2014年8月19日火曜日

“白衣(びゃくえ)” ~『GONIN』での傷の反復~


 『GONIN リアルエディション』(*1)を盆休みに観賞して、クレジットが闇に溶ける最後の一瞬まで存分に愉しんだ。とりわけ印象に刻まれたのは佐藤浩市が演じる万代(ばんだい)という男が次から次としょい込む生傷の、その具体的な描写なり挿入のタイミングだった。

 以前はぜんぜん気に留めなかったのだけど、それは私が地べたに転がる西瓜のようにして、薄ぼんやりと暮らして来たせいだ。この二、三年の間に人並みに色々とあって、寒い手術室に横になる切なさも学んだ。それでようやく劇中に現れる怪我の創り込み、その深さに目が向くようになったわけだ。映画というものは年齢と共に違って見えるというが、確かにその通りと実感させられる。

 美丈夫の形容そのままの万代という男が、舞台の先々で怪我をして血をぶわりと噴き上げていく。やくざの事務所から現金を奪い去り、それがばれて逃走を強いられ、やがて追撃を喰らって頓死に至る中盤まで男の身体は鮮血でくまなく染まっていくのだった。喩えとしては変かもしれないけれど、執拗に、独特の丁重さで傷付いていく。巡礼者が白衣(びゃくえ)の背に寺社の朱印を一個一個押しながら歩んでいくけれど、さながらあの調子と呼吸で赤々と染まってしまう。

 石井隆の好みと言ってしまえばそれまでだが、傷を負う箇所にしたって型にはめられて見える。また、それが“反復して”起きるのがすこぶる面妖だ。すなわち、劇の冒頭で絡んできたサラリーマン(竹中直人)を万代は打ち倒し、相手は口腔やら鼻を切って地面をのたうつのだったが、それから少し経つと今度は自分が元刑事(根津甚八)に叩きのめされ、大きく口を切って血の混じる唾を暗い運河にむけて幾度も吐き落とすことになる。また、経営する店のフロアで騒動が起き、そこで若い不良(本木雅弘)がナイフを振り回して野本というやくざ(飯島大介)の左頬を傷つけるのだけど、しばらく後のひっそりとした夜の廊下で今度は万代とその不良とがナイフを間にして揉み合いとなり、万代の左の頬に先とまるで同じ位置を目指すかのような縦一文字の傷をつくっていく。

 強奪を成功させるも自身は脱出できず、組事務所にひとり居残る羽目になった万代は、責任を取って指を詰める組長大越(永島敏行)の後を追うようにして無理矢理おのれの指先を切り落されてしまうのだったし、追ってきた二人組の殺し屋とバスターミナルの地下で銃撃戦となり、その片割れの若い方(木村一八)の足を撃ち抜くのだったが、逃げ込んだトイレで腰を下ろしたのがたたってしまい、扉と床との狭い隙間から差し込まれた銃口から射出された何発もの弾丸を受けて下半身がずたずたになって失血死する。ここまでリズミカルに、なぞるようにして傷を負い続けていく主人公というのは他ではあまり見ないのではないか。

 怪我をしてしばらくの間は苦悶に顔を歪ませるのだったが、数分後にははつらつと床を蹴って駆け回る姿も考えれば奇怪なものであって、夢の淵にざぶりと全身を浸かった明け方に懸命に立ち泳ぎするような非現実感、浮遊感がある。何となく不自然な手触りを覚えるのだった。

 『GONIN』(1995)という作品は善と悪という単純な色分けを最初から捨て置き、軌道を外れて軋んでいく男たちの群れを描いていく。一面的な悪は此処には居らないし、皆どこか似たようなところがあって、いや、それこそを言わんばかりにわざわざ極端に相似する舎弟関係を幾重にも敷きつめているのだった。鏡面に映される幻像のようになって、周囲の人間と同じような箇所に同じような傷を負っていく万代もきっとその一環なのではあるまいか。合わせ鏡に挟まれた暗室で口笛を吹くような、闇に抱かれた三面鏡で孤独に化粧をするような、反響が反響を生んでいく仕掛けが『GONIN』には無数にあって、何度観ても気持ちのどこかが共振してふらふらになってしまう。

(*1): GONIN コンプリートボックス 2007年発売に所収


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