2020年2月23日日曜日

“縁辺へのまなざし”~生死に触れる言葉(8)~


 磔刑の絵柄をフィルムに移植すべく、共に腐心して見える『死霊の罠』(1988)と『花と蛇』(2004)の脚本。両作は本当に似ている。モニター越しに出逢ってしまい、どうにもこうにも恋着して止まない対象がいる。その生身(なまみ)をいよいよ渇望して悶絶するや、暴力でもってこれを勾引(かどわ)かそうと企む。幽閉されて怯えるおんなの面影を、磔刑に処された聖人と重ね合わせる奇怪な行為におよんでいく。

 この相似する展開と磔刑図の執拗な二度書きからは、石井なりの芯のある想いが託されて感じる。聖書を下敷きにして劇を編んでいる、と誰もが想像をめぐらすだろう。深く信仰に染まっており、それでこんな烈しい妄想を抱くのだ。石井作品を身近に感じずに来た人は、特に強く感じるに違いない。

 実際、石井世界の端々に宗教画は溶け込んでいる。劇画と映画を丹念に読んでいくと構図や描写が単に似るだけでなく、その物ずばりの絵画が画面に取り込まれさえする。しかし、石井は決して敬虔な信徒ではない。語弊がありそうだから慌てて言い直せば、インタビュウを多く読み、たゆたうような面持ちのあの内省的な小文をこれまで幾つも蒐集して目で追いながら蓄積なる答えは、石井隆という人は聖画をせせら笑い、ふざけた態度を貫く不義者(ふぎもの)では当然ないにしても、では「信仰心」と世間一般で称される前傾の想いが厚く、教会や寺社へ足繁く通っては法話に耳を傾けるタイプかどうかといえば決してそうでないように思える。

 針の触れ方は一方にだけ傾ぐことなく、私たち同様にゆらゆらと揺れているし、人間とは元来迷いや疑いを抱きながら、そして奇蹟を望みつつも絶望に甘んじていく動物であり、それを承知で周囲なり万物を見渡すべきと頑なに信じているのじゃないか。

 熱心な石井の追尾者のなかには、名美という存在を十字架の聖人と連結させ得た猛者もいて、かつてそれを聞かされた際には大いに舌を巻いたのだけど、では自分の内部で名美なら名美をキリストと隙間なく溶接して一体化し得るかといえば、本音を晒せばよく解からない。泥濘(でいねい)に立つ白鷺のごとき悪夢的コントラストで描かれた性愛の修羅場と、いにしえの聖人の刑死の様相を重ねることは受け手内部の自然な共鳴と了解はする。されど、復活にいつか通じる聖人の苦闘と石井が捉えるどん詰まりの人間模様のそれぞれの輪郭が綺麗に重なっていかない。

 現世という地獄の釜で、烈火にぐらぐらと煮込まれていく人間の運命を哀れとも愛らしくとも見やり、凄絶な美しさをそこに認めて内心たじろぎつつ、ただただ言葉なく立ちすくむばかりの救いのない各作品の終幕を面前にしてしまうと、素直にキリストと合致させることに抵抗を覚えてしまう。

 その同好の士とは一度とことん意見を交わしたいと願っていたのだが、機会を得られぬまま今に至っている。そもそも仮に面談出来たとして、一体どんな答えが導き出せようか。この手の話は堂々巡りとなるのが常である。何となく気恥ずかしい気分にもなる。もしも石井本人に面会し得て、あのような映像をどう考えて透視したものか尋ねたところで、例のごとく微笑むばかりできっと答えてくれないだろう。これはもう誰に委ねることなく、ただただ私見を突き詰めていくより仕方がない次元の話だ。

 石井ほど宗教に近しく、聖人から遠い者はいないように思うがどうだろう。石井の劇は奇蹟の顕現に満ち溢れているが、「神仏」自体による生々しい救済は終ぞ起こらない。肉体と精神が危機に瀕した登場人物の頭上を、お構いなしに悠然と飛び交う旅客機のように、「神仏」は平然と通り過ぎて一向に顧みることがない。明確な救世主の登場はなく、誰もが助からないまま崩れ折れていく。この辺は石井隆を語る上で極めて重要と思う。

 ならば何故に時をまたいで湧出した『死霊の罠』と『花と蛇』の聖人描写におまえは驚き、これを世間に紹介するのか。さも石井隆がキリストの受難を常日頃から意識し、ヒロインの苦役や悲惨を重ね合わせては秘かに「おんな」を崇拝する男と決めつける展開ではないか。生涯かけた男の創作行為をひとつの型に封じ込めるような引用と解釈は、過去とこれからの彼からの発信を封殺しかねない危うさはないか。

 言い訳ではなく、『死霊の罠』と『花と蛇』の台本ふたつの記述を通じて導き出されるものは石井隆を語る上での要諦だが、主軸は聖人「キリスト」ではないのだ。まなざしの「ずれ」が露出している点にこそ目を寄せるべきであり、それこそが私たち読み手にとっての最大の驚きである。

 『花と蛇』でメッシーナの磔刑図を模して描かれたものを前とした際に、中央の聖人へ注がれたまなざしがするすると右へ左へとずれを起こし、両脇のふたりの罪人の肢体にかぶりついていくその「移動視線」。また、さながら絵画集に載った瀕死のキリスト像に顔を寄せまくり、1cm程の至近距離で頭部に冠されたいばらが肌を刺し、深く無数に傷つけていく様子を「凝視」した挙句、これを模して女の顔写真に虫ピンが刺さないでおかれぬ登場人物を創出してしまう『死霊の罠』の狂おしさ。

 物象を視ることに真摯ゆえに石井の視線というのはひたすら「ずれていく」、はたまた「凝視していく」。これ等は明らかに「画家」のそれであろう。一般人が虚ろな顔で流し見してしまう箇所に足を止め、逆にぐいぐいと接近していく。大局や流行にはおかまいなしである。いわば「縁辺(えんぺん)へのまなざし」と呼ぶべきものが石井には具わっていて、作劇を支える根っ子のひとつになっている。これ無くして石井の世界は有り得ない。

 たとえば映画でいえば『死んでもいい』(1992)の冒頭、大月駅の線路隔てたホームを家路に急ぐ大竹しのぶの豆粒ほどの歩む姿であるとか、『ヌードの夜』(1993)で消波ブロックの上に登ってあてどなく行き来する余貴美子のケシの実並みに小さくて心細い風情であるとか、そういった「凝視を求める」構図に見事に活かされていく。また、同じく『ヌードの夜』で床面に毛布をかぶって寝ていて来訪者の視線から完全に外れた位置にいる竹中直人の登場場面に例示されるように、字面そのままの「見捨てられた、顧みられぬ存在」への強いまなざしへと結実していく。天下国家とは無縁の、むしろ一般社会からも半ば放逐されて境界すれすれに住まわざるを得ない人間へと石井のまなざしは注がれ続け、寄る辺なき者の隣にいつの間にか音もなく佇んでいる。


2020年2月14日金曜日

“まるで瀕死のキリストのよう”『死霊の罠』~生死に触れる言葉(7)~


 再度『花と蛇』(2004)に潜水する前に、石井演出ではなく池田敏春の手になる『死霊の罠』(1988)について触れたい。『花と蛇』の絵解きに『死霊の罠』をわざわざ引っ張り出す理由は、劇の構造にきわめて似通った箇所が認められるからだ。

 『死霊の罠』は軍事施設の廃墟に迷い込んだ複数の男女が得体の知れぬ心霊じみたものに翻弄されたあげく、一人また一人と襲撃され、やがて殲滅に至るという恐怖映画である。その劇中での酸鼻をきわめる冥府めぐりは、石井という絵師によって隅々まで企てられたものだ。世間には池田が脚本を書き直した旨の記載が一部見受けられるが、仮にあったにしても極めて瑣末なレベルでの変更であろう。台本上にはまさに石井の手で狂いのない主線(おもせん)が引かれており、うつくしく仕上がった下絵に向かって池田が彩色を施した流れである。

     数枚の古びた写真が立てかけてある。
     その一枚を見て、名美、驚く。
     母親とその手をしっかり握った少年が立っている。その少年は、
     あの男、大輔に似ているようでもあり………いや、確かに少年
     時代の大輔だ。
     そして、その母親は………その女の顔は……… 名美にそっくりだ。(*1)

 上に引いたのは『死霊の罠』の終盤を飾る描写だ。容赦ない残酷な殺戮がくり返され、廃墟空間に生き残った者は主人公のおんな(小野みゆき)ひとりとなっている。妙な風体の若い男(本間優二)に誘われるようにして足を踏み入れた小部屋で、おんなは自分に似た顔立ちの別のおんなの写真を発見してしまう、というショッキングな場面である。

 実際の映画を面前とした多くの観客は、この唐突な場面挿入に実は気持ちが追いつかない。いわくありげな親子写真の中のおんなは主人公を演じた女優が二役で撮影されたものであるのか、それとも顔だけ合成ではめこまれたのか一瞬間だけでは判然とせず、嚥下し得ない異物感がどうしても渦巻いてしまう。同一人物とはどう見ても思われず、別人として見切るより仕方ない。前後の流れから主人公は即座に自分と「そっくり」であると勘付き、連続殺人者が自身と母親像を勝手に重ねている事を察して慄(おのの)くのだけど、観客たちがこの危うい展開につき十分に了解するのはフィルムのコマがさらさらとしばらく流れた後である。

 とても「そっくり」とは言えない写真を登用したのは演出上のミスなのか、それとも、池田があえて混迷を手引きして観客の不安を煽っているのか。その辺りは解からないが、過失であれ故意であれ、石井の意図するものを素直に汲み取れてはおらないのは事実である。台本のト書きはさらに続いていく。

     しかもその女の顔には、、残酷にもたくさんの虫ピンが刺されていて、
     まるで瀕死のキリストのようだ。(*2)

 畳かけるように異様な描画が準備されている。経年でやや反った印画紙に定着なったモノクロームの面影は、金属製の無数のピンで突き貫かれていたのである。

 しかし、先の「そっくり」に続き、ここでの池田の演出も適確さを欠いたと言わねばならない。もしかしたら十分な理解に至らぬままに終わった観客も居たのではないか。大概の読み手は写真と虫ピンの組み合わせを猟奇犯罪者の戯れと捉えたまま、混沌する闇をラストシークエンスまで追い立てられていく。肖像写真に託された歪(いびつ)な愛憎の発露や、舞台を覆い尽くしている重く淀んだ動機について想いを馳せることが正直かなわない。

 石井は実にこの時「瀕死のキリスト」と形容していたのである。映画を観た者のうち、はたして幾たりが聖人の磔刑に思い至っただろう。丑の刻参りの五寸釘を連想するか、それとも選挙ポスターか何かにされた画鋲による悪意の悪戯を思い起こすのが関の山だ。映画と台本は別物と言われればそれまでだが、完成された『死霊の罠』だけを漫然と眺めていても石井世界の劇構造の類似と連続に思い至ることは難しいように思う。

 此の文章は石井隆をめぐる思索の旅路であるから、仕上がった映画『死霊の罠』からやや乖離する事にはなるけれど、冒険的に石井の台本にひたすらにじり寄り、そこに何が描かれているかを玩読したい。池田の手腕を悪く捉えている訳でなく、石井の劇で繰り広げられる幾多の性愛劇を貫く脊髄が露出し、そこに何が流れるかを垣間見せる重要な一行が在ると思われる。

 「まるで瀕死のキリストのよう」という石井の記述から想起される具体的な磔刑図は、さてどんな絵柄であるのか。丘陵に突き刺さった十字架と、これに四肢を打ち付けられた人体を描くのが磔刑図の基本構図である。左右にはふたりの罪人も同じかたちで並べ置かれることが多い。両手を左右に広げて固定された三人の男の身体を四角い額内に配置すると、自然と遠景になっていき、見る側と聖人の距離はみるみる広がっていく。

 無惨な傷口は精彩さを失って曖昧となり、コップのふちに居残る乾いた口紅の痕めいたとりとめの無さか、半日ぶりに外した紙製マスクの内側に点々と染みを作る鼻汁の成れの果てのごとき儚さとなって致死的な損傷の実感を失う。そもそも聖性を付された男の顔立ちには俗世に蠢く煩悩具足の凡夫への憐憫や情愛の滲出が眉根のあたりにじわりと顕されており、厳かな面体を見上げるわれらは生きた身を襲う激痛をそこで想起させることが難しい。宗教画家たちも奇蹟の顕現を匂わせる黒雲や、足元に集いさまざまに明滅する人物の心理描写に注力するばかりである。

 十字架上の聖人像はなるほど「瀕死」の状態にあるが、永遠の生命が既に約束されていて、「死」から急速に遠のいている。もはや「瀕死」の際から回復して「蘇生」と「栄光」へと突き進んでいるのであって、神の子の肢体は逞しく堂々と息づくのである。

 石井が私たちに見せたい描写は決してそれではない。「顔にたくさんの虫ピンが刺された」様子と「瀕死のキリスト」を結束させた石井が導くのは、遠目で窺う刑死の記録図ではなく、明らかに肉の痛みであり生理的不快の頂点である。「たくさんの虫ピン」というのはいばらで編まれた冠を指し、それが額やこめかみにきりきりと刺し入り、頬や喉、瞼をざっくりと裂いていく様子なのであり、たとえばマティアス・グリューネヴァルト Matthias Grünewald の描く祭壇画の、執拗に筆が重ねられた獄死の詳細描写にも似た傷ましさを想起させようと努めている。

 おんなという存在を聖母や阿弥陀如来に似た厳かにして平穏無事な佇まいに押し上げるのではなく、キリストや彼と共に磔なった左右の罪人と同然の肉体の痛苦へと突き放し、それが一時的ではなく延延と解放されぬまま続いていく。現実世界で日常化している性愛の地獄をこれに重ねて、人間としておんなが一方的に負わされがちな差別と重圧をひたすら想い続ける。

 このト書きはだから役者を焚きつける鞭でも餌ではなく、美術部への差配でもなく、『死霊の罠』という物語の核心部分であるのだし、ひいては執筆者石井隆の恋愛劇の一局面に関するかたくなな姿勢が如実に表されている。

 テレビモニターに映し出される女人と記憶の底に居続けるおんなを重ね合わせて激しく懸想(けそう)し、自らの精神構造を拡大させた洞窟めいた場処へといざない、痛みを執拗に与えながらもそれが直接的な肉の快楽と結び付かず、徹底した宗教画の再現となっていて単純な嗜虐性向の具体化ではない。これはどう見ても『花と蛇』と双生児の作品であろう。粘ついた視線で嗜虐性愛の坩堝を撮り切った『花と蛇』とはまるでジャンルを違えて見えるかもしれないが、同一の骨格を有していると言っても構うまい。

 台本上のト書きには石井の振るったノミ跡があざやかに残されており、二作品を取替引き替えして眺めることで炙り出される共通の刻線が見つかる。それが烈しく発光してひと筋の白い道を示していく。それぞれが独立していながら、一反の織物の左右に綺麗に裂け目無しに連なる姿が見えてくる。そこに石井のまなざしが確実に活きている。

 両者の間に十六年という長い歳月を挟むにもかかわらず、まぎれもなく彼の世界に捕りこまれているという厳然たる事実を前にして、強靭と形容してもぜんぜん誇張とは言えない畏るべき持続性、鬼気迫る連続性に言葉を失うのである。

(*1) (*2):『死霊の罠(仮題)─コンクリート・ハンティング─』(決定稿) 78ページ シーン番号61 医務室。