2020年12月31日木曜日
“コード化”~石井隆劇画の深間(ふかま)(6)~
2020年12月26日土曜日
“レリーフされたふたりの巫女”~石井隆劇画の深間(ふかま)(5)~
人がつっつと脱衣するのは湯浴みの前ぐらいで、それ以外では幾通りもの組み合わせが生じる。何の組み合わせかと言えば、どの衣服を、どの手順で、どのような姿勢で脱ぐかという連結である。
情交の際の脱衣となればなおさらで、相手にまとわりつかれて加勢されればどんどんバリエーションは増していく。どの程度まで剥ぐつもりか、何処から先に排除するか、順番や速度といったものは親密度、昂ぶりの多寡によって違ってくるし、互いの姿勢はめまぐるしく移行してじっとしない。部屋の何処で行なうかで景色が無限に枝分かれする。仮に人生で千回の行為を為し得た場合、厳密にはひとつとして同じ様相を呈しない。
良不良、歓喜の度合いは抜きにして、極端な話、服をほとんど脱がずに情を交わすことさえ可能である。冬の寝室で深々(しんしん)と冷え込む夜気を避け、半身を温(ぬく)い布団のなかへ逃げるように包みつつ下穿きだけをもぞもぞと脱いでいく、はたまた脱ぐに至らずにわずかに下にずらして重なっていく体験は誰の身にも起こることだ。
石井隆は数多くの劇画作品において、情交における脱衣がいかに多彩な顔付きとなるかを示して来た。たとえばある作品での房事において、おんなの乳房バンドは最後まで外されることがない。ハイパーリアルな世界を護持するには、そこまで念入りに演技指導を施すことが必要だったのである。石井の劇とは分枝(ぶんし)していく時間を徹底して追い求め、微細に描き分けることを是とするのであって、想像力と再現力の並々ならぬ持続を自らに強いて表現されている。筆先に宿る執念は、まったく畏しいほどの厚みとなっている。
さて、「情交における脱衣」ではなく「情交を前提に、相手の手を借りることなく自主的に脱衣する」と行為を絞ってみれば、かなり似通った風景になる。人それぞれの手癖が出るというか、湯浴み前の脱衣場での動きとそっくりになり、半ば自動化されていく。あっさりと流れるような進み具合で衣服は剥ぎ取られていく。
先述の通り【天使のはらわた】第三部(1979)と【少女名美】(1979)の間には、物語の上で大きな隔たりがあるのだけれど、そこに描かれた脱衣するおんなの描写は極めて近似していて驚かされる。ここでおんなはスカートのチャックを下げ、ストッキングを丁寧に下ろしていく。三つのコマが右から左に時間を追って並び、それぞれの構図はほぼ等しい。その配列のみを抜き出してみれば、背景の浴室扉のノブの有無やスクリーントーン選択の違いから来る布地の風合いなどで区別は付くが、おんなの所作と捉え方、切り取り方は完全に一致している。
石井によって全然違う人生をあてがわれた【天使のはらわた】と【少女名美】のおんなふたりだが、黙々と服を脱いでいく後ろ姿をもって両者は共振し、互いの胸中を補って見える。男性に無理強いされるのではなく、寛恕の強い思念でもって相手を積極的に抱き止めようとしている。古代文明の遺跡にレリーフされた巫女のおもかげにも似て、物言わぬけれど能弁におんなの自由意志は提示されている。
石井はメッセージをささやかな脱衣の所作にさえ託そうとしており、それは見事に成功していると思うし、こういった凄まじき芸の細やかさこそが石井世界の醍醐味であって、読む者、観る者のこころを無自覚のまま充足へと導くのである。
2020年12月20日日曜日
“似たり寄ったりの”~石井隆劇画の深間(ふかま)(4)~
映画という触媒によって観客がどんな心境を被ったのか、つまり、人が人にどう揺さぶられたかを知るのは妙に愉しい。その辺の感慨を上手に言い表せる人と談話していると、綱でぐいぐい牽引された具合となって観賞したい欲求が一気に膨らんでいく。あらすじを教わっただけでは大して惹かれない。ある程度の年齢になれば尚更のこと、触手はそよとも動かない。
だが、論考の必要に迫られ、今は二篇の劇画作品のあらすじに触れねばならない。【天使のはらわた】(1978-79)と【少女名美】(1979)について少しまとまって述べたいのだが、石井は2020年12月現在単行本のほとんどを絶版にして久しいから、連載当時の熱烈な読者、今は五十代か六十代になっているかつての少年たちか、古書を買いそろえる余程の好事家でなければ何を言いたいのか伝わるまい。かなり縮訳するが、頁の隅々からゆらゆらと薫り立つ空気だけでも解ってもらえたら有り難い。
【天使のはらわた】は社会の下層で息喘ぐ若者の青春群像劇だ。諸事情から脱落を余儀なくされた若者(川島哲郎)が、似たような境遇の仲間ふたりと共に夜毎オートバイを駆って街をうろつき、同年代のアベックを襲っては窃盗と輪姦を重ねていく。ある日、下校途中の女子高校生(土屋名美)が仲間のひとりの餌食に成りかけている場面に出くわし、若者はその娘をつい庇ってしまうのだった。いつもと態度が違うじゃないか、何を恰好つけているのだと仲間から責められ、彼らの面前で娘を襲うことを強いられる若者であったが、結果的にその行為は未遂に終わってしまう。紆余曲折あって若者は三年間の刑に服し、出所後はずっと脳裏に焼き付いて離れなかった娘の姿を追い求めるのだった。娘は親を亡くし、場末の酒場で女給として働きながら口を糊する日々を送っている。ある雨の日、若者と娘は再会する。若者はかつての凶行が祟って裏社会の一員となっており、抗争に巻き込まれて捨て駒の役割を押し付けられ、追われる身となっていた。ふたりは追っ手を逃れて安宿に逃げ込み、そこで初めて結ばれる。運命の導きに愕然とし、緊張のあまり言葉少なく、指はぷるぷると震え、寒気を避けるように薄い布団に横たわる。灰色の厚い雲が街を覆い、まもなく雪が降りしきって通りを白く染めようとしている。
一方の【少女名美】は同じく若い世代を描きながら、上に書いたような禍々しい装飾や小道具を施さない実直な青春劇となっており、ひとりの若者(佐川大輔)と下級生のおんな友達(土屋名美)の初夜の顛末を瑞々しい調子で描いた小編である。童貞喪失にこだわる若者の平身低頭ぶりに半ば呆れ、半ば本気で怒りつつもこれを甘受し、高層ホテルの一室を娘は予約する。人目をはばかり時間差をもうけて別々にエレベーターで階上に昇り、室内に入ってからはおどけてみたり、おどおどしながら、また、ときめきながら互いに身体を預けていく。冷や汗かいて体臭が強まったと告げてシャワーを独り浴びる娘の表情は硬く、やがて横たわるベッドの白いシーツが肌を柔らかく撫で上げる。若者の脳裡にふたりして訪れた季節外れの海水浴場の記憶が蘇えり、波の音が耳朶に低く響く。猛々しい気持ちは次第に治まっていき、やがて静寂がふたつの肉体を優しく包んでいく。
上の要約の通り、【天使のはらわた】は歳月をまたいだ劇的な再会の果ての物狂おしい抱擁を、【少女名美】は当時の大学生にありがちだった普遍的な初夜の景色を描いている。両者は全く違う波長の物語空間を築いていて、石井の好んで使う土屋名美という名前と男女それぞれの容姿の近似する点を除けば、本当に同時代かと疑われるぐらい発散する匂いが違っている。
あらすじで割いた部分に偏りがあるから勘が鋭い人は分かったと思うが、これから虫眼鏡を用いてじっくり観察したい箇所は男女ふたりの同衾(どうきん)の場面である。その部分だけ抜き出してみればどうだろう、いくらか共通項も見て取れ、両者はどこか似た面貌となってくる。
そもそも私たちを縛る性愛の時間は、多少の振幅はあるにせよ似たような面持ちを呈する。いや、ほとんどの人は堅く閉ざされた扉の向こうで自分たちの行為を密かに営むから、実際どこまで似ているかどうかを検証し得た訳ではないけれど、まあ似たり寄ったりではなかろうか。
褥(しとね)の作家たる石井隆によって無数に描かれた性交描写の中から、どうして【天使のはらわた】と【少女名美】のそれを意味ありげに選ぶのか。だって同じだろう、男女が衣服を脱ぎ捨て寝具にて絡まり、交接する景色をもったいぶって取り上げても何も生み出さないのではないか。両者とも普遍的な体位を選んでいるし、奇抜な性具がアクセントとして活用されるでもなく、身体的にもある意味凡庸な裸身が上下に重なるだけである。
時折、石井の寝室には鋭利な刃物が持ちこまれ、荒縄が蜘蛛の巣のように伸縮して皮膚を攻め、第三者が闖入して関係を掻き乱すけれど、両作にそんな展開は用意されていない。男女は平穏な刻を重ねていくばかりだ。似たり寄ったりになるべくしてなるより道はないのである。
実はそこが肝心なのだ。多くの読者は見過ごして終わりになるであろうが、非常に特異な近似を両作は抱えている。石井隆という作家を考える上で極めて興味深い現象が、我々の前にそれとなく提示されている。
2020年12月17日木曜日
“結果ではなく”~石井隆劇画の深間(ふかま)(3)~
石井隆の作品を「因縁(いんねん)劇」と称するとやや語弊がある。与えるイメージを極端に狭めてしまう。血染めの戦国絵巻、あな恐ろしや妖猫奇譚、それとも数世代をまたがる遺産相続ミステリーか。いやいや、そんな大袈裟なものではない、一種素朴な作劇の風土として因縁は幾度も掘り起こされ、随処に活かされていく。
人間がほかの人間に向き合う際に、肺腑の奥まった辺りから湧き上がる興味や親しみ、これに続く台詞の往還と血肉の交流が石井の劇では至極大切に扱われる。ひどく困っているようだな、神仏の加護には遠く及ばないが何か手伝えることはないか、こんな自分でも役立てないものだろうか、と、ふと仕事の手を休めて遠くを見やり、人知れず気を回していく。過去を聞こうとする意思とこれに絆(ほだ)されて昔語りを試みようとする二つの魂の螺旋を成す舞踏が劇の軸芯としてあり、物語全体の歩調なり方角を左右する。
代表例が『天使のはらわた 名美』(1979 監督田中登)や『ヌードの夜』(1993)と続編『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)のいずれも村木という名の男だ。肉欲というより人情が先走り、青息吐息の者に寄り添おうと努めていく。体温を帯びた共振が託されて、きゅっと硬くなったまなざしが物語の地平を貫く。つまり「因縁劇」というよりも、「因縁(過去)を手探る劇」とここは表現するのが適切だろう。
結末はどうであろう。蜜がつぅっと糸引き垂れる恋情へと結実させるかといえば、ご承知の通りの苦い顛末である。今更にして過去の「因縁」を語ったところで、また、聞かされたところで大方は役に立たないし、下手に動けば状況をますます悪化させるばかりだ。普段わたしたちが実世界で目の当たりにする如く、主人公の多くは奮闘努力するものの大概は報われないままに終わってしまう。
石井の劇を前にした受け手の視線は、だから往々にして引き裂かれる。過去へ過去へと潜行して因縁を探ろうとする動きと、黒闇(こくあん)の未来へと背中を押されながら突き進む熾烈な展開に振り回される羽目となる。それゆえに鑑賞行為はかなり手強い体験となるのだが、さらにとどめとなるのが紙面や銀幕の最後に石井がめりめりと押し刻んでいく花押(かおう)である。其処に書かれた文字に目を凝らしてみれば、「人間は他人の境遇を救えない」と彫られて見える。なんてこった。
場内に灯が点ったとき、視聴を終えてモニターを消すとき、私たちは唇を一文字に閉じ奥歯を噛みしめて席を立たねばならない。寂寂として比重がいや増したおのれの心臓や肺を感じ止めながら、さてさて、よいしょ、と誰にも聞こえぬ程に小さい掛け声などして立ち上がる。
料金を払う観客の権利として穏やかな大団円を求める風潮が昨今あって、ウェブ等で映画作品の感想をつらつら眺めていると、終幕に訪れるほの酸っぱい悲劇描写を由とせず、声高に憤懣を綴るものが目立って多い。こんな結末、酷(ひど)過ぎる、どうかと思うよ、客のことを考えろよ、疲れたよ。そういう感想が在っても良いし全否定はしないけれど、やや短絡に過ぎるとは思う。彼らは多分石井の映画を観劇した後に、さてさて、よいしょ、という小声ではなく、鬼の首を取ったごとく異議を唱えて拳(こぶし)を振り回すのだろう。「因縁を手探る劇」は確かに成就しなかった、骨折り損のくたびれ儲けだったのだから、彼ら一般客がどよめくのは予期し得る反応だ。
過去のインタビュウが証左するように、石井隆という作家は雑誌の記事や観客の反応を真摯に受け止め、これを飽くことなく反芻する。上のような一般客の反応も当然耳にしているだろうに、そんな石井がどうして「因縁を手探る劇」を、それも失敗に終わる悲劇的結末を繰り返して撮るのか。読者や観客が当惑するのも構わず、次の作品においても空回りする救出劇を描いてしまう。人間は他人の境遇を救えない、無理なんだよ、無駄なんだよ、とつぶやき続けるのは何故か。
もしかしたら、我々は石井隆の劇を根本から捉え直す時期に来ているのではないか。「結末」ではなく「道程」をこそ、石井が描きたいのだったらどうだろう。未完となる宿命(さだめ)の逢瀬を何度も何度もめげることなく重ねていく人間(ひと)という存在の健気さ、哀しさを謳(うた)いたいならどうであろう。前作の絶望からの復活こそが、つまり「因縁を手探ること」をまた始めてしまう、その「立ち直り」こそ信じたいし最も描きたい訴えではないか。
作家性という単語に縮約させる前に、ここまで人生を賭して同質の物を描こうとする行為に対して数歩離れてより俯瞰的に、もう少しだけ息をとめて凝視した方が良い。つまり、「連作」という見方を固め、「長大な世界」を黙々と彫り続けている一個の人間として意識すべき段階に来ている。陰惨な絶望を描く者ではなく、実は諦めずに劇に立ち向かっている「希望の作家」として石井を捉えた方が理に適うのである。
手を伸ばさずにいられぬ男女の内面を連綿と描く作家の行為は、物語上の人物の特性を突き破って作家のそれと直結する。人間の内奥は闇にまみれており、透視することなど他人には出来ない芸当であるが、私たち石井世界を愛する者はその秘密に想いを凝らし、腕の痺れるまで洋燈(ランプ)をかざして良いだろうし、そうする値打ちがある。
手段として、一般人の目からは奇異に映るだろう瑣末な事象も拡大鏡を操るようにして時に眺めねばならぬ。それが創作者にとってこころ乱される微妙な領域だとしても避けて通ることは出来ない。作品を愛する以外の他意はないのだ。逆鱗に触れたとしても、南無三(なむさん)、寛恕(かんじょ)を請うばかりだ。祈るような詫びるような訳のわからぬ言葉を経文(きょうもん)よろしく綴ったところで、そろそろ腹を決めて本題に移りたいと考える。
2020年12月12日土曜日
“因縁尽(いんねんず)く”~石井隆劇画の深間(ふかま)(2)~
歳末で諸事に追われてもいるが、それ以上に石井隆が拙文に立腹するのではないかと怯え、初端(しょっぱな)からつまづいている。僕に言い掛かりをつける気か、どうしたらそんな読み方になるのだ、と嘆息させはしないか。
不確かな事をべらべらと書いて、まったく前科者の困った体たらくだ。勘違いと早合点がぞろぞろと列を成している、その点はどうしたって否めない。たとえば【白い反撥】(1977)の終幕でコンクリート製の護岸に投げた小石が弾けて鳴らす衝突音の高らかな残響は、他の漫画家作品の影響ではないかと以前書いた。(*1) その後、フランス映画のラストシーンが反映されていると耳にして震え上がった。また、最近映画専門誌に石井が寄せた俳優の追悼イラストのなかに朽ちたドラム缶が転がっている描写があって、これは世間に衝撃をあたえた傷害殺人と死体遺棄事件報道のまがまがしい記憶が時空を超えて固着したと想像した。(*2) しかし、ある人に亡き俳優が主演を務めたテレビジョンドラマの終幕を想起させる目的で登用したらしいと諭されている。そちらが正解だろう。始末に負えない馬鹿野郎め、と目をそらし、思考がふたたび立ちすくむ。
気持ちをなだめるため、逃げるようにしてモニターに向かい、意味ないことを検索して無闇に時間を埋めてしまう。「僕に言い掛かりをつける気か」の「言い掛かり」とは、はて、一体どんな語源から来ているのか。自家中毒じみた問い掛けに没入しているうち、「言い掛かりをつける」の類語として「因縁(いんねん)をつける」という言い回しがぼんやりと浮んだ。
長く生きてきてどちらも実践的に使用したことがないから、両者は直ぐに結線しなかった。どうも軟弱な自分とは生涯無縁の台詞らしい。そうか「言い掛かりをつける」とは「因縁をつける」という事なのか。いかにも剣呑で喧嘩越しに聞こえる。お互いの関係を破壊する覚悟の棘々しさ、痛々しさが潜んでいる。荒ぶる者たちが汚れた路地裏で何かの拍子に揉み合い、やがて乱闘を始める昔の映画の一場面が思い出される。
「因縁をつける」とはヤクザ言葉であり、「因縁」という単語それ自体も世間では大概の場合は負性を帯びて使用される。先祖の悪行が別の一族を苦しめ、その祟(たた)りが今のあなたの苦境を作っている、是非とも除霊して一刻も早く楽になりなさいといった類いの話に決まって顔を出す。
でも、宗教家によってはそれを誤りという者がいる。「因縁」という一語は本来極めて平坦な面持ちと響きで、物静かな仏教観に立脚している。現世を彩るさまざまな物象は過去のおのれの言動、さらには先祖のそれに起因するという考え方だ。だから、悪しきものと同様に、善きこともまた因縁にもとづくと捉える。周囲の人たちに対する日々の言葉づかい、対応にしっかり注意しなさいよ、やがて未来に総て返ってくるのだからと我々を諭すのである。
古臭いと笑われそうだが「因縁」を信じて暮らしている、いや、本当にそう考えている。螺旋を成して時おり訪れる摩訶不思議な出来事がこの世のなかには在るのであって、その度に何者かに手を引かれ導かれているような面白い感覚を知る。錯覚とばかりは言い切れない、救いの如き一瞬は誰にでもあるのではないか。
さて、「因縁(いんねん)」とは自ずと「過去」と結びつくが、石井隆の劇ほど「過去」を凝視めるものは無い。たとえば映画『GONIN』(1995)ではヤクザの金庫を襲撃するために俄(にわか)仕込みの強奪班が編成されるのだったが、大金を強奪してから後は各人の過去を掘り起こす作業に終始していく。続編の『GONINサーガ』(2015)では過去探しを唯一されなかった青年実業家のあの時以前がどうであったかを手探ることが劇の輪郭となる。過去と現在が鎖状につながって提示されていて、ひと言で表現すれば濃厚な「因縁劇」となっている。
『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)においても、劇は未来へと前進することなく、破壊されたおんなの魂のこれまでの軌跡を追い求め続けてどこまでも執拗に後進して行くのである。「過去」が登場人物を呪縛し、いま現在の言動をひたすら導いている。幾つか例外はあるものの、作品の基調に「因縁」の厚い霧が波打っている。
いったい石井隆の劇とは何だったのだろうと常に考えているものだから、ソーシャルネットワークサービス等で「石井隆を想起させる」とか「石井隆の映画そっくり」と感想が寄せられた作品の題名を見つけると、むらむらと欲情の焔にも蠢くものが内部に熾(おこ)り、あまり環境が良くないウェブ環境で、はたまた劇場まで足を運んで観賞するのだったが、多くが期待を外れて似ても似つかぬ作りである。
なるほど其処に雨が降り、傘を差したおんなの孤影があり、髪やブラウスがしとど肌に貼り付き、ネオン管が官能的に路面を滑(ぬ)め照らしている。拳銃が鋼鉄の弾を射出し、身体を深く貫いて赤黒い血がたらたらと雨だまりに広がっていく。石井映画のエッセンスと共通する描写が点在するのだけれど、「過去」への粘着と「因縁」の度合いは比してみればいずれも希薄である。
何も石井に捧げるつもりで彼らが自分たちの映画を創っている訳ではないから、似ていないことに対して手前勝手に悄然とされても困る話だろう。それこそ、何だこいつ、言い掛かりをつける気かと声を荒らげるに違いない。
作品の評価とは別次元の話で、劣っているとかつまらないとか言っている訳では決してない。いつまでもどこまでも過去に執着する部分の層の厚みと堅さも、雨や鮮血と同等に「石井隆」を語る上で外せないと考えている。
仮に一滴の雨も降らぬ砂丘を舞台にした灼熱の物語を描いたとしても、もちろん蓄電池もなくネオン管が闇夜に浮かばなくても、おそらく私たちはいつも通りに彼だけのまなざしと景色を面前とすることになり、軽々と魂を持っていかれるはずである。石井の劇はとことん因縁尽(いんねんず)くの様相を呈しており、その拘泥を貫く創作姿勢にこそ我々は妙にこころ惹かれるのだ。
(*1): 面影の連結~つげ義春と石井隆~(2)
http://grotta-birds.blogspot.com/2017/11/blog-post_18.html
(*2):“何を見ているのか”~萩原健一、内田裕也追悼扉絵(7)~
http://grotta-birds.blogspot.com/2019/07/blog-post.html