2021年現在、石井の鳥はどのような変化を遂げているか。『フィギュアなあなた』(2013)の人形少女がそれである。
道路を横断中に車のヘッドライトを間近で浴びて以来、何が何だか分からないけれど記憶が錯綜し、理路整然とした景色を保てなくなった男(柄本祐)が主人公である。廃墟ビルの奥の部屋で人形少女(佐々木心音)と彼は出逢う。人形は十万馬力の鉄腕を奮って悪鬼を次々に蹴倒し、超然とした様子で男を危機から救っていく。観客はなんだか狐につままれた気分を味わいながら、なんとか石井の意図を探ろうとするのだったが、やがて冒頭のタイトルバックに挿入されたポール・ギュスターヴ・ドレの版画から連想を広げ、ダンテ・アリギエーリの「神曲」におけるウェルギリウスに着想を得た黄泉の国の住人と彼女を位置付ける。少なくとも私はそのように解釈した。(*1)
螺旋階段の脇を地上めがけて飛び降り、その後、重力に逆らって悠々と階上へと飛んで行く奇妙な動きに呆気に取られながらも、これはウェルギリウスであるから可能であるのだ、と何だか居心地の悪さを覚えつつ成り行きを見守った。人間にあらざる者だから何でもありなのだ、と考えて荒唐無稽の連続する展開を楽しんだ。
しかし、程なくして石井はそんな私たちに向けて、例によってぼそぼそと声を潜めて、種明かしをするのだった。人形少女は唐突に純白のベル型チュチュを身に纏って現われ、主人公の目前で再度地面を蹴って舞い上がり、夜空をくるくると飛翔してみせる。黄泉の世界で先回りして待っている存在で、且つ、暗い天空を浮遊し、孤独な越境者を導いていく。つまり、人形少女は鳥の化身であったのだ。
当初は誰もその事には気付かないし、過去の石井作品を読んだ者、観た者でなければ、おんなが白鳥を模した衣装で飛び回ることが何を物語っているか理解出来ないだろう。分かる読み手には分かってもらいたいが、分からないならそのままでも良い、おんなの白い裸身と光と影の織り成す夢幻のタペストリーに圧倒されればそれはそれで娯楽映画の愉しみ方としてまったく構わない。いつも通りのスタンスで石井はいるが、自作【赤い眩暈】の映像化をいよいよ図った結果だった、というのが『フィギュアなあなた』の真相である。
「鳥」に関して石井隆の作品を幾つか取り上げてきたが、それぞれの発表年に再度目を凝らせば、そこに独特の歩幅が認められて興味深い。【赤い陰画】1977年、【赤い眩暈】1980年、『GONIN2』が1996年であった。ボンと飛んで『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』が2010年、『フィギュアなあなた』が2013年だ。七十年代、八十年代、九十年代、そして二千年を跨いで羽音をばたばたと響かせている。頭上を横切る特異な影を誌面と銀幕に定着させている。
独立した物語がほとんどで、実際、上の五篇は傍目には直結しては見えない。少なくとも一般的な目線では完全に個別の話であるのだが、石井の「鳥」をめぐる描写が背骨のように貫かれているのだし、徐々にそんな鳥の外観が変化していく様子が視止められる。三十年を越える長い期間、石井は黙々と模索しながらちょこちょこと描き足していたのだ。理解者は皆無に等しく、文化人はそこまで掘り下げた密度ある評論を展開せず、だからひたすら孤高を保ちながら、絵筆をカメラに替えてまでして実は「鳥」を描いている。
己が描いた事象につき、これを終わったものと捨て置くことなく反芻し、表現を変えながら再度描いて納得するまで止めようとしない。これは体質的に「絵描き」のもので、流行を追うばかりの作り手とは趣きを異にしている。石井の美学と作家性がそれを強く促がすのだろう。その特質に気付いた読み手の思考の中では、縦断的、間欠的な作品解析が往々にして起こっていく。
「鳥」が「何か」に変わり、「少女」へと移ろいながらも、まだそこに温かい血は通わない。人間ではないこと、をまだ放棄していない。ひんやりと冷たい手足の物体となって、静かに誰かを待ち続ける。這いずるようにして辿り来し者を見定め、その彷徨を遠目に見守っていく様子がいつまでも連なっていく。石井隆の内部に宿る哲学、揺るがないものを感じる。凝視める先の日常の諸相に対する、一種恐るべき冷酷さと諦観の重く横たわるのを私はついつい想ってしまう。
(*1):“森を歩くもの” https://grotta-birds.blogspot.com/2013/06/blog-post_23.html
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