2018年6月17日日曜日
栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(6)
栗本は自分のことを「生きたマンガ史」(*1)であると豪語した。そんな兵(つわもの)がどうして斯(か)くも無惨な見立て違いに陥ったのか。中島梓(なかじまあずさ)の名前で出ていたクイズ番組を毎週眺め、闘病記にして最期の作品、波状となって遅いかかる痛みと薬で朦朧となりつつ綴った「転移」(*2)を息苦しく読んだ身にとって、異論を唱える度に腹立たしさと悔しさが湧き立つ。恩人という程は慕っていなかったが、その面影や声はわたしの成長過程にゆったりと浮遊している。彼女の残像を懐かしく感じる。
故人への冒涜になるのか、またいつものように他人を傷付ける行ないを繰り返していないか、と、うな垂れて自問を繰り返す。中島さん、怒っていますか、ごめんなさい。でも、やはり書いておかないと貴女のためにもならないと思うんだ。「ナイトアンドデイ」が混乱の種になるのは貴女だって厭ですよね。やだねえ、石井隆の読者って妙に生真面目でしつこいったらありゃしない、もう勝手にしたらいいんじゃない、さっさと書き終えて解放してちょうだいな。そんな風にきっと笑って許してくれますよね。
孤独な少女期を過ごした栗本薫は御多分に洩れず漫画雑誌の虜になり、自室にこもって作画にのめり込んでいく。そのうち雑誌「COM」への投稿を繰り返したのだった。漫画という創作物に対して強い愛着があったのであり、そうであればこそ、七十年代の象徴のひとつとして石井隆ブームを取り上げたのは確かだろう。
ただ、石井隆の「ブーム」に大いに着目はしたが、「作家」としての石井には関心がなかったのだ。漫画というメディアに憧れ、その総体をひたすら崇拝し続けた彼女にとって、小説を書くことは絵のない漫画を描く行為であったに等しいから、自らを石井と同等の立場と捉えており、また、競争相手以上の興味を覚えなかった。漫画の絵や台詞が一般読者に衝撃を与えて翻弄し、彼らの人生を大きく変えかねないことを十分に理解している身であればこそ、時おり訪れては世間を熱くする「ブーム」をひどく面白がったが、石井隆の劇画自体は彼女にとって一切の影響力を持たなかったのだ。
それは石井隆に限った話でなく、栗本薫は漫画家全般に対して常に冷淡な目線を維持していた。中島梓名義の自伝的エッセイのなかにはこうある。
「そのころ大評判であったつげ義春も、「別冊ガロ・つげ義春集」などを買ってねっしんに「勉強」しはしたが、ついに(中略)ひきつけられることはなかった。「紅い花」は生ぐさく、「沼」はわけがわからず、「ねじ式」に困惑し、「その後の李さん一家」も貧乏くさく思った。」(*3)
つげ作品がまるで分からないこと、困惑したことを照れなく平然と綴っている。なんて純心で気負いのない感想だろう。少女そのままのこんな目線が、石井隆の作品を気狂いじみたものとして拒絶するのはある意味自然であって、小説中の彼女の分身である「沢井」という若者の意見がああなるのも宜(うべ)なるかなだ。
「とにかく絵が好きだった。」「憧れたあまり私は(中略)大切に切りぬいて保存した。」(*4) そのように往時の読後感を綴って見せた宮谷一彦(みややかずひこ)という作家に対しては、栗本はその後にあっさりと視線を断ち切ったと白状している。「どうも前のよりよくなかった。そのせいか、サンデーはこれぎりになり、かわりに少しして、青年誌で政治がかったのが連載がはじまったが、私はもうフォローしなかった。」(*5) フォローしなくなった事を悪びれず、しかも宮谷作品について決して口を閉ざすことがない。どこからその自信が湧いて来るのか。
熱心な読書家であった彼女は「生きたマンガ史」を自認する程であったが、それは裏返せば人気漫画に着目し、その年ごとの流行作を読むという慣習に染まっていたことを証し立てる。厖大な作品をひたすら取捨選択することに追われ、肌合いが悪いと感じれば惜しげもなく排除しておのれの視野の外側へと追いやった。集中して特定の作家と向き合う道を選ばなかったのだ。それが栗本の漫画との旅路であった。
「漫画」については果てなく喋れただろうが、特定の「漫画家」をとことん語る土壌は彼女にない。それなのに無理矢理「石井隆ブーム」を紙面に定着させようと試みたのだ。脱線転覆するのは当然の帰結だ。森ばかりを見て木の成長にいっさい寄り添わない気構えで、どうして石井隆を語れよう。
以上が「ナイトアンドデイ」に対する私なりの感想だ。否定的なことばかりを書き連ねていると全然楽しくないし、いい加減に疲れてくる。でも、最も疲弊し、ぺちゃんこに叩き潰されたのは石井でありその家族であったろう。ここでは触れなかった部分も含めてほぼすべて余すところなく「モデル」である石井の実像と乖離している。それが大出版社の手で国のすみずみまで配られた訳だから、並みの精神であれば立ち直れなかったのじゃあるまいか。
その後の絢爛な劇画執筆と映画監督としての躍進を見ると、世辞でなく勇気付けられるところがある。私たち誰もが彼を見つめ続ける理由のひとつだ。彼の倫理観は信じられるし、作品から愛の何たるかを学び、勇気をもらえる。そして、生きていることがどんなに虚しくても、悔しいことだらけでも、先に待つのが死と決まっていても、それでもなお歩むことを続ける姿に共鳴して止まない、だから私たちは石井隆を見つめ続けるのだ。
急を告げるメールなり声が届き、次々に新しい障壁が立ち上がる。うんざりして何もかも投げ出してしまいたくなる。そんなときに石井隆の世界と石井隆本人の苦闘を想う。秘かに奥歯を噛み締め、明日も闘おう、生きてみようと考える。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 225頁 「あとがき」
(*2):「転移」 中島梓 朝日新聞出版 2009
(*3):「マンガ青春記」 中島梓 集英社 1986 104頁
(*4): 同 112頁
(*5): 同 113頁
栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(5)
栗本薫「ナイトアンドデイ」が雑誌に載ったのは1982年10月頃だから、早くてもその年の正月初め以降が執筆時期と想像される。石井隆のオフィシャルファンサイトで石井の単行本が上梓された年月日を調べれば次の通りだ。
「名美 石井隆作品集」1977.12.05、「赤い教室 石井隆作品集」1978.11.10、「天使のはらわた 第一部」1978.08.15、「天使のはらわた 第二部」1979.01.01、「天使のはらわた 第三部」1979.06.01、「横須賀ロック 石井隆作品集」1979.07.15、「おんなの街 石井隆作品集」1981.05.15。(*1)
栗本が「ナイトアンドデイ」のモデルに「かの石井隆大先生」を起用しようと決めた時、石井劇画のこれら代表作が書店の棚のおそらく高いところに並んでいたはずである。手にとって頁を開けば、【おんなの顔】(1976)、【街の底で】(1976)、【紫陽花の咲く頃】(1976)、【水銀灯】(1976)がそこにあった。【愛の行方】(1980)があった。そして「おんなの街」があった。
【雨のエトランゼ】(1979)と【赤い眩暈】(1980)も堂々と身近に横たわる時期にありながら、栗本はこれらをほとんど読みこなすことなく「いつも追われ、犯されるだけ、そこで物語はとぎれ、決してそのあとのつづきや結末のない女」(*2)を視とめて、「あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然とし」、「どのみち読者は、一部の知識人のさわぎとは別に、この雑誌、この作家、などとえらんで買いもとめているのでありはしなかったようだ。かれらにとってはどういうちがいはなかっただろう」という結論に至ったのだ。これは相当に軽率で罪づくりで、恐るべき結審である。
問題の「あとがき」を含んだ単行本「ライク・ア・ローリングストーン」が世に出たのは1983年5月1日であるが、石井はそのとき「ヤングコミック」で【黒の天使】を鋭意連載している真っ只中にあった。そのような「モデル」の石井の活躍があるにもかかわらず、栗本は次のような文章で「あとがき」の最後部分を締め括っている。
「いまの私は少女マンガしか読まないけど、宮谷一彦や、永島慎二や、石井隆は、いま、何をしてるのだろうな、と思ってみたりする。(中略)昭和五十八年一月」(*3)
「石井隆は、いま、何をしてるのだろうな」とは、なんとも壮絶で凶悪に過ぎる献辞である。出版業界と近接していながら調査の手を尽くさないまま、「現役」の作り手である点を十分に認識せずに「モデル」と称してなぶっていく。深慮を欠いたそんな不安定さのまま、危険な綱渡りを自らに強いた命がけのひとりの創り手を滅茶苦茶に思い描き、さも観て来たように書き散らしたのだった。「ナイトアンドデイ」とはその程度の文章であって、到底石井隆の現実の七十年代と結び付けて許される本ではない。
(*1):石井隆の世界 公式ファンサイト http://fun.femmefatale.jp/
(*2):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 212頁
(*3): 同 225頁
栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(4)
「ナイトアンドデイ」は極めて石井隆とよく似た、いや、石井隆そのものを指すとしか言えない当時の状況をつぶさに書き込みながら、同時になんだか訳が分からない箇所も含んでいる。この不気味な分断はどう捉えるべきか。
「もし、彼のその絵を、おちついて見る批評眼を保っている男があるとしたら、おもわず吹き出したかもしれないぐらい、男と女には、彼の描きかたに、ものすごい露骨な差があった。男などは、ただいればよいというようすで、表情などはロボットのようにかたく死んでおり、ときには黒くシルエットでぬりつぶされていた。背景も紙芝居よりお粗末だった。木の茂みなど、ただの丸をぬりつぶしただけだった。」(*1)
これは石井隆をモデルに使っていないと言い切るための保険や免罪符なのか、それとも栗本の分身である若者には実際そんな風に目に映ったのだろうか。丸のかたちでぬりつぶしただけで木の茂みをどうやって表現するのか、私にはどうもよく解らないのだけど、「背景」となるものに人物の心情を密着させ、巧みに仮託していくことを初期段階から試みていた石井の絵画とは次元のちがう話になっている。
こんなエピソードがある。石井劇画の制作現場に居た人から直接聞いた内容なのだが、アシスタントが未舗装の地面を表現するよう指示を受け、気持ちを込めて腕をふるった。前に世話になっていた他の作家の作業場で描き慣れていた方法、つまり石ころを大小の楕円で表してあちこちに配するやり方なのだが、それを観た石井から即座に注意を受けたそうである。石はただの丸ではない。その場のあるがままを描く必要があるのだ。
草葉を黒く塗りつぶすなんて、そんな安易なことは石井世界では許されない。草の葉一枚、石ころひとつにも作者の思念が及んでいたから、どんなに採算性が悪くてもアシスタントは、もちろん石井自身も手が抜けなかった。膨大な量の線が紙面に投じられていったのだ。それが石井劇画の「背景」の特徴にして内実である。
実際の石井隆と作中人物が同一と思われぬよう、石井の十八番である繊細な背景画を栗本が切り落としたという事であるならば、言葉少なに淡淡とそう記せば良いだろうにいちいち悪態を吐かないと気が済まない。表情が死んでいる、紙芝居より粗末という、いかにも見下したような意見をなぜ書かねばならないのか。裸の王様に気付く子供のように「おちついて見る批評眼を保っている男」ならば、性愛が主軸の劇画に熱狂など絶対にしないと言いたいのか。そこまで私たち石井隆の読者を読解力のない痴れ者と決めつけるのか。
「その夜はひさしぶりに悪習がよみがえってしまった。」「われながら異様に思ったのは、翌日になってもまだ、あの絵を思いだしただけで体の芯(しん)の方からたかぶってくることだった。金があったらトルコへかけこんでいたろう。その興奮には、異様で少し病的なものが混じっていた。」(*2)
聖人君子ではないから石井の劇画に扇情されたことが一度たりとも無かったなんて書くつもりはない。けれど、それにしても何てステレオタイプで幼稚な反応だろう。単純で分かりやすい読者像をあてがい、栗本は石井隆をめぐる巨大な世のうねりを蚊か鼠を媒介とする熱病か犬のさかり並みの一時的な脱線と読み解き、甘い郷愁に染まった実体なき蜃気楼とでも括りたいのではないか。
「つまるところ、そうそうただひたすらなワイセツ、欲情、下司さ、の中に浸りこんで、ただ欲情だけを感じて何の倦怠も虚しさも感じずにいられる、というのは、そうとうタフな身体と心の持主なのだろうとぼくは思う。セックスがいくら好きでも、セックスのことだけ、あるいは食い物のことだけ、金のことだけ、四六時中考えるようには、できていないのだ。ぼくのような、ふつうの人間──ごく平凡な男というものは。佐崎さんと違って──そして、さいごには、あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然としてくる。」(*3)
自瀆(じとく)する道具としてだけ劇画の役目を定める単純な読者像を一方に置き、栗本はこれと対峙する作家を同等の短絡したイメージに染色しようとする。自分(栗本)のような、ふつうの人間──ごく平凡な女というものには佐崎=石井のような下司な妄執は続けられない。彼らは異常であり、狭隘な性欲の谷間に咲いた汚い徒花であり、あっという間に枯れていく存在だと言い切っている。あまりのことに、圧倒され、ばからしくなり、次に呆然としてくるのはこちらの方である。
どうしたらそんな読み方が出来るのか。石井隆の仕事に「倦怠や虚しさ」を感じ取れないとはどんな目を持っているのか。「セックスが好きでセックスのことだけ四六時中考えている」なんてどうしたら想像できるのか。「横須賀ロック」や「名美」を読んで暗い気持ちになり、宮谷一彦、永島慎二と同質の匂いをかいだ末の彼女の「創作」がこれなのか。怒りを越えて無性に悲しくなって来る。石井の世界観を消化しようと身悶えし、おのれの血肉にすることを嫌い、分からないし分からなくてもぜんぜん構わないとあっさり背を向けてしまったおんな(栗本)も哀れだし、考察することを手控えて逃げに逃げた「創作者」の一生を不憫にも感じる。
わたしが石井隆の読者になったのは中学の終わり頃で、他者と触れ合う性体験の片鱗もない時期であった。その後、それなりに時間を重ねて酸いも甘いも味わってきたけれど、傍目には平均的な半生をつむいできたと見えるだろう。性愛に対する嗜好だってありふれた味覚と嗅覚であって、そういった意味でどこまでも普通のどこにでもいる読者であったと思う。
栗本の創った若者とわたしの視野角なり光度は違って当たり前であるから、あのような単純な若者が世間に少しはいたことは想像出来るし否定はしない。しかし、こういう別個の少年もいたのだ。石井隆のまぎれもない読者のひとりとして当時受け止めた感覚を刻んでおきたい。
闇にたじろぎつつ解放されていく人間の、ささやかな夢の匂いを嗅いでいた。肉の哀しみを常に見ていた。恋情の昂揚と終息を垣間見せられ、人に対して臆病にもなったが優しくもなった。
死という終点を雨夜の向うに幻視して謙虚になった。歓びと淋しさが、聖と邪が、健康と隠滅が表裏一体であることを感じた。幼さは人をかまびくしくさせ、老成は人を美しくすると信じられた。都会はどこまでも寂しく、人は独り同士であると伝わった。性差をむさぼるよりも魂の共振が、共鳴こそが嬉しいのだと解かった。
物質のひとつひとつ、雨滴、ヘルメット、整髪料に薫る髪、スカートのひだ、浴室のタイル、僅かな表情の変化に感情が乱反射し、ひとが其処で費やした時間や思念が宿るように思われた。髪に触れる、肌に触れることが会話なのだと信じ、大切なものと思えるようになった。性愛のもたらす悲劇と至福を意識し、幸福な時刻(とき)を求めていきたいと心から願った。それが私にとっての石井隆だった。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 172頁
(*2): 同 167頁
(*3): 同 180頁
栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(3)
小説のなかの漫画家と実在の石井隆とは違うよ、いっしょと捉えてカッカしないでよ。栗本が生きていたら唇をとがらせて反発するだろうか。それとも、そうだよ、その通りだよ、私は石井隆の作品をろくに読んでいないし、彼がどんな人か全然分からないよ。あとがきにだってそう断わっているじゃないの、ちゃんと読めよ、と髪振り乱して開き直るだろうか。
「「ナイトアンドデイ」のモデルは、かの石井隆大先生であります。といっても私は先生のお作を読むだけで他のことは、どういう人かも何も知らん。ただ、「横須賀ロック」や「名美」を読んで暗─い気持ちになり、宮谷一彦、永島慎二と同質の匂いをかいだだけです。」(*1)
「この三編の中編には、いずれもモデルがあります。私の知人だった人も居れば、メディアを通してのみ知って、そして勝手なイメージを抱いた人もいます。どの作品のどの人のモデルは誰で、それがどうアレンジされていった、という類のことは、小説がいかに生まれてくるかという評論の材料としては面白いし、また、芸能週刊誌的興味にも、面白いかもしれませんが、小説を楽しんで頂く上には、いらぬことだと思います。」(*2)
知らないのだ、勝手なイメージなのだ、誰がモデルかなんて読者には気にしてもらいたくもない、と著者はくどくど綴っているのだが、これはどうにも釈然としない暴力的な振る舞いではなかろうか。何も知らないと書いていながら、小説「ナイトアンドデイ」には石井隆を取り巻いた当時の状況が克明に採取され、虫ピンで串刺しにするようにして要所要所に貼り付けてある。「勝手なイメージ」の領域をとっくに越えており、七十年代の顔となった石井隆の輪郭を写し込もうとかなり気負って書いてある。
「それから三、四年、つまり一九七〇年代のちょうど半ばごろになって、(中略)ブームがはじまった。佐崎さんは、そのブームの、ほとんどきっかけになったと云ってよい人気(中略)劇画家だった。」(*3)
「その雑誌の表紙をみたとき、ぼくは思わず笑ってしまった。なぜなら、それは(中略)ヒゲなどを生やした、佐崎さんの写真だったからだ。(中略)パラパラめくると、何だか難しそうなことがいっぱい書いてあった。ポルノ映画の監督だの、評論家だのが、佐崎さんのマンガについてしゃべっているのだ。」(*4)
「まだ、ブームが頂点といわれたころで──佐崎さんの代表作といわれる「鏡子シリーズ」がポルノ映画化されるという記事が新聞にでかでかとのった」(*5)
その雑誌とは表紙構成から新評社が1979年1月に出した「別冊新評 石井隆の世界」であるのは明らかであるし、映画は1978年7月22日公開の『女高生 天使のはらわた』(監督 曽根中生監督)を指している。ここまで特定の現象を注ぎこんでいながら、知らない、モデルが誰かなんて余計なお世話だと読み手の推測を押しとどめようとするのはどうしたって無理な話だ。次の部分などは完全に「名美」を、石井隆を連想させる目的で為された挿入文だろう。
「信子さんは、佐崎さんのいつもかくヒロインの名前をいった。鏡子──狂子──響子──今日子──彊子──字はちがっても、いつも同じ肩までの冴(さ)えないロングヘア、やぼったいブラウスとスカートであらわれてくる女。」(*6)
「名美」という器を作り上げ、そこに幾種もの酒を注ぎ、さまざまに波紋を起こして薫風を振りまいた石井隆の仕事が、上にあげた小説中の漫画家佐崎の文体と同一とは言えない。「名美」は奈美や那美になったりはしないからだ。では佐崎のモデルは、かのA先生、かのB先生であったろうか。
当時の漫画界では手塚治虫のスターシステムに似た描法が定着を見せ、石井隆以外の作家においても、登場する人物に特定の容姿と決まった名前を繰り返し与えつづけて、幾度も幾度も読者の前に立たせて幻惑を導くことが流行った。「名美」と「村木」という固定された名前と容姿の男女を再三に渡って採用した石井の手法というのは、だから専売特許とは言えない訳だけれど、これだけ状況証拠がいくつも重なってしまえば、「ナイトアンドデイ」の作者栗本が石井隆と彼の劇画の「表層部分」を不遠慮に奪い尽くし、再構成しようと企んだことは明白と思われる。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 1986年8月25日発行 223頁 あとがき
(*2): 同 227頁 文庫版のためのあとがき
(*3): 同 200頁
(*4): 同 200-201頁
(*5): 同 214頁
(*6): 同 197頁
栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(2)
「「ナイトアンドデイ」のモデルは、かの石井隆大先生であります。」(*1)
著書栗本薫によってここまであからさまに刻印された以上、読者の知らない石井の実像に迫っていると誰もが思うだろうし、わたしもそれを望んで手に取った次第なのだけど、結論から言えば完全な肩すかし、いや誤謬だらけで看過し得ない内容だった。あまりの事実との乖離にただただ啞然とし、かえって冷静にぱたりと閉じたように思う。そんな訳だからこれから綴る文章は批判めいてくるのは避けられず、栗本薫の信奉者にとっては相当苦い味となる。
誰でも間違いは犯すと思うから、栗本を断罪する気持ちは強く持っていない。だってこの私こそが思い込みが激しい性質(たち)なのだし、勘違いの権化みたいな有り様だから。いい加減に読み解きの能力の無さを悟り、筆を折ってはどうかと逡巡する毎日だけど、後始末の一環として性懲りもなく独りモニターに向き合っている。
栗本の間違い、それとも故意で綴ったのかはよく分からないのだが、それが石井隆というひとりの作家の実像を大きく歪め、彼の作品の印象を闇雲に減損しつづける類のものであるならば、そうして書籍というメディアが人の生死を越えて長命であり、もしかしたら木造家屋を灰塵に帰す戦争や地震といった大災厄に遭っても地中深くの書架などで生き延びて、後世のひとの手にいつしか渡り、そこから再度つぶやく不死身の力を擁すると捉えるならば、焼け石に水でも対抗上それは違うよ、間違っているよ、と誰かがどこかに異論を挟んでおく務めがある。
ウェブの発達は知の集約をかなえ、最終的に情報の誤りは順次訂正されていく仕組みが育っている。でも、ウェブ成立のはるか以前の出版物で再版されぬものについては、誰からも苦言を呈される機会を持たない。いつまでも誤りが誤りのまま姿を保って隠栖(いんせい)し続ける。何者かが考古学者よろしく掘り起こして世間に発表してしまえば、そして、誰もその内容に異議を唱えることがないままで独り歩きを始めたならば、純真な読者なり世間は抵抗なく文面を鵜呑みにし、無自覚に汚染されてしまうのじゃあるまいか。誤りが次の誤りを果てしなく産んでいく、そんな可能性がゼロと言い切れるだろうか。
例によって誇大妄想の女神が背中に忍び寄り、手元をそっと覗き込んでいる。頬に生温かい薔薇色の息を吹きかけて煽るのだけど、もうどんなに笑われたとしても構わない。往時の読者という立場、時代の当事者として素直に感じたままを綴るのみだ。
そもそも「ナイトアンドデイ」は、主観に最初から最後まで覆い尽くされている。二十歳前後の学生「沢井」が行きつけの喫茶店で漫画家「佐崎(サザキ)」と出会い、アシスタントとして雇われるうちに彼の妻「信子」と恋仲になって遁走する。数年後に不動の人気作家となった佐崎に対して沢井は恥知らずにも金の無心をするのだった。実にみっともない恋情の顛末が描かれている。主人公はこの無軌道な若者の方だけど、物語は冒頭から最後まで漫画家佐崎に対するコメントや憶測を連ねることに終始し、ほぼすべて沢井という若者の主観に沿って綴られている。
ひとりの漫画家を客観視する内容では毛頭なく、人生経験の浅い沢井の未熟な視線をもとにした戯言(ざれごと)、絵空事と断じることも可能なつくりである。いちいち目くじらを立てるまでもない、ただの私見じゃないか、たかが小説ではないかと肩をすくめる人がいて当然だけれど、若者の目線がどこまでも悪意一辺倒であり、またモデルである石井隆の作品とはげしく乖離してばかりとなると果たしてどうであろうか。石井の作品をまったく読んだ事がない若い人が、初めてこの「ナイトアンドデイ」を通じて石井隆を取り巻く七十年代を夢想してしまったら、どんな風に瞳の奥を染め上げるだろう。
このにわかに信じがたい小説中の狂った主観に対し、唯一あらがうようにして当時の読者であった私がおのれの主観をぶつけ、異議の真似事をとりあえずしておきたいと考えるのだ。
たとえば、「ストーリーもごくありきたりな──清純な女学生が、痴漢に犯される、というだけの、オチもへったくれもないような話」(*2)と書かれている。また、「電車の中、夜の公園、家の中。背景はどこだってよく、ストーリーなんかあるだけムダというものだ」(*3)という沢井の感想は私には最初から何がなんだか理解できず、首を傾げさせたのだった。
石井隆の劇画本をめくりながら、ありきたりで無駄なストーリーだ、なんて感じたときは一度としてなかった。美術館を回遊していて、見ず知らずの人の声が耳に止まることがある。たとえば藤田嗣治(つぐはる)を前にしてこの三毛猫はよく描けているわね、髭(ひげ)もちゃんと生えているし、誰それさんの何とかちゃんと似てるわね、と談笑するご婦人がいる。佐藤忠良(ちゅうりょう)を前にしてこの上腕の筋肉は本物そっくりだね、よく再現出来たものだな、それだけ言って立ち去るひともいる。実際にそんな背中を見送って大層驚いたものだ。作り手が絵に託そうとする想いや昼夜に渡って注ぎ込まれた熱量や技法など、まったく意に返さない人たちがいる。
表層だけを漫然と眺めて終わりとし、自身のこころの入り江まで作品を曳航させずとも満足できてしまう人は割合と多いのだ。「ナイトアンドデイ」の沢井はまさにこの典型だろう。コマに凝縮された情報を沢井という男はまるで読み取っていない。鼻でもほじりながら絵と台詞をつらつらと眺めるだけが漫画の愉しみ方と考え、内在する作為や送り手の深遠なる葛藤まで想いが至らない。どれだけ膨大な月日を投じているのか想像出来ない。
「佐崎さんのが、いちばん、ストーリーをつくろうとか、一応変化をもたせようという意欲に欠けているみたいだった」(*4)と別な箇所で評するのだったが、一体全体どういう了見であるのか、憤激さえ覚える。石井隆をモデルにしながら著者の栗本は石井の作品をろくに読んでいない、と直感した。
栗本は「名美」というイコンを創造する前の試行錯誤する石井を知らないし、どうやら知ろうともしなかったのである。佐崎という漫画家が無名の雑誌で悪戦苦闘している時期から始まり、やがて世間が注目して看板作家となり、メディアがその人気に気付いて盛んに動き出すまでを描いた小説であるから、同じように時系列的に石井が無名であった頃の作品を買うなり借りるなりして、ざっと眺めてみるぐらいはしたら良いのに、栗本はその作業を完全に怠ったとしか思えない。
粗雑でざらついた紙に印刷された初期の石井劇画のなかには、女殺し屋が吸血鬼と濃霧のなかで死闘するものだったり、不良女子高生グループの果てしない抗争があったのだし、死者の国をさまよう娘を透明感ある絵のなかに置いた幻想画もあったりして、当初はかなり振り幅が大きかった。読者と編集部の嗜好がどこにあるのか手探りしながら必死でつかみ取ったのが一連の「名美」であり、それは故郷の山稜や池にうかぶ睡蓮、踊り子がたゆたう舞台袖といった東西絵画界の先達が紆余曲折を経て選び取った固有の景色たちと同等の、集束された対象物(モティーフ)である。
光線がレンズで屈折して徐々に一点に束ねられていくように、石井隆は題材を替え、描線を変え、大胆に技法を進化させていった。あいまいな揺らぎが消え去り、レーザーにも似た濃厚でまばゆい光軸が出現した。それが石井隆の雨と血に染まったメロドラマであった。その過程をつぶさに見ていれば、いや、せめて見てみようという意志がわずかでもあったならば、どうして「変化をもたせようという意欲に欠けている」なんて書けるものだろうか。
あげくの果てに「ひとつのつよい確信とでいっぱいだった。(この男──気狂いだ)という確信」(*5)と綴り、さらに「(この男は気狂いだ)また、ぼくは思った」(*6)と強調すべく繰り返し、「どうも、この男には、どこかしら、ふつうの人間らしい感情というものが、欠落している、と思われてならなかった」(*7)と書き残している。名誉毀損の訴訟によく発展しなかったと思う。なんて思慮の浅い、粗雑な記述だろう。「ふつうの人間らしい感情というもの」が欠落しているのはどっちだろう。
石井隆が劇画世界でどれだけ大きな風穴を開けたのか、どれだけ画期的な仕事をしたのか、栗本はそれが全然理解出来なかったのだ。世間の熱狂をいぶかしみ、発行部数の伸びを後押しする男性読者は性欲持て余す牡(おす)の群れと処断し、浅はかなやつらと一瞥しほくそ笑んで紙面に黒々とした私見を刻んだのだ。
「どのみち読者は、一部の知識人のさわぎとは別に、この雑誌、この作家、などとえらんで買いもとめているのでありはしなかったようだ。(中略)佐崎賢治も石川豊も、かれらにとってはどういうちがいはなかっただろう。」(*8)
違いが分からないであんな熱狂が起きようか。栗本はなぜ石井が支持されているか皆目わからなかった。他の作家との違いがわからなった。わからなくても全然平気で、さらにわからないまま勝手に自作のモデルに石井を選び、誤ちだらけの解釈を世間に押し付けることを何ら躊躇しなかった。これが灼熱の焼き鏝(ごて)、「ナイトアンドデイ」が内包する禍々(まがまが)しさである。
(*1):「ナイトアンドデイ」 栗本薫 文春文庫「ライク・ア・ローリングストーン」所収 文藝春秋 1986年8月25日発行 あとがき 223頁
(*2): 同 172頁
(*3): 同 181頁
(*4): 同 181頁
(*5): 同 173頁
(*6): 同 176頁
(*7): 同 178頁
(*8): 同 213頁
栗本薫「ナイトアンドデイ」(「ライク・ア・ローリングストーン」所収)(1)
栗本薫(くりもとかおる)の小説「ナイトアンドデイ」(1982)が衆目を集めたのは、これまでに都合三度である。「別冊 文藝春秋」に載ったときが最初で、その後しばらくして単行本「ライク・ア・ローリングストーン」の一編として収まったとき、最後はこれが文庫本となり陳列されたときだ。(*1) 当時の世評を知りたくて何かないかしらと探してみたのだが、実のところ反応も何も今のところさっぱり見当たらない。鈴木いづみが表題作「ライク・ア・ローリングストーン」と別のもう一編にさらりと触れているくらいで、見事に忘れられた作品と言えそうだ。 (*2)
私の場合、初見は文庫版であった。蒼空(コバルト)色のよれよれになった帯がかろうじてへばり付いている。「今月の新刊 70年代の匂い、雰囲気、思い ああ、ぼくらの青春よ!」なんて書かれていて鼻白んでしまうけれど、奥付を見ると1986年8月25日とあるところを見ると多分その頃に購入したのだろう。
あれから三十年以上が経過している。引き足しして当時の年齢を数えれば、列島を北へ北へと移動していた頃だ。六畳かそこらの風呂もなければトイレもない下宿部屋が懐かしく思い出される。書棚代わりにしていたダンボール箱に石井の劇画と共に「ライク・ア・ローリングストーン」は居座りつづけ、ともに寝起きしては流し目を送って寄こした。
1986年といえば、創樹社から石井が自身の名を冠した「自選劇画集」を出したちょっと後ぐらいになる。その頃のインタビュウかあとがきを読み、慌てて買いに走ったのだったかそれともまったくの偶然だったか。人生には運命的な出逢いというやつがあるけれど、この本に限っては石井から教わった口じゃなかったかな。まあ、その辺はさして重要ではないから、保留してさっさと本題に進もう。
著者の栗本薫とは世代にずれがあって、彼女が過ごした七十年代と私のそれは時間軸こそ同一ながら色彩は大きく異なる。三編にひしめく喫茶店や同棲、ギターや長髪は、淡い憧憬を覚えはしてもよくは知らないからコメントしづらい。「安保、内灘海岸、安田落城、マンガブーム、ロックバンド、新宿」(*3)のいずれもが背の届かない先に在って、正直実感するものがない。「匂い、雰囲気、思い」を共有していない以上、口を挿む資格がそなわっていないと言われたら黙るより仕方ない。これまでそんな風に考えてきたし、いまも幾分かはそう感じている。
そもそも栗本薫を読んで来なかった。続きものを数巻買って読んだ時期があるけれど、なんだか肌に合わなかった。人が人と向き合い喋ったり動いたりするほんの刹那にきらめく感興や不快を立ち止まって掘り起こさず、話の筋の勢いだけを重視して見えた。ピント送りがなく照明も不十分な雑駁な映画みたいで落ち着かず、間もなく新刊購入を控えるようになってしまった。そんな読者とも呼べない自分が栗本の何を語れるものだろう。対象物と飽くなき同衾を重ね、汗だくの抱擁を経ずに唇を開けば、言葉はたいがい表情乏しく、たちまち体温を失って虚しい時間に陥りがちだ。
無資格者を自認しつつもこの四十年前の忘れられた著述を蒸し返す理由はどこにあるかかといえば、ひとえにこの小説が石井隆と深く関わるからだ。石井劇画の積年の読者としてならば、また、往時の掲載誌の一読者としてならば、その時分の生身の読後感を振り返り、確固たる調子で意見を投げ返すぐらいは許されるのではあるまいか。乗り遅れの感はあるけれど、それでもなお私は石井劇画が盛んに掲載されていた雑誌の購読者だったし、入手可能な単行本のほとんどを買い揃えていた。その一点を頼みの綱にして、これから少し囁いてみたいと思う。
「ナイトアンドデイ」が初めて掲載された雑誌とその後出た単行本も気になり、あらためて入手している。ざっと三冊を見比べて見たのだが、「ナイトアンドデイ」に限って言えば改訂の跡は見当たらない。栗本にとって迷いのない仕上がりだったのだ。いくつか為す引用は、すべて最終形である文春文庫版からで注釈の頁数もこれに拠る。
(*1):「別冊文藝春秋 161特別号」 文藝春秋 1982年10月1日発行
単行本 文藝春秋 1983年5月1日発行
文春文庫 文藝春秋 1986年8月25日発行
(*2):「退屈で憂鬱な10年―栗本薫『ライク・ア・ローリングストーン』」鈴木いづみ 「鈴木いづみコレクション〈8〉 対談集 男のヒットパレード」文遊社 1998 頁
(*3):単行本の帯に記載。ちなみに惹句は「レクイエム・私の青春」
2018年6月5日火曜日
“絵本”
貸本時代の初期作品は巧みな話術で支持を取り付け、当時の子供たちの脳裏にあざやかな光跡を刻んでいる。その後の掌編たち、【紅い花】(1967)、【ねじ式】(1968)、【ゲンセンカン主人】(同)などに至って、青年層の記憶の裾野に雨滴のごとく滲み入った。素朴な描線の人物像ながら、雷雲の如きただならぬ変動を隠して思えた。読者の心に低くたれこめ、振り払えない蔭(かげ)をもたらした。
ずいぶん前の本のなかで評論家の梶井純(かじいじゅん)は、つげの貸本作品群を評して次のように書いている。「作家の本質的な社会観などとは無関係に理想をえがくことができる子どもマンガ志向をもつことこそ、「一流」の子どもマンガ家が約束される最大の手形であった」のだが、「同じ子どもマンガをかきながらも、つげ義春は、無意識にこの時代の暗部からうきあがることを肯(がえ)んじえなかった」。また、後続の「ガロ」を主体に発表された佳作群については「読者の存在を半ば無視してみずからの作品を切りひらいていく道すじをたどった」とも記している。作品および作家の性向を簡潔に表現して感心させられるが、要するにつげは時代におもねることのない孤峰として在り続けたのだ。(*3)
折々に書棚から引き出してはじっと視線を注いでいく年季の入った読み手だけでなく、いまも若く新しい読者を獲得し続けているところがつげの見事なところだ。加えて間欠泉のごとく噴出をくりかえす研究本、解析本の出版である。その事実の堆積にはただただ舌を巻き、不思議な作家がいるものと感嘆させられる。
石井隆にもつげと同様の、いや、それ以上の引力なり渦がそなわるとわたしは一心に信じているのだけれど、石井が評論や研究の対象に選ばれることは少なく、それが至極残念でたまらない。でも考えてみれば、そもそも一人の漫画や劇画の表現者に対してとことんこだわり抜いた書籍が編まれること自体が珍事なのである。手塚治虫や石森章太郎、水木しげるや白土三平、それに楳図かずおといった鮮烈な作家性を前にしてこれまで幾人もの評論家や研究者が腕まくりして挑んだが、手塚とつげ以外はそれほど目立った出版の隆起はない。
過去の作品群を二言三言で簡潔に紹介しまくるとか、憧憬や尊敬の念をとろりとろりと綴ってみたり、これまでの親交を目尻下げて回顧する、そんな軟らかでモザイク状の構成ならば大概の雑誌の作家特集に見受けられるからさして珍しくないのだが、「読み解き」であるとか「作家論」と冠した重心の低い活字で頁が埋め尽された本というのはそうそう見ない。特に単著は多くない。
青土社の「ユリイカ」や河出書房新社「文藝別冊」のバックナンバーが並ぶ大型書店には、押切蓮介(おしきりれんすけ)、志村貴子、東村アキコ、こうの史代(ふみよ)、古屋兎丸(ふるやうさまる)、江口寿史(ひさし)、岩明均(いわあきひとし)、諸星大二郎、岡崎京子、いがらしみきお、いしいひさいちといった私があまり読んだことがない最近の漫画家と懐かしい作家の名前をそれぞれ背表紙に記した両誌の特集号が並んでいる。どの程度売れるかは知らないが需要はあるのだろう。単独で一冊の作家論を編むまでには至らないものの、往年の「漫画主義」的なかたち、複数で多角的に切り込む布陣はメンバー替えしていまも健在なようだ。「スペクテイター」のつげ特集の構成はどちらかと言えばこれに近い。作業を分担し、ひとりの創作者を取り囲んで皆で迫ろうとする。
一方の「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」は矢崎秀行ひとりの筆によって書かれている。こういうスタイルは確かに見なくなった。何も漫画に限ることではなく、映画についても単独執筆者による作家論の出版は稀である。あっても長いインタビュウを文字に起こし、上手く構成したものが主流と思われる。
単独で上梓することの難しさは一体どこにあるのか。一個人が作家論を試みる上で困難な側面は「歳月」の断崖にある。日常の現実世界で他者、それは友人でも恋人でも良いのだけれど、その人柄とその内部に広がる精神世界をある程度理解するには相当の時間を要する。出会い、幽かな途切れ途切れの交信を開始し、やがて打ち解けてお喋りに興じ、なにかの拍子に深刻な対話を始めてそれを延々と連ねるという行程を踏まえることが肝心となる。いやいや、本当に相手を知るには「時間」なんていう生ぬるいものでなく、「歳月」という強面(こわもて)の集積が求められていく。
私たちが作家に出会うときは喝采を博した後が大概であり、駆け出しの頃など全く知らないのが普通だ。「歳月」を持たずにいきなり人間と対峙する訳だから、どうしても臆病になる。響きがどうも嫌いで普段は使わないようにしているが、人生を賭して創作に挑む作家の孤影をどこまでも“フォローする”こと自体が容易な道筋ではないのだ。まして作家の内奥に迫り、したり顔であれこれ論ずることなど土台最初から可能な次元とは到底思われない。立ちふさがる岸壁の偉容に怖じ気づいて、こりゃ手ごわいと登る気が失せてしまう。
人生を理解するのは結局のところは当人のみじゃないのか。誰もが雨のなかに佇む村木のように、そのかたわらを肩と背中を濡らしながらも歩み行く名美のように、ほんの少し距離をおき離れ離れとなって踏ん張るしかない。足裏に力をこめて大地に仁王立ちし、互いをひたすら見守って見守って、見守り続けるより仕方ない。そんな当たり前の真実に足がすくみ、誰もが口を閉ざしていく流れではなかろうか。
ずるずると長い枕で𠮟られそうだから本題に移れば、このつげ関連の二冊を続けざまに読んで評論の難しさと怖さをまざまざと目にしたのだった。この場はつげについて語る場処ではないから詳細は触れないが、作品に引用された写真の出自をめぐる解釈に段差が生じている。どちらかと言えば「『ねじ式』のヒミツ」の方がすこし分が悪い。執筆者が生真面目な性質(たち)で作品に対する愛着の強さがよく伝わる分だけ、余計に哀しく、吐息を凍らせるものがあった。
人が人に惚れ、理解しようと努める行為はなんと微笑ましく、そして、なんと残酷なことか。ひたすらに気持ちを深めていくが、往々にして道を誤っていく。相手の求めるものと真逆のことをしてしまう、妙ちくりんなことを思いこむ。熱情のとばしりに負けて、胸にそっと貯め置けずにいよいよ苦しくなって、気を許した相手に半熟の私見をべらべらと喋ってしまう。
なんだなんだ、自己弁護にその本を使う気かね、あのなあ、君の勘違いは上の本と比べたら数段ひどいよ、まったく偉そうなことを書けた身かね。分かっている、その通りだ。つまり私は矢崎のこの本から我が身同様の暴走気味の、同時に真面目すぎる性行を受け取り、彼と自分を、そして人間という総体をどこまでも温かいものとして信じたいのだ。同情のような自己憐憫のような湿った気持ちに完全に呑まれている。
間違いは確かに犯したが断罪する(される)までもなかろう、そう思いたいのだ。読み解きのどこかに誤りがあるからといって、作家の内実、魂の基幹部分から大きく外れているとは限らない。今ごろがっくりと肩を落として落ち込んでいるだろう矢崎に近づき、よく迫れている方じゃないかと誉め讃えたい。どちらの本をつげが喜ぶかと言えば、きっとこっちの本の内容や熱情を興味がり微笑んでくれるに違いない、なんて想像する。
実娘の手になる清楚できっちりした装丁の可愛らしい“絵本”をめくりながら、ひとりの人間、ひとつの家族の柔和なまなざしが宿っていると感じる。寡黙な作家と結線を果たそうとする読者の分身が、うつくしい本の形態となってわたしの前に腰をおろしている。
(*1):「スペクテイター〈41号〉 つげ義春」 エディトリアル・デパートメント編集 幻冬舎 2018年2月
(*2):「つげ義春『ねじ式』のヒミツ」 矢崎秀行 響文社 2018年1月
(*3):「現代漫画の発掘」 梶井純 北冬書房 1979 199頁、201頁
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