2017年11月25日土曜日
背景(バック)から風景へ~つげ義春と石井隆~(4)
古書店を回遊していたところ、日に焼けた評論誌が目に留まった。めくってみると石井隆に対する寸評が載っていて、二度三度と繰り返し読んでみたのだが、どうにも呑み込めない。大友克洋(おおともかつひろ)と石井を比較した上で評者は「時代とずれている」「しばらく出番はないような気がしてしまう」と断じており、その語調にまるで容赦がないのだった。そこまで書かれてしまう義務があるのか、何か石井は悪いことをしでかしたものだろうかと無性に悲しくなる。
抜粋するとこんな具合だ。「石井隆はドラマを語り始めた。ただ、残念だったのは、石井隆がやろうとした方法論を、大友克洋が、いかにも今風に、しかも巧みに、読者の嗜好にあうところでやってしまったことだ。その差は、叙情と叙事の差であり、人への愛情の持ち方の差であり、邦画と洋画の差であるといったことになるのかもしれない。」(*1) この後に先の激甚でいささか頓狂な裁断、「時代とずれている」等の一文がつながっていく。
別のところでも当の評論家は大友に触れており、「背景(バック)」ではなく「風景」に進化していると説いている。どうやら評者は緻密に描写された建築物や街路のつぎつぎに崩壊する様で耳目を驚かせた【AKIRA】(1982-90)の背景画から刺激を受け、いつしか石井劇画のそれと比較を始めてしまったようだ。確かに【気分はもう戦争】(1982)、【童夢】(1983)から【AKIRA】に至る大友作品は当時の若者の興味を引きつけ、あたかも密書か預言書のように手から手へと伝わって読まれていた。そんな大友の出現により、石井の劇画はみるみる影を失ったものだろうか、本当に「時代とずれて」しまったものだろうか。
60年代や70年代初めの世相については年齢的に口を閉ざすのが筋だけど、1987年当時、石井と大友双方について熱心に眺めていた私には多少なりとも出しゃばる権利がそなわるように思う。寸評が書かれた1987年というのは石井にとって【魔楽】(1986)執筆の頃であり、その後には【雨の慕情】(1988)、【雨物語】(同)、【赤いアンブレラ】(同)といった佳作小編の発表が相次いだ時期だ。描線に艶がより増し、コマ割りも的確で、読者の視線と思考をなめらかに誘導して完成の域に到達していた。ひとつの場面に時には数頁を割き、長回し風の構成を恐れなく描き切って、自由自在に時間を操る術は堂々たる大家のそれだった。対する大友の方はと言えば、【AKIRA】連載時に相当する。それにしても、なんだか資格試験の引っ掛け問題みたいな感じでちんぷんかんぷんだ。
私見に過ぎないが、大友の背景画は一見して複数の、もしかしたら相当の数のスタッフを採用しなければ表現し得ない次元と私には思われたから、そこに作家性を強く見い出すことは最初から無かった。前景と後景のタッチをここまで均一化することのこだわりには既存の漫画技法からの脱皮や貫通の感覚があったのは確かだが、衝撃はなかったのだ。物語うんぬんではなく、人物描写でもなく、小道具、つまり近未来を彩るハイテク機器と石井劇画での場末の酒場、ひしめく酒器やおんなのドレスとの比較でもなくって、あくまでも街並みや建築物といった背景処理に限った一面なのだけど、衝撃という程の目覚しさはなかった。大友がやろうとした漫画表現の一部は、石井の到達した世界の片翼に過ぎないのではないかと感じられた。
大友の出現以前から、石井隆の劇画世界とは「風景」に真向かう時間に他ならなかった。人物との密接性、感情や思考との連結、世界観(タッチ)の統一を石井は既に為し遂げていた。日毎夜毎にそのハイパーリアリズムに舌鼓を打ち、全身すっぽり浸かっていた当時の私は、大友漫画の出現を割合と冷静に捉えていた。大友の背景画はどれだけ線を重ね頁を連ねても、“一種の現象”として目に映った。愉しんではいたのだが、異郷ではなく、革新でもなかった。
そもそも、あの当時読者を牽引した大友漫画の持ち味、魅力とは、設計集団に君臨する建築士並みのすぐれた統率力で開花したものであり、その力量こそがただただ眩しかった。プロダクションシステムを構築し直し、背景描画から積極的に“個性”というものを奪い、その上で独自の世界を創造していた。粘性を同居させたその妥協なき一種の冷徹さこそがずっと斬新に思えたし、若い目には驚異であり刺激だったように思う。
評論家の文章をもしもあの当時に目にしていても、そんなに懸命になって同じ土俵に載せなくてもいいのに、と、きっと首をかしげたように思う。両者は同じ漫画というフィールドに立つ者同士だったが、まったく違う競技種目のアスリートだった。うまく言葉を操れず、あの時の心象をきちんと表せなくて悔しいけれど、よい意味でも悪い意味でも衝突する事はなく、感動の芽を育てる場処がちょっと違っていたのだった。
そう思うならそのまま受け流しちゃえばいいのに、なんでわざわざ古い本を買って来てまでして過去の話をほじくったりするのよ、と他人は思うだろうが、こうして行をつないで咀嚼し、なんとか呑み込もうとする理由は、他者の見地もまた石井の多層宇宙を読み解く上で大切と思えるからだ。どんな言葉もヒントになる。無碍には扱えない。
「人への愛情の持ち方の差」という箇所はいまひとつ要領を得ないけれど、石井と大友のどちらかの手法が「叙情的、邦画スタイル」であり、もう一方が「叙事的、洋画スタイル」と言いたいのはどうやら確かだ。そして、おそらく評者は石井を「叙情的、邦画スタイル」と受け止めた上で、「今風ではなく、巧みでもなく、読者の嗜好に合わない」と言い切っている。誤った解釈とはもちろん思うが、発行から三十年が経過したからこそ、誌面に刻まれてしまったこの言葉は俄然深みを増してくると感じられる。
言をそのまま借りるなら、石井は劇画と映画の垣根をこえて「叙情的、邦画スタイル」を堅持しながら、この三十年間ずっと活躍して来たことになる。此処にこそ作家という存在の本分がかえって隠れ潜むのではないか。「しばらく出番はない」どころか、映画監督としてコンスタントに作品を送り出し、青い雨に煙る「風景」を海外にまで贈り届けている。「今風、読者の嗜好」は絶え間なく変転するが、石井は己のタッチを守り抜いたのである。
つげ義春を師表と仰ぎ、叙情をとことん突き詰めていく。邦画の鼓動と息吹を胸中にしかと温存し、一個の人間への愛情を永続的に持ち続ける。それの何処が劣ったものと思うのか。決して後ろ向きでもなければ、弱さでもないだろう。むしろ強靭と思う。時代に翻弄され、大事なものを見失っていたのは残念ながら評者の方であり、悪罵に耐え抜いて石井は千山を踏破し、最終的に勝ち残って今に至っている。ほかの作家や評者に勝ったということではなく、時代という濁流を泳ぎ抜いたという点で圧倒的な勝利者と思う。
列車に揺られながら読み進め、漠然とそんな事ばかりを考えた。あれから既に一ヶ月が経っている。雨に湿って重くなった銀杏の葉をゴミ袋に押し込みながら、秋空の下、ひとりの作家の暗闘の歳月に今も気持ちを馳せている。
(*1): 「ユリイカ」1987年2月号 特集マンガ王国日本! 青土社
「現在マンガの50人」 米澤嘉博(よねざわよしひろ) 198頁
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