この一週間の出来事の仔細と今も目の前で繰り広げられている悪い夢にも似た光景の数々を書き留めて記憶に刻み、次の世代に伝えようかと余程思わないでもないのだけれど、エアポケットに落ち込んだような週末の静かなこの午後に記しておきたい内容はやはり石井隆と彼の作品に関する思索のあれこれだ。 真黒い大波に洗われることなく、家族や知人も皆が無事であったことの幸福に浮かれ騒いでいるつもりは決してなく、こういう表現がこの時機ふさわしいかどうか判らないけれど“土壇場”、“瀬戸際”という感じに絶えず圧迫されているせいだ。三十年という歳月を跨いで観て、読んで、考えてきたものを早く形にしておきたい、こうしてモニターに向かっていられるような時間は一切合切無くなってしまうのではないかと背中を銃口で小突かれている気分でひどく焦っている。 深呼吸をして、ふたたび石井の“冥府”に気持ちを戻そう、と、したのだけれど今度は“不謹慎”という言葉が頭の隅の方でちらちら明滅する。思えばここ一週間、映画、小説、テレビドラマといったフィクションに気持ちが一切傾かない。生物としての原始的な部分で何かしらの回路が遮断されたみたいで、飲酒その他の身体的欲求がいずれも大きく減じてしまった。戦時下の日本で娯楽、音楽を徹底して禁じ、美粧を控えたことを思い返して、なるほど、そういう厳しい局面では無理強いなどしなくても自然に誰もがそうなったのかもしれないな、なんて想像を巡らしてみたりする。こんな時に映画や漫画のことを書き連ねることは他人からはずいぶん“不謹慎”に見えることだろう。 けれど、わたしの目に石井隆の世界はひとりの個性的な絵師による「宗教画」に準じたものに見えているから、語ること、紹介することを卑俗で無価値とは毛頭思っていない。わたしの“私らしい人生”には大事なことと考えているのだけれど、沿岸部の惨状や受話器越しに聞く知人、友人からの切な過ぎる話と衝突して逡巡するものがある。もう一度、深呼吸してみよう。 石井は『死んでもいい』(1992)公開時に行なわれた対談(*1)でフランスの監督ロジェ・バディムRoger Vadimについて突然に相手から振られた際、即座に『血とバラEt mourir de plaisir』(1960)のタイトルを上げて、劇場に「何度も通った」作品と返している。この『血とバラ』の中には幻想的な夢のまとまりが在って、その中のひとつは後年石井が描いた【真夜中へのドア】(1980 タナトス四部作に含まれる)の一場面と繋がって見える。 身の丈もある大きな窓を境にして現世と冥界とが隔てられており、向こう側は水槽か海のような具合になっている。石井の作品においてはひどい火傷を負って死線をさまよっている名美の母親がゆらゆらそこを漂い、徐々に光の届かぬ暗い方へと遠ざかって行く。慌てふためいた名美は窓を必死に叩いて母親を引き止めようとするのだったが、黄泉の死者はもはや手遅れと取り合わないのだった。 上の対談において石井は『血とバラ』には確かに何度も通ったけれど「他にもそういうのはあります」と言い添えて、バディムに拘泥したのではない事を強調している。なるほど石井は“バディム派”と括られる程には同監督作品に酔ってはおらず、『血とバラ』という作品についてだけ極端に酩酊して見えるのだ。 石井の劇画には多くの映画、絵画の面影が投入されているのだけれど、どれもが閃光のように断片的なのが特徴となっている。雨滴が車のサイドミラーの下辺にへばり付き、丁度差し込んだ朝日を屈折させてしばし凄まじい真っ赤な光を投げかけてきて、程なく力尽きて地上に落ちていくことがあるけれども感じはあれに似ている。つまり人気作品に便乗して筋運びや人物像をそっくり真似るとか、丸々まとまった場面をそのまま盗用するという性格のものとはまるで違っている。一瞬だけを組み込むのである。 本当は石井劇画に散りばめられた多くの事象をひとつひとつ取り上げ、比較検証しながら石井世界とは何かを究めて行こうと思っていたのだけれど、世間の事情があまりにも騒然として先が見えない状況であるから私なりの結論を急げば、石井世界は呑まれることなく、相手をどんどん呑む。絵画、映画スチール、グラビアといった一瞬の情景を幾つも呑み込んで花ひらいた結晶体の面影がある。ロマンティークな男女のドラマの其処此処に別な物語の息づきが挿入されて、せわしく懸命に、健気に肩寄せ合って活動しているように見える。 そして大事なことは、それら挿し込まれた細片のどれもが石井隆にとって愛すべき記憶の断片に等しく、劇の骨格と同等に想いがひとつひとつ込められているという事だ。コマを埋めるためにルール無用にあたり構わず切り貼りされたのでなく、愛着ある光景なり恋している女優の容姿といったものに充たされてあるが為にコマのひとつひとつが生命を得て語り始めるのである。 この細分化されながら全体を皆で担っているという石井劇画独特の構造が後年の映画演出にも影響し、日本映画には類を見ない“群像劇”へと発展していった。少し急いでしまったけれど、そのように自分なりに読み取っているところだ。 (*1):「月刊シナリオ」 1992年10月号 桂千穂〈作家訪問インタビュー〉クローズアップ・トーク
石井隆を読み進むに当たっていつ頃からイングマール・ベルイマンIngmar Bergmanを意識したかを振り返れば、『叫びとささやき Viskningar Och Rop』(1973)のスチールが口火だったと記憶している。雑誌掲載の鉛筆画に始まり、やがて単行本「名美」所載の【緋のあえぎ】(1975)扉絵へと加筆され再録なった石井の一枚絵と構図がとても似ていた。いずれも寝具に音もなく横たわるおんなと一体の人形とが並び描かれていた。 痛々しいとか哀れというのではない。卑猥という括りも当てはまらない。誰しもが懐中し、時折向き合わねばならぬ独りきりの時間が描かれていた。もちろんスチールと絵とでは趣きが違うのだし、横たわる顔の向きも左右別々で異なっている。しかし、なぜかしら両者は妙に引き合うものがあって、奥まったところで囁き続けて止まないのだった。 こうして深く凝視めるに至ったベルイマンの作品には、心理描写や夢魔の扱い方に石井と共通する“生理”が認められて唸ってばかりだった。例えば『沈黙Tystnaden』(1963)や『叫びとささやきViskningar Och Rop』(1972)等を見ると、質感がやたら似た場面に突き当たる。ワイングラスの割れた破片で自らの股間を傷付け、鮮血に染まるのを横暴な夫に見せつける。さらに血に染まる手の甲で唇と頬を拭っていく『叫びとささやき』での壮絶な血化粧なんかはその典型だ。口元を紅くして艶然と微笑むおんなの顔は、石井の描き続けた面影にしっとり像を重ねていく。【蒼い狂炎】(1976「別冊ヤングコミック女地獄」第2集所載)や【水銀灯】(1976「イルミネーション」所載)で自傷し崩れ落ちていく名美の姿がたちどころに思い返された。 もとより石井は石井、ベルイマンはベルイマンであって、各作品のいちいちの描写を取り上げ例証しても詮無いように思われ、何より両監督に失礼だろうと臆するものが湧いて来る。されど映像以外にも共通する面があることを知ってしまい、困ったことに諦めがいよいよ付かなくなってしまうのだ。三木宮彦著「人間の精神の冬を視つめる人 ベルイマンを読む」(フィルムアート社1986)を読み返し、次の文章に行き当たってしまった。「登場人物の名にはアルマやヴォーグレル(*1)という、以前の作品のものが使われており、ミスティフィケーション効果を出している」。ここで言うミスティフィケーションmystificationは児童心理学用語でなく、単純に「神秘化」という程度の意味合いだろう。 石井の劇でも“村木”や“名美”といった人物名が幾度も復活してはスクリーンを賑わせるのだし、似たような状況や小道具が彼らを取り巻いて“宿命”へと追い込んでいくところがある。例えば『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)では竹中直人が演じる“編集者”葛城が需要な役回りを演じていたけれど、容姿こそ違え【赤い教室】(1976)、『天使のはらわた 名美』(1979監督田中登)、【その後のあなた】(1980-81)、『ルージュ』(1984監督那須博之)の各編集者と共振するものが確かにあって、その都度に読者や観客は手の平に大量の汗をかきながら息を押し殺して見守ることと相成る。程なく顔を覗かせるだろう狂気と惨劇、鮮血や分裂といった大混乱を予感してひどく慄(おのの)いたものだった。これなどは石井らしいミスティフィケーションと呼べるのではなかろうか。 映画監督である前に熱烈な映画ファンを自認する石井であるから、過去に於いてもしもベルイマン作品に触発されたのであるならば、その旨をどこかで必ず喋ってしまうはずだ。残念ながら直接名指しで言及した箇所はなかったように記憶しているから、両者の関連は単なる思い込みなのかもしれぬ。しかし、だからと言って両者の“類縁性”といったものまで容易に掃き捨てて良いとは思えない。 過去の作品群を忘却の深いぬかるみに埋没させず、むしろ表層に雨を叩きつけるようにして反響をわんわんと誘い、新たな作品に活きた弾みを付けようとする。決まった人格と名前を継承して言霊(ことだま)の力を極限まで高めようとする。そんな策謀を石井隆は駆使しているのは違いなく、その強靭な作家性を海の向こうの巨人ベルイマンを引いて語るにいささかも無理や誇張は感じられない。石井隆とは実のところ、そんな国際性を背負った面白い監督なのじゃないかと考えている。(2007年08月15日03:15、2007年08月27日01:56) (*1):同著によれば“ヴォーグレル”は“鳥”の意。
石井隆の監督作品のなかに『フィギュアなあなた』(2006)と題された小品がある。「週間アサヒ芸能」(徳間書店)の販売促進企画で応募者全員に頒布されたDVD作品であり、後にムック本「杉本彩DVD付写真集 妖舞裸身」(2006)として販売もされている。映画や劇画作品とは趣きを異としており、構成もシンプルで収録時間もおよそ25分間と長くない。そのような出生であれば世間で知る者も少なく、また、軽んじられる傾向にあるのはやむを得ない。しかし、二重三重の視座を許容する多層構造、またはパラレル世界を透かし込んだ石井隆の“劇”を読み解く者には、石井の映像作暦上新たな試みが為されていることに気付くだろう。 物語は実質男女二人だけで成り立っている。その骨格は「アサヒ芸能」の12.29-1.5新年合併特大号に紹介されている200字足らずの「ストーリー」により語り尽くされてしまう。「プロモーションビデオ撮影のため、フィギュアの特殊造形衣装を着けてポーズを取る女優・マヤ(杉本彩)。撮影終了後、造形師の内山(山口祥介)は隙をついてマヤをクロロホルムで眠らせ、全裸に剥いたうえに、フィギュアの衣装を着せる。よこしまな欲望を抱いた内山は、マヤの足を大きく淫らに開き、自分だけの世界に埋没していく…。」 顛末を語る必要から先の先まで続ければ、「警備員の巡回に慌てた内山の手の平がマヤの口を強くふさぎ、マヤは窒息寸前となる。目覚めたマヤは内山の仕事場で円柱型のプラスチックケースに身長わずか二尺足らずのフィギュアとなって収められている自身を認め、あらん限りに絶叫しようとするのだがその声は誰にも届かない。恐怖に引きつるマヤの顔は突如破顔し、カメラに向かって大きくウインクして静止する」 唐突過ぎる終幕と短い収録時間からは劇画【カンタレッラの匣】短編連作(ロッキング・オンより2000年単行本上梓)がまず連想なるのだけれど、最も透かし見えてくる過去の劇画作品をあえて選ぶならそれは【真夜中へのドア】(単行本「少女名美」他に収録)になるのではないか。1980年に「増刊漫画アクション」に掲載されたこの作品では、帰宅途中の高校生名美が暴漢に襲われ、抵抗のあげく喉を圧迫されて絶命する。その刹那、作者は名美を冥界にて覚醒させて短い死出の旅を行なわせている。 『フィギュアなあなた』でマヤに強いられる執拗な口塞ぎは明らかに窒息死を演出していて、以降のシーンは【真夜中へのドア】同様に“死線を越えた”と捉えるべきだろう。して見れば、霊体となって“むくろ”に残留したマヤの叫びが空気を振動させることなく、空しく真空に吸い込まれていくような口パクの描写も得心がいく。直後の不自然なウインクというのはマヤの思考がいよいよフィギュア体内へと埋没してしまい停止した、いわば“魂の消失する一瞬”として描かれていたのではなかろうか。 昔のホラー映画『肉の蝋人形House of Wax』(1953)では、若い女たちが殺された挙句マリー・アントワネットやジャンヌ・ダルクの人形へと加工されていったが、あれはまだ実在した女性であり人間であった。マヤが加工されたのはプラスチック製のフィギュアである。人間ではない。女性性を強調されたオブジェではあっても、それを生きた女性とは言いがたい。極めて稀で冷徹な展開が訪れている。
石井の映像作品で女性が殺められる陰惨な瞬間は確かに多いのだけれど、石井の意図する基底に在るのは、過去のインタビューで首尾一貫語られている通りであり、腕力の差から毎夜毎夜どこかで殺されていく女性という“儚い存在への想い”に他ならない。屍体の描写についても愛惜の念を投射して一線を守っている。 時として筆が走り、より破壊的な辺境へと浸入する場合もなくはなく(それゆえに随分と印象に刻まれたものだったが)、たとえば連載劇画【魔樂】(1986‐87)においては月岡芳年を越えるぞ、とばかりに辛酸陰鬱な殺害場面を連綿と描き、ふと嗅覚に鮮血の匂いを錯覚するような鬼哭啾々たる異作に仕上げていた。大きく振り下ろされた斧により生身の肉体が“物体”へと変質する刹那を描いた【魔樂】の極北の光景と、『フィギュアなあなた』での終幕の針の振れ方は相通じるように思える。別人格どころか生物であることすら全否定された“プラスチックのむくろ”へと“物質化”した己の哀れな姿を、最期に透明な器の内壁を鏡のようにして垣間見たマヤというおんなの心中の混濁と悲愴さは想像して余りある。 こうして見ていけば『フィギュアなあなた』とは、お気楽な空気を大衆に振り撒きながら、その実は慈愛の目線で女を描き続けている石井のドラマの根幹に少しもたがわず、近作『花と蛇』と似た構造を内包した“精神の格闘”の顛末でもあったのだ。 石井は劇画作品として上記の【真夜中へのドア】のほかに、同じ1980年、似た展開で名美というおんなが迷い込んだ冥界をつぶさに描く試みを重ねている。いずれも単行本「おんなの街」他に収録なった【赤い眩暈】【赤い暴行】【赤い蜉蝣】がそれである。これらに描かれた冥府幽界は石井が過去感銘を受けた映像イメージの連結が基底となって創造されたと推定される。つげ義春【ねじ式】【夜が掴む】【外のふくらみ】、ロジェ・バディム『血とバラ Et mourir de plaisir』(1960)、ポール・デルヴォーやモンス・デジデリオの絵画、アンドレ・ブルトン著、稲田三吉訳 『シュールレアリスム宣言』の挿絵といったところが点火地点なのではないかと想像を巡らしているが、大胆なカットバックと当時の技法では最高峰と思われる緻密極まる線描にて創造されたそこでの石井の冥府は、実は石井の監督する映画に再現されたことは一度としてなかった。(*1) 過度の飲酒や事故、睡眠不足から陥る悪夢世界、昇天できないで死後そのまま“現世”を飛翔する霊魂と彼らの漂流する想いは描いても、現世から冥界へと越境してカメラの三脚を移し立てることはなかった。執念の作家として自らに内在するイメージを三次元化し、フィルムに定着させてきた石井には貴重な処女地、それが冥界であった。 映画鑑賞を愉しみとする者には、彼岸を描いた作品名を列記するのはたやすいことだろう。中川信夫『地獄』(1960)、神代辰巳の『地獄』(1979)、ダグラス・トランブル『ブレインストーム BRAINSTORM』(1983)、ジョエル・シューマッカー『フラット・ライナーズ FLATLINERS』(1990)、エイドリアン・ライン『ジェイコブズ・ラダー Jacob's Ladder』(1990)と枚挙に暇がない。人にもよるのだろうが、こういった“冥府もの”を観たとき、妙に冷めた自分を感じることがある。宗教観や文化、年代によって人が思い描く冥府の姿は大きく異なり、万人を納得させ得る霊界のイメージを創出することはなかなか大変なことだ。 “映画作家”石井が読者には馴染みの廃墟、断崖、森、水槽をランドマークとする冥府を再現しないで迂回し続けたのはその意味で正解であったし、此岸に神話世界を創出することに徹したのは商業監督の選択として申し分なかった。しかし、『フィギュアなあなた』においては、ついに杉本彩は僅かながらも明確に死線を越えている。死後、場所を違えて覚醒した瞬間、なんとフランス人形並の背丈となった自身を知る。“地獄”へのランディング以外の何物でもない。 見えざるプラスチックの薄い皮膜が蝋のように顔面を覆い、救いを求める意思は瞬時にして氷結した。杉本彩の愛らしい笑顔とウインクとは、好色な読者へのおべっかでも『ヒッチコックのファミリー・プロットFamily Plot』(1976)へのヒッチコキアン石井によるオマージュでもなくって、マヤという人間の息の根を再び仕留める大斧の一撃であり、これからの石井作劇を見守る上で記憶に値する衝撃的な刻印なのだ。 ◆ ◆ ◆ さて、過去の石井劇画において、上記の作品たちとは別方向から『フィギュアなあなた』に向けて急浮上してくる作品群がある。レンズ越しの視線に憑依された男たちの物語だ。【陰画の戯れ】(1975)、【甘い暴力】(1977)、【黒の天使 黒のⅡ 血を吸うカメラ】(1981)、【夜が冷たい】(1985)、といった作品には、カメラレンズやブラウン管モニターを女性との間に介在させないと関係を立ち上げられない、かなり傾斜した熱情に捕りこまれてしまった男たちが登場する。特に【甘い暴力】に登場する青年は『フィギュアなあなた』の特殊造形師とキャラクターを近似させている。 冷静に考えてみれば山口祥介演じるこの内山の行動は不可解だ。自らの手になる特殊なコスチュームをマヤが着装し、まばゆいライトに照射され、プロのグラビアカメラマンに連写される劇前半にて造形師としてもフィギュア愛好家としても本懐は遂げているはずであろう。 官能小説家であり女優でもあるマヤが杉本彩(アヤ)の分身であるのは名前が物語る通りで、我ら視聴者の助平な期待に応えてマヤは自信満々として丸く張った乳房や臀部はおろか、豊かな恥毛も開幕当初から全開であるのだから、見せられなかったことへの不満が内山の内部で膨張しているのでもないはず。ならば、コレクターとしての所有欲の暴走圧壊なのか、といえば、どうもそれも馴染まない。さっさと誘拐監禁するでもなく、ラストシーンでは肝心のマヤのボディに背を向けてさえいる。 巡回する警備員の目を盗んで無謀な“ビデオ撮影”を始めてしまう、その狂った熱情。意識なく横たわるマヤの裸身を前にしても性交へと至らないどころか、ご丁寧にも下着を履かせてしまうのである。この偏り具合は【甘い暴力】の青年と同様で、“撮影という行為”に淫し切っているのは間違いない。仕事部屋に戻って、もはやするべきことは全て為し得たといったスタンスで安息の時を過ごしている内山のけだるさは、女性を緊縛しては撮り溜めたポラロイド写真に埋もれて寝息をたてる【甘い暴力】の青年と重なっていき、どちらも草食獣のような穏やかさだ。 フィギュアに萌える者を何と呼べばよいか分からないが、この内山という男の本性はそれではないということだろう。コレクターでも、レイパーでもなく、石井の創造してきた「写真に淫した男」というのが正解らしい。また、仕事場に置かれたマヤはコレクションに加えられたのではなく、巧妙に「隠された」ということが内山から見たストーリーなのではなかったろうか。 このようにして読み解いて来た後に、三週続けて掲載されたグラビアを見直してみれば、杉本彩の豊満で円熟した肉体とジャパニメーションの色彩が組み合わさった奇怪なエロティシズムが、当初目にしたとき以上に視線を捉えて離さない。DVDの宣伝材料であるのでなく、「写真」が主役なのではないか。むしろ動画は予告編の印象となって大きく脳裏に後退し、グラビアの杉本彩の「完全に静止した=死んだ」姿態が未体験の妖艶な乾いた色香を放ち始める。 即ち『フィギュアなあなた』という作品はマヤという女がどのようにして死んでいったかを描いたドキュメント“動画”と、逝く間際、処刑前の土壇場の女が生命の焔を瞬かせ、強い閃光を発した瞬間を「写真に淫した男」(それはつまりは内山という男と、もう一人、グラビア用の写真撮りを兼任した「石井隆という写真家」を指す)が、掬い取って定着させた“静止画”の双方によってコラージュされた全身を指し示すもので、それら全てを俯瞰して眺めることで見えてくる構図は、撮る者と撮られてしまった者との訣別、残された者と去り逝く者とのドラマであって、つまりは【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979) にも静かに通底していくのである。 石井監督はインタビューにおいて過去二度フィギュアについて言及していて、その時は明解にフィギュアとは何かを分析してはいなかった印象が残る。『フィギュアなあなた』という作品は、日本人のリビドーと格闘してきた石井隆がフィギュアの本質を遠回しに語っている調査報告書なのだろう。そこに石井隆という作家の挑戦を見る。自作の複製に止まらず、日本列島に湧出する新たなエロスについても貪欲に吸収していくクリエイターの凄みを烈しく感じている。 (2006年04月16日22:19) (*1):これを書いたのは5年近くも前になる。その後石井隆は“精神の格闘”を主軸とする『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)と『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)を撮り終えている。いずれも死線ぎりぎりの描写であって、特に後者は石井の冥府とかなり近しいものとなっている。舞台挨拶での「命を削って撮った」と言う本人の弁はもちろん体力的なことを指すのだけれど、ドラマ自体が限りなく死線と接していた、ということも一面では含んでいたように思う。