映画という触媒によって観客がどんな心境を被ったのか、つまり、人が人にどう揺さぶられたかを知るのは妙に愉しい。その辺の感慨を上手に言い表せる人と談話していると、綱でぐいぐい牽引された具合となって観賞したい欲求が一気に膨らんでいく。あらすじを教わっただけでは大して惹かれない。ある程度の年齢になれば尚更のこと、触手はそよとも動かない。
だが、論考の必要に迫られ、今は二篇の劇画作品のあらすじに触れねばならない。【天使のはらわた】(1978-79)と【少女名美】(1979)について少しまとまって述べたいのだが、石井は2020年12月現在単行本のほとんどを絶版にして久しいから、連載当時の熱烈な読者、今は五十代か六十代になっているかつての少年たちか、古書を買いそろえる余程の好事家でなければ何を言いたいのか伝わるまい。かなり縮訳するが、頁の隅々からゆらゆらと薫り立つ空気だけでも解ってもらえたら有り難い。
【天使のはらわた】は社会の下層で息喘ぐ若者の青春群像劇だ。諸事情から脱落を余儀なくされた若者(川島哲郎)が、似たような境遇の仲間ふたりと共に夜毎オートバイを駆って街をうろつき、同年代のアベックを襲っては窃盗と輪姦を重ねていく。ある日、下校途中の女子高校生(土屋名美)が仲間のひとりの餌食に成りかけている場面に出くわし、若者はその娘をつい庇ってしまうのだった。いつもと態度が違うじゃないか、何を恰好つけているのだと仲間から責められ、彼らの面前で娘を襲うことを強いられる若者であったが、結果的にその行為は未遂に終わってしまう。紆余曲折あって若者は三年間の刑に服し、出所後はずっと脳裏に焼き付いて離れなかった娘の姿を追い求めるのだった。娘は親を亡くし、場末の酒場で女給として働きながら口を糊する日々を送っている。ある雨の日、若者と娘は再会する。若者はかつての凶行が祟って裏社会の一員となっており、抗争に巻き込まれて捨て駒の役割を押し付けられ、追われる身となっていた。ふたりは追っ手を逃れて安宿に逃げ込み、そこで初めて結ばれる。運命の導きに愕然とし、緊張のあまり言葉少なく、指はぷるぷると震え、寒気を避けるように薄い布団に横たわる。灰色の厚い雲が街を覆い、まもなく雪が降りしきって通りを白く染めようとしている。
一方の【少女名美】は同じく若い世代を描きながら、上に書いたような禍々しい装飾や小道具を施さない実直な青春劇となっており、ひとりの若者(佐川大輔)と下級生のおんな友達(土屋名美)の初夜の顛末を瑞々しい調子で描いた小編である。童貞喪失にこだわる若者の平身低頭ぶりに半ば呆れ、半ば本気で怒りつつもこれを甘受し、高層ホテルの一室を娘は予約する。人目をはばかり時間差をもうけて別々にエレベーターで階上に昇り、室内に入ってからはおどけてみたり、おどおどしながら、また、ときめきながら互いに身体を預けていく。冷や汗かいて体臭が強まったと告げてシャワーを独り浴びる娘の表情は硬く、やがて横たわるベッドの白いシーツが肌を柔らかく撫で上げる。若者の脳裡にふたりして訪れた季節外れの海水浴場の記憶が蘇えり、波の音が耳朶に低く響く。猛々しい気持ちは次第に治まっていき、やがて静寂がふたつの肉体を優しく包んでいく。
上の要約の通り、【天使のはらわた】は歳月をまたいだ劇的な再会の果ての物狂おしい抱擁を、【少女名美】は当時の大学生にありがちだった普遍的な初夜の景色を描いている。両者は全く違う波長の物語空間を築いていて、石井の好んで使う土屋名美という名前と男女それぞれの容姿の近似する点を除けば、本当に同時代かと疑われるぐらい発散する匂いが違っている。
あらすじで割いた部分に偏りがあるから勘が鋭い人は分かったと思うが、これから虫眼鏡を用いてじっくり観察したい箇所は男女ふたりの同衾(どうきん)の場面である。その部分だけ抜き出してみればどうだろう、いくらか共通項も見て取れ、両者はどこか似た面貌となってくる。
そもそも私たちを縛る性愛の時間は、多少の振幅はあるにせよ似たような面持ちを呈する。いや、ほとんどの人は堅く閉ざされた扉の向こうで自分たちの行為を密かに営むから、実際どこまで似ているかどうかを検証し得た訳ではないけれど、まあ似たり寄ったりではなかろうか。
褥(しとね)の作家たる石井隆によって無数に描かれた性交描写の中から、どうして【天使のはらわた】と【少女名美】のそれを意味ありげに選ぶのか。だって同じだろう、男女が衣服を脱ぎ捨て寝具にて絡まり、交接する景色をもったいぶって取り上げても何も生み出さないのではないか。両者とも普遍的な体位を選んでいるし、奇抜な性具がアクセントとして活用されるでもなく、身体的にもある意味凡庸な裸身が上下に重なるだけである。
時折、石井の寝室には鋭利な刃物が持ちこまれ、荒縄が蜘蛛の巣のように伸縮して皮膚を攻め、第三者が闖入して関係を掻き乱すけれど、両作にそんな展開は用意されていない。男女は平穏な刻を重ねていくばかりだ。似たり寄ったりになるべくしてなるより道はないのである。
実はそこが肝心なのだ。多くの読者は見過ごして終わりになるであろうが、非常に特異な近似を両作は抱えている。石井隆という作家を考える上で極めて興味深い現象が、我々の前にそれとなく提示されている。
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