歳末で諸事に追われてもいるが、それ以上に石井隆が拙文に立腹するのではないかと怯え、初端(しょっぱな)からつまづいている。僕に言い掛かりをつける気か、どうしたらそんな読み方になるのだ、と嘆息させはしないか。
不確かな事をべらべらと書いて、まったく前科者の困った体たらくだ。勘違いと早合点がぞろぞろと列を成している、その点はどうしたって否めない。たとえば【白い反撥】(1977)の終幕でコンクリート製の護岸に投げた小石が弾けて鳴らす衝突音の高らかな残響は、他の漫画家作品の影響ではないかと以前書いた。(*1) その後、フランス映画のラストシーンが反映されていると耳にして震え上がった。また、最近映画専門誌に石井が寄せた俳優の追悼イラストのなかに朽ちたドラム缶が転がっている描写があって、これは世間に衝撃をあたえた傷害殺人と死体遺棄事件報道のまがまがしい記憶が時空を超えて固着したと想像した。(*2) しかし、ある人に亡き俳優が主演を務めたテレビジョンドラマの終幕を想起させる目的で登用したらしいと諭されている。そちらが正解だろう。始末に負えない馬鹿野郎め、と目をそらし、思考がふたたび立ちすくむ。
気持ちをなだめるため、逃げるようにしてモニターに向かい、意味ないことを検索して無闇に時間を埋めてしまう。「僕に言い掛かりをつける気か」の「言い掛かり」とは、はて、一体どんな語源から来ているのか。自家中毒じみた問い掛けに没入しているうち、「言い掛かりをつける」の類語として「因縁(いんねん)をつける」という言い回しがぼんやりと浮んだ。
長く生きてきてどちらも実践的に使用したことがないから、両者は直ぐに結線しなかった。どうも軟弱な自分とは生涯無縁の台詞らしい。そうか「言い掛かりをつける」とは「因縁をつける」という事なのか。いかにも剣呑で喧嘩越しに聞こえる。お互いの関係を破壊する覚悟の棘々しさ、痛々しさが潜んでいる。荒ぶる者たちが汚れた路地裏で何かの拍子に揉み合い、やがて乱闘を始める昔の映画の一場面が思い出される。
「因縁をつける」とはヤクザ言葉であり、「因縁」という単語それ自体も世間では大概の場合は負性を帯びて使用される。先祖の悪行が別の一族を苦しめ、その祟(たた)りが今のあなたの苦境を作っている、是非とも除霊して一刻も早く楽になりなさいといった類いの話に決まって顔を出す。
でも、宗教家によってはそれを誤りという者がいる。「因縁」という一語は本来極めて平坦な面持ちと響きで、物静かな仏教観に立脚している。現世を彩るさまざまな物象は過去のおのれの言動、さらには先祖のそれに起因するという考え方だ。だから、悪しきものと同様に、善きこともまた因縁にもとづくと捉える。周囲の人たちに対する日々の言葉づかい、対応にしっかり注意しなさいよ、やがて未来に総て返ってくるのだからと我々を諭すのである。
古臭いと笑われそうだが「因縁」を信じて暮らしている、いや、本当にそう考えている。螺旋を成して時おり訪れる摩訶不思議な出来事がこの世のなかには在るのであって、その度に何者かに手を引かれ導かれているような面白い感覚を知る。錯覚とばかりは言い切れない、救いの如き一瞬は誰にでもあるのではないか。
さて、「因縁(いんねん)」とは自ずと「過去」と結びつくが、石井隆の劇ほど「過去」を凝視めるものは無い。たとえば映画『GONIN』(1995)ではヤクザの金庫を襲撃するために俄(にわか)仕込みの強奪班が編成されるのだったが、大金を強奪してから後は各人の過去を掘り起こす作業に終始していく。続編の『GONINサーガ』(2015)では過去探しを唯一されなかった青年実業家のあの時以前がどうであったかを手探ることが劇の輪郭となる。過去と現在が鎖状につながって提示されていて、ひと言で表現すれば濃厚な「因縁劇」となっている。
『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)においても、劇は未来へと前進することなく、破壊されたおんなの魂のこれまでの軌跡を追い求め続けてどこまでも執拗に後進して行くのである。「過去」が登場人物を呪縛し、いま現在の言動をひたすら導いている。幾つか例外はあるものの、作品の基調に「因縁」の厚い霧が波打っている。
いったい石井隆の劇とは何だったのだろうと常に考えているものだから、ソーシャルネットワークサービス等で「石井隆を想起させる」とか「石井隆の映画そっくり」と感想が寄せられた作品の題名を見つけると、むらむらと欲情の焔にも蠢くものが内部に熾(おこ)り、あまり環境が良くないウェブ環境で、はたまた劇場まで足を運んで観賞するのだったが、多くが期待を外れて似ても似つかぬ作りである。
なるほど其処に雨が降り、傘を差したおんなの孤影があり、髪やブラウスがしとど肌に貼り付き、ネオン管が官能的に路面を滑(ぬ)め照らしている。拳銃が鋼鉄の弾を射出し、身体を深く貫いて赤黒い血がたらたらと雨だまりに広がっていく。石井映画のエッセンスと共通する描写が点在するのだけれど、「過去」への粘着と「因縁」の度合いは比してみればいずれも希薄である。
何も石井に捧げるつもりで彼らが自分たちの映画を創っている訳ではないから、似ていないことに対して手前勝手に悄然とされても困る話だろう。それこそ、何だこいつ、言い掛かりをつける気かと声を荒らげるに違いない。
作品の評価とは別次元の話で、劣っているとかつまらないとか言っている訳では決してない。いつまでもどこまでも過去に執着する部分の層の厚みと堅さも、雨や鮮血と同等に「石井隆」を語る上で外せないと考えている。
仮に一滴の雨も降らぬ砂丘を舞台にした灼熱の物語を描いたとしても、もちろん蓄電池もなくネオン管が闇夜に浮かばなくても、おそらく私たちはいつも通りに彼だけのまなざしと景色を面前とすることになり、軽々と魂を持っていかれるはずである。石井の劇はとことん因縁尽(いんねんず)くの様相を呈しており、その拘泥を貫く創作姿勢にこそ我々は妙にこころ惹かれるのだ。
(*1): 面影の連結~つげ義春と石井隆~(2)
http://grotta-birds.blogspot.com/2017/11/blog-post_18.html
(*2):“何を見ているのか”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(7)~
http://grotta-birds.blogspot.com/2019/07/blog-post.html
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