上りかまちに腰をおろし、革靴の汚れをぬぐう。療養の甲斐なく知人が逝き、これから弔いの輪に加わらねばならぬ。つき合いはかれこれ二十年にもなるだろうか。腰掛けて細い足をひょいと組み、半身斜めにした姿が瞳によみがえる。歯を出して快活に笑う様子が懐かしい。つま先に靴墨をのばしながら、彼とのやりとりを思い返した。無理をたくさん聞いてもらったし、合間に交わす世間話もこころ和ませる時間だった。
それにしても葬儀のための身づくろいというのは、実に厭なものだ。黒服が婚礼の場でも使われる慣習もあって、その辺りの記憶が蘇っていくにつれ気持ちがじぐざぐになる。等身大の自分とはやや違った、嘘くさいモノにすり替わっていく醒めた感じが付きまとう。
霊前に供える紙幣には折り目をつけて袋つめするのに、礼服は汚れのないように徹底して気を遣うのはなぜか。不意討ちをされた驚きなり悲しさを体現するのが葬儀の場であるなら、あえて靴先は汚れたまま駆けつけるべきでないのか。背中には糸くずの一本ぐらい踊っていた方が自然ではないのか。いやいや、そうではない、互いに気配をころし、会場の闇に溶け込み、そうして遺影と遺族を静かに囲めばよいのであって、各人のこころ模様は二の次だ。そつのない身ごなしこそが参列者の務めだろう。───湿度や速度の異なる感情が、首の後ろあたりでふわふわと漂う。
そういえば石井隆の劇において慶弔の席が描かれることは稀有であり、あれは一体全体何故だろうと首をひねる。死に至る瞬間や遺骸をあれほど丹念に描きながら、それを弔う場面を入れないのは石井作劇のひとつの特徴と言える。たとえば『夜がまた来る』(1994)で暴力組織への潜入捜査がばれて葬られた永島敏行は、雨降る埠頭にようよう身体を引き上げられると、次の場面には小さな骨箱へと成り果てて自宅アパートの壁際の棚に置かれてしまう。
斎場や寺、献花や弔辞、それに家族や友人といったものが一切無いような唐突で大きな跳躍がある。承知の通り『GONIN』(1995)の終幕にもこの跳躍はそっくり再現され、ターミナル地下で殺された佐藤浩市はその後の葬儀や荼毘の様子がものの見事に割愛されているのだった。幕引き間際になってから長距離バスの座席に骨箱となって現れ、命脈の尽きる様子は駆け足でもって締めくくられる。
祝い事についても同じ傾向は読み取れるのであって、年ごろの女性が数多く描かれながら実際に花嫁衣裳を目撃することは皆無に等しい。劇画の掌編【愛の景色】(1987)にかろうじて披露宴の様子が描かれているが、頁の大半は着付けをされていく花嫁がこれまでの恋愛遍歴を長々と回想する内容であるのだし、いざ宴席のただ中に歩み入れば出席者も新郎も表情は硬く、抑制された描画にとどまっている。
式典の仔細を巧みに回避する石井の真情については知る由もないが、衣服の柄や素材、背後にある家具や装飾に至るまでを徹底してコントロールする事を自らに課した劇画作品群の、呆然とさせられる緻密な描写をここで思い返すならば、会場に群れなす者それぞれの表情や言葉、仕草といったものを彼らの勝手気ままに任せること自体がまず生理的にきびしいのかもしれぬ。
人影で埋まるパーティーや闇のオークション会場が『花と蛇』(2004)や『花と蛇2 パリ/静子』(2005)において出てくるが、仮面を装着させてみたり、照明をぐっと落として表情や言葉を奪っていくのはそういう深慮が働いたからではなかったか。頭数を可能なかぎり削ぎ落とし、彼ら選ばれし人間に濃厚な魂を吹き込もうとする。石井の創る舞台でモブシーンは、根幹を成すことはない。赤裸々な想いなり表情を刻印する作業を、さながら白兵戦のごとく、物狂おしく重ねていく。
いや、待てよ、『GONIN サーガ』(2015)ではエキストラまで動員されて撮影が行なわれたと聞いた。目的はライブシーンと共に“結婚披露宴”を撮るためと言うのだから、これは一体全体どう捉えたら良いのか。よもや仮面付きの披露宴、ということはあるまい。なんてことだ。
私だけでなく石井世界を凝視し続けた者にとっては、もうそれだけで十分に鳥肌の立ってしまう話だ。旧作の『GONIN』ではディスコでの群舞があり、レストランで飲食に興じる人の遠いざわめきがあったが、石井世界を俯瞰するとあのような人の群れ集う様子を描くこと自体が尋常ではなく、相当の冒険や混沌であり、熱狂と呼べるだろう。石井はあの19年前の“活劇”の世界観を踏襲すべく確かに動いており、加えてこれまでは回避していた“式典”を正面から撮り込もうとしている。決意や覚悟は相当のものだとそれだけでも知れるところであって、現場で発生している武者震いの波動はこちらをも揺すっていく。
うしろの方の席で背中を丸め、そんな事をうっすらと思う。気持ちを外へ向けて飛ばさないと大泣きしてしまいそうだ。故人の若さとその突然の別れに誰もがひどく動揺している。補助椅子まで出された満員の会場は静まりかえり、嗚咽に染まった哀しい弔辞が続いていた。目をくりくりさせる遺影の笑顔がこころに沁みて、忘れられない式になってしまった。
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