喫茶店で休憩していた折、怖い思いをした。いや、怖い思いをさせてしまったと書くのが正しいのか、そのあたりが微妙だ。入口のそばで、最初から落ち着かぬ席だった。店内は程々の混み具合で、そのなかで私と友人とは明け透けな会話を続けていた。亡くなる人がそろそろ周りに出始め、上辺だけの空疎なお喋りは虚しい気持ちが互いの中に育っている。
ドアを開けて入ってきた二人連れが空いたテーブルに寄ってきて、どっちがどの席に座るかをめぐって言い争うのが聞こえた。声の主はいずれもおんなで、親娘なのか姉妹なのか分からないが、背中越しに聞こえるくだけた調子からすると家族に違いない。
この距離では会話は筒抜けだと感じた。それでも私は言葉を選ばず、話題を回避せず、危うい単語を混ぜながら談笑し続けたのだった。通り魔やストーカー事件にも触れたし、人間の二重性についても踏み込んで話した。わずかながら露悪的な気持ちもあったかもしれない。背後で草葉が風で揺れているような、息づく感じが続いていた。
帰る時刻となって私たちは席を立った。セルフサービスの店であったから、ゴミ箱に近い友人がテーブルの上に置かれていたものを片付けに行ってくれ、私は出口方向へと身体を回し、一歩踏み出したところだった。悲鳴にも似た声が唐突に腹の高さから逆巻いて、それも私へ投げられているのが分かって大いにうろたえた。おんなふたりが揃ってこちらへ顔を向けているのが瞬時に分かった。「こわい」ではなく「こわいぃぃ」と語尾を変にのばす声で、こちらの顔を凝視しているようだった。
ようだった、と書くのは正確には覚えていないからだ。半端な態度をしてしまったせいだろう、私のなかに居座る残像、夏服でテーブルに腰かけ、こちらを見上げるおんな二人の像は、共に白いお多福の面を付けたようであって奇怪なものとなっている。ちゃんと立ち止まり睨み返してやれば良かったのかもしれないが、あの時のわたしは突然の奇声と真顔での凝視に耐えられず、彼らの目をまともに見返すことが出来ないまま逃げるようにして店を出ている。
そんなに恐がらせる話をしたろうかと先の時間を反芻してみても、それ程のこともないのだった。確かに昨今の残虐な事件に触れ、それを題材にした小説に触れ、鬼畜だの投身だの、寒々しい単語は並べたのだがそれが何であろう。もしかしたら、私自身の顔なり身体なりに恐怖するものがあったのだろうか、という考えに行き着いてにわかに青ざめたのは、友と別れて大分経ってからだった。おんな達の少なくとも一人は、私の顔か背後に“何か”を見たのではなかったか。いい気になって廃墟や被災地を歩き過ぎたからか。いや、若い時分に自身の弱い性格を嫌悪して、鬼でも何でもいいから舞い降りて自分にとり憑いてくれ、そして力溢れる男にしてくれと昏い夜道で祈ったせいか。
自宅に戻って洗面台の鏡に向かいつぶさに視てみたが、疲れた中年男が映るだけで特段どこかが腫れているわけでも、湿疹が生じているのでもない。人知のおよばぬ超自然な視力をどうやら授かることのなかった私には、見えないものはとことん不可視のままである。「こわいぃぃ」と叫んだおんなが何を見たのか、知る術もなければ知る必要もあまり感じない。どうせなら毛むくじゃらの悪魔ではなく百太郎のような美形であって欲しいと願わないでもないが、考えてもどうしようもない、見えない以上は手に負えない遠い次元の話だ。一応恐いから念仏を何度か唱えて、それで忘れてしまおうと思う。むしろ今は、そこら一帯に“何か”を見てしまい、その度に肝を冷やしているだろうあの女性を不憫に感じる方が気持ちの中で強くなっている。
さて、先月末に石井隆は『GONIN サーガ』(2015)を撮り終えており、今後ポストプロダクションに注力して来年の公開を目指すのだろうけれど、この『GONIN サーガ』は『GONIN』(1995)の続編に当たっていて、両者の間には約二十年の歳月が横たわっている。思えばこの間に石井の筆づかいは、微妙に進化を重ねている。いつでも旧作を鮮明な画像と音質で楽しめる時代であるため、これまで未見であった若い人が『GONIN』を初めて手に取り、自宅で驚嘆のまなざしで観賞することも多いだろうと思う。気持ちもさぞかし踊るだろう。そのようにして旧作の『GONIN』の残像をあまり引きずり過ぎると、きっと来年に戸惑うことも起きそうだ。正統な続編に違いはないが、二十年の歳月は石井を変え、映画システムを変え、世界を別の色に染めている。
たとえば普段は“見えない何か”の描写についてもそれは言えるのであって、特に2000年以降の作品はこの辺りの振り幅が大きい。『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)では泥酔が、『月下の蘭』(1991)では高熱が引き金を引いて幻影を生んでいたし、『死んでもいい』(1992)や『ヌードの夜』(1993)では不安や恐怖心が夢か現か判別できない時間をもたらしていた。続く『GONIN』で竹中直人が見る家族はあきらかな狂気による産物と観客にも示されていたから、この辺りまでは誰の目にも分かりやすい様相を呈している。
ところが『花と蛇』(2004)あたりから石井はその分かりやすさが物語の勢いを削ぐと感じたのか、それとも、人物の内面により踏み込んだ描写に徹する目的だろうか、境界線を明瞭にしないまま“何か”を見せることに物怖じしなくなっている。『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)、『フィギュアなあなた』(2013)、『甘い鞭』(2013)と、その傾向は強弱の波はあるけれどずっと続いている。
幻視や狂気する人物のふところにダイヴして、その迷走に私たちは同行させられる。彼らが見るものを説明なく見せられ、その事の衝撃と哀しみに共振していく。分かりやすさを追い求め、自ら袋小路へ歩んでしまった感のある平坦な映画づくりが多い中で、石井はなかなか登攀し得ない人の魂という岸壁を独り目指して見えるし、血まみれになってはり付いて見える。本来不可視であるべきものを見てしまったり、追いすがっていく人のこころを不憫と感じ、愛しく感じ、そこに寄り添おうと努めている。
2015年という、この国の未来の透明度がいよいよ減じて不安定この上ない時期に『GONINサーガ』は産み落とされるものであり、石井隆という作家の二十年分の澱(おり)なり皺なりをも反映した顔に当然なる訳である。あれが違う、あの頃は良かったといった懐旧に陥ることなく、新しい鼓動に耳をすませることが肝心だろう。わたし個人とすれば、こわいぃぃ、こわいぃぃ場面が続き、劇場をへとへとになって出る羽目とになる新しい『GONIN』であることをこころから願い、今からあれこれ夢見てしまっている。
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