2011年3月21日月曜日

“三次元で捉えられた背景”~石井隆の劇画手法②~


 石井のインタビュウには手塚治虫、楳図かずお、つげ義春、さいとう・たかをといった同業者の名前が上がるのだけど、一瞥して判るようにタッチはいずれとも段差がある。不勉強でそう詳しくはないが石井と同時期に青年誌で人気を得た他の作家、たとえばつつみ進と比べてみると執拗に描かれたおんなの毛髪や茫漠とした空き地や鬱蒼とした草むらの表現に似たものはあるにはあるが、読後の印象はこちらも随分違ったものになっている。託されたメッセージやテーマはそれぞれ作品ごとに違うのは当然であるけれど、臨場感と言うべきか迫真性と言うべきか、石井の劇画には読み手の腕を取って紙面に引きずり込み、劇空間の只中に内包してしまうような磁力がある。

 よく知られたように石井は自らカメラを操って“背景”となる街角や路地裏を取材していて、それが作品に力を与えているのは違いない。例えば運尽きて降下し続ける人生をようやくそこで支え、からくも繋ぎ停めているかの如き退避所めいた場末の酒場が石井の作品には頻繁に登場するのだが、【黒の天使】(1981-82)や【赤い微光線】(1984)などを再読するたびに驚かされる構図があり、コマ一杯に呆れるほども小道具で埋め尽くされていて目が離せなくなる。劇の展開とともにカウンターの裏側に無遠慮に回りこみ、そこで掃除をし始めたり酔いつぶれては低く屈み込んでいく人物動作が起こっていくのだが、その不意の動きに背景はしっかり追いすがって分離していかない。紫煙とアルコールの入り混じった夕闇の気配をそのまま維持して、ドラマの命脈を生き生きと保つのである。

 教わった話によれば、石井の取材はどうやら半端ではない。もしも、自分が漫画作家だとして特定の車なり家屋なり店舗を背景に選択し、作画のために写真を撮るとしよう。さて一体どれだけのフィルムを費やせるものだろう。こうやってああやって、前から後ろから撮ったらお終いといったところだろう。せいぜい50枚も撮ればもう撮るところないと思うに違いない。ところが石井は黙って200枚ぐらいは平気で撮るのだそうだ。どんな使い方するか分からないからと、車であれば上から撮ったり中から撮ったり、内部もブレーキのペダルから、運転している視点から撮りたいとかその徹底ぶりは凄いらしい。酒場など主要な舞台ともなれば数百枚にもなるらしい。

 数撃てば当るというのでなく、撮ったどの写真も構図が決まっていて絵になっているということがさらに驚嘆させられたそうである。何十枚撮ってその中で数枚しか使えないというのではなくって、どれもこれも格好がよい。最初から構図の切り取り方が抜群だそうで舌を巻いたとのこと。そのような徹底振りが石井劇画の舞台を三次元的にしており、縦横無尽な活用を実現に導いたのだ。人物と背景が隙間なく一体となって連なり、決して乖離することはない。石井の頭のなかでの劇画構想はつまり動画を作成する観点から立ち上がっていて、それも今風のコンピューターグラフィックによく見受けられる3Dに似た捉え方なのだろう。背景の考え方が写真館でよく目にする狭苦しくささやかなホリゾントとは仕組みも大きさも違っているということだ。

 石井の映画作品を観ていてもこれと似た感慨、著しい3D感が押し寄せる瞬間が幾度も巡って来る。前後左右に加えて上昇と下降も目まぐるしい。動きの種類によっては宗教的なメッセージが込められていると思ってもいるけれど、劇画制作でつちかった奔放な視座転換がこの石井らしい躍動へと導いた可能性は大いにあると推察している。



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