2021年4月11日日曜日

“凶事の全貌《2》”~バイロン「サルダナパロス王 SARDANAPALUS」~


  バイロンは1821年に劇詩「サルダナパロス王 SARDANAPALUS」を上梓している。数えるとまだ三十三ほどの歳だ。浅学な私はこの「サルダナパロス王」の全文に目を通すことは出来ずにいるが、笠原順路(かさはらよりみち)が訳して編んだ詩集にその細片をいくつか視とめることが出来る。また、頁の下に小さく添えられた要約をもって、この劇詩の輪郭をおぼろながらも窺うことが許される。

 ここではあえて要約だけを書き写してみる。文面に練りこまれた肝心の表現の巧みさを褒め称えるのではなくて、補足部分のみに焦点を絞るのは脱線も甚だしいのだけれど、今は詩人にも訳者にも失礼を詫びつつ先へ進みたい。

 「サルダナパロス王は、今夜予定されている宴(うたげ)を中止するよう、側近サレメネスや愛妾ミュッラから進言されるが、頑として聞き入れない。反乱の画策をしている臣下を発見しても、捕らえることもせず釈放する。宴のさなかに敵が攻め込んできたという知らせを受け、やっとのことで武具を身に着け、鏡で身だしなみをととのえて出陣する。王の一族が敗北を覚悟したところで、反乱の首謀者ベレセスが大広間に乱入。王はこれまでとは打って変わって勇敢にベレセスと渡り合い、王自身、負傷する。」(*1)

 「翌日に反乱が攻め込んでくる公算が大きくなった夜、側近サレメネスは、王妃と王子たちを、宮殿から避難させる手はずをととのえる。王は、サレメネスの進言で、冷え切った関係にある王妃ザリーナと、最後の言葉を交わす。」(*2)

 「王妃ザリーナは、この王の言葉に心打たれ、このまま宮殿に残って王と一緒に死ぬと言う。王の血筋を絶やさないために、王子と王妃は脱出せねばならないと主張する側近のサレメネスと口論となり、気絶して運び出される。王も衷心から王妃に与えた心の苦しみを悔いる。朝になり反乱軍の攻撃が再開する。これまで脆弱だった王は、最後の場面で、敵も臣下も驚くほど勇猛果敢な働きを示す。しかし時すでに遅かった。サレメネスほか王身辺の者が次々に死んでゆく。やがて新王アルバケスからの伝令が来て、助命と亡命の許可を伝える。サルダナパロスは、王妃への伝言を託して忠臣パーニャを脱出させると、最愛の女奴隷ミュッラと抱き合って宮殿に火を放ったところで幕になる。」(*3)

 これがバイロンの劇詩「サルダナパロス王」の骨格と思われる。この劇詩は出版から十三年を経て劇場で上演されたというから、当時の欧州でそれなりの人気を得たものと想像される。馬鹿馬鹿しい連想ではあるけれど、読んでいて「軍記物の講談」にも似たやや古風な装いだったと知れる。想像よりもはるかに平面的な舞台調の顛末だった事に、やや裏をかかれたみたいな気持ちが起きぬでもない。染色した赤い布か何かでしつらえた、めらめらゆらゆらと揺れる炎のなかに沈んでいく王と愛妾の寄り添う影に、劇場のあちらこちらから嗚咽が漏れ、紅涙を絞る皺だらけの顔と顔が舞台を見上げているのがありありと目に浮ぶ。

 上記の通りでバイロンは自作の上演を観ることが叶わず、執筆して三年後にはあっという間に頓死してしまう訳だが、その臨終から三年の後、これも若い三十前のフェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワ Ferdinand Victor Eugène Delacroix という野心的な画家が、この劇詩に着想を得たと世に言われる大作を出展し、パリのサロンを騒然とされている。詩人の言葉が画家に宿り、そこで根を張り草葉を茂らせたのである。

 詩人がもし生きていたら、自身の言葉が火種となって連鎖式に絵画作品や演劇が織られていき、それが大衆の肺腑をつぎつぎに悲哀で焼いていく様子をどのように眺めただろうか。古代アッシリア王にとって人生を狂わせたのは反乱軍であったが、平和な時においても他者は人の魂と運命を変えていくのである。他人の為した想像と創作行為が皮膚を破ってじわじわと体内に浸透していき、時に未来の顔立ちをまるで違ったものにする。

 確かにその通りだ。私たちは他者の介入によって歓びを得て、されど傷付き、また成長していく。バイロンとドラクロワというふたりの天才の邂逅と作用を我が身に照らして思いやれば、妙に胸を打って響くものがある。


(*1): 「対訳 バイロン詩集―イギリス詩人選〈8〉 岩波文庫」 編者 笠原順路 岩波書店 2009 222-223頁

(*2):同224頁

(*3):同228-229頁

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