ここまで読んで半数の人は呆れかえっているだろうが、残りは否定せず、然(さ)もありなんと捉える事だろう。石井隆の創る世界は奇妙で何だか粘度を感じる。職人芸というよりも作家性が前面に出て思われる。全作品を透徹した視線が貫き、また、柔らかく包みこむ。体温を帯びた吐息が付いてまわり、個別でありながらも連結して見える。漫画を熱心に愛し、映画を一定量以上楽しむひとなら容易に了解し得る事柄である。そんな風に思って頷いてくれる人は沢山いるのじゃないか。
おまえ様は思い込みが酷いね、危ない妄想狂で実社会では関係を持ちたくはないけれど、確かに石井隆の作品には他より抜きん出たところがあるような気が自分でもする。可哀相だからもう少しだけ付き合ってやろうか。そんな心優しき幾たりかの愛すべき存在を信じ、さらに先に進もうと思う。
石井の劇に登場する「時計」に纏わりつく特別な彩りにつき語ってきたが、これは時計に限らず様ざまな物象において同様に例示し得るところだ。貴方は「ライター」について何枚も原稿用紙を埋められるだろう。貴女は「コート」について触れることで石井隆論を展開出来るかもしれない。そこの君は「ネオン管」や照明で石井世界を誉め讃えることが可能だろう。
私がここで言いたい事はそういった「物(モノ)語る」側面についてではなくて、石井が劇を描き続ける流れのなかで生じていく「物の描写や空間の微妙に変形していくこと」についてだ。過去作で試みたことが基礎となり、新たな作品では改良の手が加わる。画家の作風が徐々に変わっていきながら、総ての絵画がひとりの作家を浮き彫りにするにも似た性格が石井の劇にはそなわっている。
石井隆はかつて美術誌のインタビュウにおいて、自作のヒロインに据える「名美」というおんなの名前やキャラクターへのこだわりを尋ねられ、以下のように答えている。
「女性って何なんだろう」と突き詰めていこうと居直ったんです。その時に、ひとりの女性も描き切れないのにどうして色々な女性を描けるのか、だったら名前もひとつでいいやと。(中略)探索する実験機というんですか、一緒につき合ってくれるアンドロイドみたいなもんですよね(*1)
この「探索する実験機」という喩えは、ひとの口からそう容易く飛び出すまい。石井の実感がありありと伝わる言葉だ。深宇宙を突き進む黄金色の小型宇宙船や、地中掘削機を連想するが、石井の劇づくりはまさにそのような発見と接近、精密撮影、採掘と分析の繰り返しではなかったろうか。一歩進んでは岩盤に突き当たり、後退や迂回に迫られ、時にトンネルを掘りながら手探っていく。
おんなとは何か、人生とか何か、そしてドラマとは何かの自問自答を重ねながら「隔離された一角」(*1)で突き詰めていった。セルフパロディなんて言って脱力する暇などまるで無い、その作歴は苦行と地道な研究の連続であった。
(*1):「映画へ 揺籃期としての八〇年代 石井隆」 インタヴューアー 斎藤正勝、栗山洋 「武蔵野芸術 №100」 武蔵野美術大学 所載
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