睡眠時の夢には脈絡なく昔日の風景なり忘れていた人物が立ち現われる。目覚めてからどうして出て来たものか訳が解らず、首を傾げることが多い。今朝のそれは以前世話になった人の面影であり、幾らか老けて見えるものの元気そうであった。往時には古いスポーツカーを大事に乗っていたのだけど、夢の中でもそれと似た車を軽快に走らせていた。
いや、おかしいぞ、と寝台で枕に顔を埋めながら暗算してみれば、現在生きていれば彼の実年齢はもっともっと上のはずである。既に鬼籍に入られていても全くおかしくない計算なのだった。夢のなかのような若々しい人相を保てるはずがなく、中途半端に歳月を重ねて珍妙な映像と思う。
いちいち夢に対して真剣に応じても詮無いことで、どうしてそんなつまらぬ話をここで持ち出すかといえば、いかに私たちの記憶はあやふやかを言いたい訳である。どんなに気合を入れて臨んだとしても正確無比に瞳に刻み、また、脳裏に完全再生することは出来ないのであって、「所作とその捉え方、切り取り方が完全に一致している」景色の復活というのは映画や漫画の特権だということ、その再確認のためだ。
さながら同一に見える風景が再度面前に展開することは、即興を徹底して禁じた芝居でもなければ見当たらない。フィルムを焼き増しして繋ぐか、丁寧に描き写すなり機械で複写してコマを再現しなければ為し得ないのだ。一種の奇蹟を映画や漫画が目の前に展開させている、この点を私たちは生理的に承知している。だからこそ作品中で繰り返し現象を目撃すると胸が瞬時にざわつき、過去の観賞時の記憶をまさぐって両者を強く結び付けようとする。
【天使のはらわた】第三部(1979)と【少女名美】(1979)の反復を意識して考え始めたとき、やにわに連想を誘ったのは粟津潔(あわづきよし)ではなくて、実は手塚治虫(てづかおさむ)の【火の鳥】であった。最初にこちらを例示した方が理解の助けになったかもしれない。
承知の通り手塚の【火の鳥】は人類史を縦断して描かれる壮大な長編連作であり、作者の死で残念ながら未完に終わっている。永遠の生命を持った火の鳥を軸に人間の欲望や愛憎を赤裸々に描いていくのだが、本当の主役は輪廻転生と時間軸のループしていく神々しい様子であろう。大過去の【同 黎明編(COM版)】(1967)より始め、次に【同 未来編】(1967-68)で超未来とその先に待ち構える人類創生を一気に描き、将来起こると運命付けられている事象として前作の一場面を組み入れている。ユニークで大胆な円環状の構成であった。天才は全く恐ろしい発想をするものである。フィルムの最後のコマを最初のコマに接合することで無限ループ的に映画が終わらなくなる、そんなイメージを最初から読者に植え付けた上で劇の詳細に斬り込んでいくのだった。
ここで引用したコマの展開がその【火の鳥 黎明編(COM版)】と【火の鳥 未来編】で別々に描かれた同一の場面である。有名な作品の有名な場面なので、ああこれか、と分かる人も多かろう。血を飲めばどんな重病人も快復するという言い伝えを信じた男が勇気を奮って火の鳥を狩ろうと試みるが、まったく歯が立たずに返り討ちに遭う場面が描かれている。(*1)(*2)
あえて近似したコマの形状と配列を行い、その中に置かれた狩人の所作を丁寧に描き直して、同じ時空であること、歴史の繰り返す様を読者に教えている。先述の「コード化」という単語を再度持ち出せば、ここではコマの配列と各描画の組み合わせから「時空間のコード化」とでも呼ぶべき事が手塚と読者の両方の認識に起きている。「所作とその捉え方、切り取り方が完全に一致している景色の復活」を私たちは見ている。
石井隆の【天使のはらわた】第三部(1979)と【少女名美】(1979)の各3コマはこれに準じた構成となっているのだけれど、繰り返しになるが【天使のはらわた】と【少女名美】の時空間は一致しないのである。
漫画の神様と誰からも尊称される手塚治虫が「時空間の同一化」はこうする、と模範的に示したものとは似て非なる表現を石井劇画は密かに為している。【鉄碗アトム】(1952-68)を愛読して育った石井が手塚に反旗を翻している訳では当然なくって、一般的な漫画の組み立て方とは全く異なる次元の創意工夫が石井劇画には注入されている、ということだろう。
それは一体何かを探っていくことが、結果的に石井作品の魅力をより際立たせることに繋がると考える。
(*1):「火の鳥 黎明編(COM版)」 初出「COM」1967年1月号 - 11月号 画像引用は角川文庫 2018 11頁
(*2):「火の鳥 未来編」 初出「COM」1967年12月号 - 1968年9月号 画像引用は 手塚治虫文庫全集 講談社 2011 280頁
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