2014年7月5日土曜日

“砂伴霖(サバンナ)”~『GONIN サーガ』第一報を読んで(2)~


 数ヶ月ぶりに沿岸の町へ足を運んだところ、道路の修繕が一段と進み、片へりには黒々とした毒蛇のごときケーブルを先に這わせたコンクリートの柱が立ち並んでおり、復興の手がいよいよ此処にも届いたかと大層驚かされた。茫洋とした真空地帯の面持ちは既にない。大型の工事車両が威勢よく行き交い、海岸線に目を転ずれば建設途上の白い防波提が万里の長城よろしくどこまでも連なり、異様な迫力をもって目に映るのだった。巨大な資金と労力が投じられた凄いものを見せつけられている感じがして、胃のあたりがざわめく。

 もっとも手品のようにするすると空中を渡って流れる電線の、分岐し、繋がっていく先は、一階をやられ、かろうじて二階部分で踏ん張りながら人が暮らしているらしい様子の数軒の深傷を負った家があるばかりであって、新築は見当たらない。黒い波の記憶に果敢に抗って郷里を再生せんと発奮する国や県の想いは伝わらないではないのだけれど、元々が過疎化の加速していた場処であったし、正直な話、このあたりの土壌を測ればやや高い数値が出るとも聞いている。以前あった町並みがすっかり元に戻るまでの道のりは、想像を超えた年数が必要かもしれない。

 業者以外の影がなく、道の左右は空き地となっている。瓦礫が取り除かれたざくざくした泥土から建物の基礎部分だけが鎖骨のように突き出し、海風に吹き洗われながら痛々しく陽に晒していた数ヶ月前までの平野が、いまや野辺になっている。視線の遥か先には陽の光に照り輝く堤の尾根(おね)がうねうねと続いているわけだが、そこまでは膝下ほどの背たけの夏草が隙間なく生え、緑色に埋め尽くしているのだった。人の倍ほどの高さの樹がところどころに、それもまばらに一本、また一本という具合に佇立し、左右対称に枝を伸ばしている。もちろん新たに植えられたものではなく、あの天災を生き残ったものである。この風景を前にして外国に来たようだ、アフリカのサバンナのようだと語るひとがいるが、確かに写真や映画で見るあの感じにひどく似ているのだった。

 間近で見たそんな奇妙な光景と、先日来ずっと考え続けている『GONIN サーガ』(2015)のことが頭の奥でくっついたり離れたりして、私のなかで渦を巻いている。石井の劇の原風景とどこか哀しく重なって見えた。たくさんの命が奪われた現実の地と、切った張ったの娯楽映画とを連結させて考える私の病癖に対し、不快を感じる人は当然いるに違いないけれど、わたしは石井世界を単なる夢の話とは捉えておらなくって、心の拠りどころ、いや、取り外しの利かない回路のようにして過ごしている。石井世界を考えることは自分を知る術であり、世界の淵に指先を伸ばして何かの端っこをつかみ取る方策である。

 表面上は可視できない領域となってしまったが、この草むらは長らく住まった人の、たくさんの係累が連れ去られたままとなった場処に違いはなく、そこを歩きながら、だからこそ余計に強く家族というものへ思いが馳せたのだった。突如生まれたこのサバンナには、記憶が確かに埋っているし、破壊された“家庭”が草の奥からそっとこちらを覗いている。

 振り返れば石井映画のほとんどが、可視化し得ないものとして家族を扱い、はたまた可視し得ない涯へと家族を追い込んでいる。冒頭で激甚な災厄が襲い狂って徹底的に破壊されるのだし、または、それさえ描写する暇も無く、あらかじめ解体されてしまっている。生き残った家族へも風が吹き寄せて、か細い炎はゆらめいて至極不安定だ。この執着は奇妙ながらも石井隆という作家を貫くひとつの特性、感性として無視出来ぬ点であろう。

 たとえば『死霊の罠』(1988 監督池田敏春)での怪人や『GONIN』(1995)の根津甚八と竹中直人なんかが演じた男たちは、すでに消散した家族の記憶を背負いつつ物語に登壇するのだったし、『月下の蘭』(1991)、『黒の天使 Vol.1』(1998)などでは幕が開いた直後に家族は殺害されていく。『ちぎれた愛の殺人』(1993 監督池田敏春)にしても『死んでもいい』(1992)にしても家族は散り散りになる間際にあって、実際そのような道をたどってしまう。

 『フリーズ・ミー』(2000)、『フィギュアなあなた』(2013)では、主人公の苦境を救えたかもしれぬ家族は遠い田舎住まいであって、話すにしても電話の受話器越しに当たり障りのない内容をもぞもぞと交わすだけであるのだし、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)にあっては、せっかく母がいて姉がいて、父親らしき存在さえあるのに彼ら自体が鬼畜の振る舞いで主人公の精神を圧壊させてしまう。ここまで家庭を消失させることに尽力して見える創り手は、東西を見渡しても稀有ではないか。

 『夜がまた来る』(1994)は苛烈な体験の数々がヒロイン名美(夏川結衣)を襲うのだったが、なかでも慄然とさせられるのは夫(永島敏行)が殺害され、火葬を終えた直後の場景であった。整頓し、小さな後飾りの壇を設けて骨壷と遺影を飾ったばかりのアパートの一室に名美とは別の人影がある。夫なのか名美なのか、どちらの係累にあたるか分からぬが、身振り口ぶりから近しい血筋の者と知れるのだったが、打ち沈む名美を独り置いて彼らはさっさと退場し、それを待ったようにして悪漢数名が部屋へ入り込んで暴れまくるのだった。家族というものが、係累というものがこんなに無力感を持って描かれる場面はあまり無いように思う。

 家族を追い立て、打ち倒していくことに作者がこだわる背景にあるのは、怨憎ではなくって、その逆の愛情なり憧憬が在るように感じ取っている。あえかに、けれど執拗に家族への回帰を望む吐息が全篇に薫る。『GONIN サーガ』を演出するに当たって石井は “家族たち”という語句を繰り返す、これまであまり見ないコメント(*1)を寄せているのだが、それは甘ったるい話を書くということで決してなく、凄絶な生き死にを通じての、肉親への裏返った愛慕の発露がこれまで以上の勢いとなって芽生え、萌えあがり、紅蓮の花弁を付けるという予告であろう。足元に埋もれた黄泉をひたすら覗きながら、野獣の群れなすサバンナを自らも野獣となって疾走することの宣言だろう。それを想うと今から緊張が避けられず、もの恐ろしい気分に包まれている。

(*1): http://www.cinematoday.jp/page/N0063839







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