いない。

 訃報に接した彼らの緊張の具合なり胸の内を駆ける風音を想像すると、わたしの気持ちは徐々に湿り気を帯び、やがて落ち葉の歩道に貼り着くような重さになった。やはり反省するところがあって、どうしても思いは下降していく。もちろん拙文が曽根の目に留まったとは到底思えないのだが、不味いことをしでかした気はする。

 上の記事の執筆者は『天使のはらわた 赤い教室』(1979)について、「ニヒルと熱狂が理想的に結びつき、純粋なメロドラマまで昇華した傑作だった」と綴っている。ああ、例によって、また“傑作”と書かれている。本当にそう捉えても良いのかどうか、石井隆が書いた脚本の第一稿と第二稿、および石井の展開する独自の世界観にがっちり視座をすえ咀嚼を重ねた上での思いの丈を、ここで長々と語ってしまった訳なのだが、結局のところ私の中では綱引きは終わらないままだ。少なくとも石井世界にとって映画『赤い教室』は傑作とは言い得ず、微妙で悩ましい立ち位置にこれからも在り続けると捉えている。

 ただ、こうして曽根が倒れて息をひきとってしまうと、素人の癖に不躾な事を並べてしまったようにも思われ、ひどく後ろめたいような、黒く濁った感情が湧いてしまうのが嘘のないところだ。特に曽根が映画界から離脱して後、そのまま消沈することなく事業に邁進していた様子が透けて見えてしまったから、自然と言葉選びは慎重になる。養殖にしても新燃料の製造にしても、実に地味で根気を要する商いだ。苦労もさぞ多かったことだろう。同時代の併走者、生活者という認識が急に濃くなった。


 限られた生の只中で、世に傑作と呼ばれる何かを産み落すことは至難の技だ。運命的で稀有なものと捉えるし、それを手にした人の旅路は理想的で羨ましく思う。誰でも、何でも良いから傑作をその手に抱き、そうして最期の眠りにつくことが望ましいと信じるから、曽根への手向けとしてこの瞬間につぎつぎに花ひらいていく『赤い教室』への賛辞につき、これはこれで今は許せるような軟らかい心もちになっている。書きたい人は書いて良い。人それぞれに尺度は違って当然だ。

 これからしばらくの間、彼を悼み、作品についての随想がいくつも目に触れるはずだ。脚本家石井の名と、村木や名美の姿が合わせて紙面に踊り、私たち中年男や若い世代の網膜に秘かに刻まれていき、そうして、新作『GONINサーガ』(2015)の弾みなり評価の厚みに繋がっていくなら、それもまた大事なことだし素敵なこと。此岸と彼岸とを跨ぐエールとなって、遺された者を援けてもらいたいと願う。

 あんなに無神経な事を次々に書いておきながら、今ごろになって手をあわせている。そちらの景色は穏やかですか、どんな風が吹いていますか。色彩は豊かですか、それとも墨絵のようですか。
どうか安らかにお眠りください。


(*1):日本経済新聞 2014年8月29日 文化面 「文化往来 ニヒルと熱狂の同居、曽根中生監督死去」

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