2019年1月4日金曜日

“存在をめぐる総体”~隠しどころ~(13)


 石井隆の描く“下絵”は門外不出を原則とするらしく、ほとんど目にすることが叶わない。これまで見たのはあれとこれ、指折って数えるほどしかないのだけど、その際に想起したのは“素描”という単語だった。また、グスタフ・クリムト Gustav Klimtのそれを即座に思い浮かべた。石井隆がクリムトに言及したことは一度も無いから、まったくの個人的妄執でしかないのだが、性器描写をめぐる思案の終わりに書き残したい。

 無地の紙に鉛筆で伸び伸びと引かれた線は適確で迷いがなく、両者の面影はとても近しい。絵画の勉強をしていないので専門家から鼻で笑われそうだが、おんなの肢態は共に美しく、身体の曲線をはっきりと打ち出し、肌のなめらかさを思念することを妨げない。クリムトは“素描”で石井の方は“下絵”である。前者は起点であり、後者は劇画や挿絵のために描かれた後半地点にあるのでそもそも次元が異なるのは承知しているが、人体特有のおおらかさを私たちの面前へと差し出して、ほのぼのと豊かな気持ちにさせられる

 最終過程できらびやかな金色の工芸風装飾が施されたり、石井の場合は魂と密接する暗闇や雨滴、海岸にあっては白波、はたまた廃墟や新宿の高層ビルを背後に従えていく。それぞれの作家の内宇宙へと分岐し、やがて別方角へと飛翔していく宿めなのだが、直前のふたりの筆跡は同じ師に就いて学んでいる兄弟弟子の習作のごとき雰囲気で、時代を超えて並列する。紙面に追い求めたものが実在のおんなたちであり、創意をやや抑え気味にし、あくまでも目の前で寝そべり、はたまたネガフィルムの中でポーズを作る実在のおんなたちの輪郭を正確に捉えるべく奮闘した結果だろう。彼女たちを謙虚に写し描こうとするところに同質化、面影の一致が起きているのだ。

 ひとつの確信があって綴っているのだけど、つまり石井の下絵はクリムトの素描に近いものであり、性器を表わす描線が仮にあったとして、それも多分クリムトの筆に似るに違いないと考える。石井隆のまなざしをクリムトのそれに重ね、人間という存在に迫る絵描きとして再認識する時間が私のなかで脈打っている。

 クリムトの厖大な素描を見返すとそこに好色の香りを誰もが嗅いでしまう。それと同時に女性という性が抱える宿命的なリスクも透けて見える具合であって、単純なポルノグラフィとしてのみ機能していない。たとえば名作「ダナエ Danaë」(1907-08)の構想を助けたと言われる下絵数点と完成品とを見比べてみれば、
クリムトが人間の本源にある生殖の哀しみを刻印しているのが分かる。

 完成作にて黄金の雨となって降りそそぐ雄雄しき大神は、おんなの足の間に無数の滴(しずく)となって滑り込み、股の付け根に至って方角を急に変えている。この角度は性器の具体的な位置と構造を踏まえている。素描のなかにも当然ながらそれは顔を覗かしており、性愛がもたらす愉悦だけでなく、懐胎へと雪崩れ込んで以降に私たちを長々と縛る局面から目をそむけていない。

 ダナエの人生が苦難の旅路であったことを画家は当然承知の上で描いているのであって、妊娠と出産という重責、そこから派生する運命の転換を現実に則した重たいものとして認識し、これを鑑賞者に想起させようと躍起になっている。おまえの半生はこの瞬間に決まったぞ、もはや逃れられないぞ、覚悟は出来ているか。おんなの夢見心地の表情は溶け落ちそうに甘いのだけど、その分ひどく淋しくこころを打つ。

 画家の透徹したまなざしは好色の次元に止まらず、存在をめぐる総体へと注がれ、執深く、けれど諦観にもひどく苛まれながら切々と霙(みぞれ)のようになって素肌の上へと降り積もっている。石井隆がおんなに向けるまなざしとは、人間を描くということは、多分これにきわめて近接していると想像を廻らしていて、自分の中ではそんなに間違っていない気がするのだ。

 性愛を避けて人間を描くことは最初から責任を半ば放棄し、中途半端なものしか作らないと公言するに等しい。我々がこころを寄せるものは等身大の鏡像じゃないのか。トリミングやマスキングばかり巧妙な加工画像は、最終的に飽きられ捨てられるだろう。全部を描く、逃げないで全てを描く、その覚悟に裏打ちされた圧倒的な模写だけが鏡となって囁き続けるのだ。そのような自覚を持って石井は私たちの物語をつむいで来た、と自分なりに解釈している。
  
 真剣な画家ほど在るものは描くし、そこに宿る意味を常に問い直している。時代を超えていく絵画とは、映画とは、最終的に逃げないで格闘した末の複雑で昏い光景ではなかろうか。




2019年1月2日水曜日

“とことん膨張させていく”~隠しどころ~(12)


 話を脇道から戻して、劇中での性器表現に触れたいと思う。『花と蛇2 パリ/静子』(2005)の中で主人公のおんなは、自身がモデルとなった春画二枚の真贋を確かめる目的から拘束され、あろうことか衆人環視の壇上で股間の検分をされてしまう。絵の中に描かれた性器とモデルのおんなのそれを見比べようという算段なのである。舞台を仕切る司祭風の男(伊藤洋三郎)は採寸用の定規さえ取り出し、盛んにこれをおんなの下腹部にあてがっていく。法規制に則して明瞭な接写は避けているが、性器という身体器官を凝視しまくる異様な展開がしつらえてある。

 ところが司祭役は検尺棒をたちまち投げ出すと、真贋はすでに見切ったと咆哮するのだった。尻にある黒子(ほくろ)が一方の絵に描かれている、こちらが本物であり、もう片方は贋作である。投げ掛けられた視線はひょいと横方向にずらされ、臀部の小さな黒子の有無へと審議は移ってしまう。何というアンチ・クライマックスだろう。個人的に女性器の外観や機能に著しい執着を覚え、なんだよそんなところで決着させるのかよ、と、肩透かしを食らった流れを恨んでいる訳ではない。視線を誘導し、観客の意識を捕縛していくことで一種の甘やかな拘禁状態をもたらし、その締め付けがやがて恍惚や悲憤を産んでいく、それが映画が観客の感情を操る機能のひとつであるのだけれど、縛りがゆるいというか優しく上品というべきか。

 性器を話題の主軸に据えながら、外観の詳述を巧妙に避ける展開は過去の作品にも見つけられる。『花と蛇2 パリ/静子』から遡ること十五年、漫画【デッド・ニュー・レイコ】(1990)の中でそれは起きた。主人公のレイコは幼少のときに両親が惨殺される現場に居合わせてしまい、自らも暴漢のよって乱暴を受ける。長じて後、そのときの記憶を頼りに犯人を探し出す復讐へと自身を駆り立てていくのだったが、その記憶とは男たちの性器形状のイメージではなく、股のあたりから発せられるむかつく体臭なのだった。視覚ではなく嗅覚に頼るのである。

 気まぐれに地滑りが起きているとは考えられない。少なくとも『花と蛇2 パリ/静子』という作品は先に書いた通り石井にとっては特別な光彩を放つ題材であるから、そこに本気と乖離したものは混じりにくい。性器そのものをつぶさに撮影もしくは模写してこれを銀幕なり誌面に大きく配置することが法律上許されない以上、視線をスライドさせるなり形状を要しない匂いへと置き換えるしか方法が無かったという言い訳は立つのだが、それだけでなく石井隆は性器という器官に対して一点集中的に傾注することを絵面的に、物語的に避けているように思われる。するりとまなざしを切り替える術を体得していて、隅々までコントロールを利かせている。色調を整え、過激な様相の中にも自己のタッチを堅守するのである。

 性器への傾注を避ける、ならば石井作品とは禁欲的であろうか。露わとなった性器の面影をまるで直視できない、視野角の狭い絵柄だろうか。

 『死んでもいい』(1992)での左右から閉められたカーテンのわずかな隙間、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)のドゥオーモに至る岩肌に穿たれた横穴、『花と蛇』(2004)で外界とを区切る暗幕、『甘い鞭』(2013)で地下室の壁に生じた裂け目、劇画に頻出する雨露をたくわえた草と蔓(つる)の茂り。承知の通りそういった女性器の隠喩が石井の劇には数多く散りばめられていて、一見するとこれ等の背景表出は露骨に描けない代わりに置かれた装飾で、私たち読み手の意識をくすぐるための暗号にも見える。

 しかし、主要な人物の精神状況とあきらかに結線する観念的過ぎる登場の仕方からは、記号の意味合いを越えた堅い手応えがありはしないか。登場人物の妄念がもたらす直接的な物象のシルエットも含めて、石井隆は彼が創る世界の総体を人体から延長派生するものと捉えている。つまり石井にとって大事なのは局所ではなく、人間の魂を含めての全身像なのであり、その全身にすっかり包まれることの安息や不安なのだ。局所が本来の局所の位置から離脱して大きく大きく拡がって世界と化している。

 私たちの抱える欲望は対象と見定めた相手の身ぐるみを剥がし、丸裸にして肌に触れたい、粘膜をこすり合わせて一体感を享受したいとしきりに恋いしがり、その実現に躍起となるのだが、その逆に石井は人間を包みこもうとする。

 劇画時代に描かれたおんなの衣服を振り返ると、あれは脱がせるためよりも着せるところに主眼があったように思う。単なる記号となって機能し、性別や年齢といったキャラクター設定を支えるのが目的ではなかった。材質や肌触りも直ぐに連想できそうな徹底した衣類の描き込みであったが、其処を通じて読者は確かな実感を堆積し、登場人物を人間そのものと認識して逢瀬を重ねたのだった確実に身体の、魂の延長としての衣服があった。

 歌麿とほぼ同時期に活躍した浮世絵師に渓斎英泉(けいさいえいせん)がいるが、そのものずばりの春画と並行して女性の着物から醸し出される色香を表現すべく心血を注ぎ、卓越したその描写は遠く欧州の画家をも虜にした。布地の折れ、たわみ、めくれを繊細に、時に過剰に線描しており、現代の我々の目も妖しく魅了するのだけれど、あれなども性器の世界化と言えそうだ。石井隆という絵師の立ち位置を俯瞰して考えたとき、この英泉あたりと結線させるのはあながち間違いではないかもしれぬ。


 あこがれ、気に懸けて向き会う相手を瞳のなかに収縮させるのではなく、逆にとことん膨張させていく。衣服、化粧道具、紙巻き煙草、家具、音楽、路面を濡らす雨、林野、横穴といったものを駆使して全てを肉体化、性器化する。『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』のドゥオーモや『GONINサーガ』(2015)のバーズ、『甘い鞭』の地下室といった建築空間は石井世界において人間以外の何物でもない。

 それは私たちに石井隆が静かに諭す“他者へのまなざし”であるだろう。対峙する人間をパーツのみをもって理解しようとしたり消費するのではなく、相手を包む物象を含めて抱擁し、また逆に抱擁されない限り、本当の共感や恋情に到達することは難しい。相手が背負う世界全体を愛せないでは片手落ちになるよ、そのぐらい人間が人間を想い続けるには広い視野角と高い密度が必要なんだ、そんな事を耳打ちするように思う。



“アトリエと画廊”~隠しどころ~(11)


 字面と音の響きに怖じ気づき、伏せ字にしたり、照れてはしゃいで話題をすり替えて良い段階ではない。生々しい性愛行為や堂々たる裸身を劇中に怖れずに盛り込む石井隆という劇作家を考える上で、「女性器」の立ち位置を確認することは避けて通れない。

 どんな表現が為されたか、分かりやすい例が映画『花と蛇2 パリ/静子』(2005)だろう。最初に『花と蛇2 パリ/静子』とはどんな作品だったか、簡単におさらいする必要を感じる。石井のほかの作品とは趣きを違えて見えるからだ。

 主人公のおんな(杉本彩)が男社会に翻弄され、完膚無きまで虐(いじ)め抜かれる点はいつも通りであるから、構造や展開は他の作品と共通項が多いのだけど、何というか一種穏やかで清清しい、抑制された美意識に貫かれて見える。舞台には銃声が一発も轟かず、若い身空での非業の死もない。凄惨を極める人体の損傷や解体作業も伴わないから、粘性ある血だまりは何処にも見当たらない。魂は常軌を違(たが)えることなく、だから破滅的な決壊も起こらない。

 実際ここで終盤に発生し波紋を広げるひとりの老人の死は、外部から銃弾や刃物で傷付けられての結果でなく、内部から派生した自然死に近しい。心臓に無理強いしての突然死であって、それも痙攣をともなわない程も急激な病死だった。心室壁もしくは心房壁が裂けて数秒で失神するいわゆる「心破裂」にも似た圧倒的な頓死である。密やかな願望を無事に成就させ、愛する家族に看取られての幸福な旅立ちであって、石井世界では珍しく健全な末路が用意されたように思う。

 いつもと雰囲気が異なるというだけでなく、わたしは石井隆という作家を考える上で『花と蛇2 パリ/静子』は重要な位置を占めると捉えている。おんなを悩ませる男たちはヤクザ者ではない。浮気癖のある色悪でもなく、うだつの上がらぬ放浪者でもない。ふたりの孤高の画家が両端に佇み、中央の奥まったところに夫である美術評論家兼画廊のオーナーが立って、魔法陣のようにおんなを取り囲んでいる。

 黒い背広に染みこんで落ちない尖った死臭や整髪油のくすんだ薫りに代わって、鼻孔をくすぐるのは油絵具の匂いと生乾きの画筆から放たれる重たい獣臭、インクジェットプリンターが吐き出す化学薬品の刺激臭だ。それ等がゆらめき混ざる薄明るい屋内風景が主な舞台となっている。途中お約束として挿し込まれる怪しげな絵画市場があるが、主催するギャングたちは割合とおとなしく殻に収まって、映画全体の基調を荒らしに来ない。あくまでも主役はアトリエと画廊であって、珍しく体育系とはまるで無縁の静謐な地平が拡がっている。

 インタビュウのなかで石井は、映画の小道具として登用された自作の絵に触れながら、物語に出てくる絵描き(遠藤憲一)と彼を二重写しに捉えられては困る旨の発言をしていた。巴里の廃墟然としたホテルの小部屋にて無聊を託(かこ)ち、酒量だけやたらと増えている。さらには、実の兄妹の身でありながら一線を越した異形の親和性を抱えた画家とその家族である。塾柿(じゅくし)のごときその湿った姿は、現実の石井の生活と確かに違っている。分身と決めつけるのは誰の目にも乱暴に過ぎるのだけど、しかし、だからと言ってこの『花と蛇2 パリ/静子』という話を徹頭徹尾がフィクション、現実から乖離したお伽噺と捉えて思考の道筋から追い払って良いのだろうか。

 シナリオライターが舞台用の台本やテレビドラマのプロットを思案し、劇中人物のひとりを職業作家に設定したその刹那、作品は特殊な光彩を帯びていく。見るずっと前の段階からわたしたちは緊張させられ、胸騒ぎを覚えずにいられない。虹色を帯びた雲母状の薄い膜をドラマ表層に幻視するようにして、書き手のあえかな情念の波光を台詞のなかに見出していく。眼窩あたりを力(りき)ませて、矢のように放たれる台詞に耳を傾けてしまう。

 作り手の暮らす現実世界から投射される光線を発見してまばゆく感じ、また、ほんの少しの内奥の吐露といった実に人間的な面影が露出していると感じる。作り手もこの影響を相当に意識して尺を埋めに掛かっている。うがった見方をせずに鑑賞を済ませられる者は、たぶんこの世に一人もいないのではあるまいか。

 石井隆が一枚絵、もしくは連続体である劇画中のひとコマひとコマに渾身の思いで取り組んで来たことは周知の事実であるし、その筆のタッチがやがて一葉の写真、もしくは連続体である映画のカットに段差なく受け継がれ、確固とした自分だけの世界を持続している点はよく知られた事だ。ジャンルを越えて同一の陵線を表現し得る作家中の作家が石井隆である。ぞっとする、それとも陶酔を誘う絵画の伽藍を構築しており、いまに至るまで強固にして稀有な絵描きである。それが石井のまぎれもない実像と捉えている。

 母親に連れられて詣でた社(やしろ)の壁にかかった不可思議な絵馬にこころを奪われ、父親の書斎に所蔵されていた美術全集を覗いて過ごした幼少年期、キャンバスと格闘して県展で入賞を果たした学生時代、睡眠を削って芝居小屋の幕絵を仕上げた若い時分、そして、それからの波乱に富んだ劇画家時代の暗闘。石井隆の根っ子にあり続けるのは絵画である。

 その石井がアトリエを舞台に物語を編んだことは、これはもう何というか、極めて私的なまなざしをそなえた特別な作品と宣言するに等しかろう。『花と蛇2 パリ/静子』の一切は作家性と無縁で掘り下げる意味が無い、くねる女体を愛でて欲望を発散させれば十分なんて到底断じ得る訳にはいかない。『花と蛇2 パリ/静子』の行間を読み解く行為は石井世界の探求にとって大事な課題だから、いつか時間をかけてみっちり行なうつもりでいる。