2017年11月18日土曜日

面影の連結~つげ義春と石井隆~(2)


 石井隆の劇画群には、他の漫画家の作品と面影を連ねるものが幾つか交じっている。わたしの思い過ごしでなければ、中でもつげ義春(よしはる)と相貌を近しくする短編が多い。石井の劇づくりの工程を推察する上で、つげの存在に思いを馳せることは極めて重要と考える。この件は過去何度も書いているから重複箇所もあるけれど、こころ向くまま泳いでみよう。(*1)

 【ねじ式】(1968) はつげの代表作であると共に、日本漫画史におけるエポックとしてつとに知られている。波しずかな海辺にて得体の知れぬ海月(くらげ)に腕を噛まれた男が、もう一方の手で傷口を押さえながら浜に上がり来る場面から【ねじ式】は幕を開く。おそらくはまだ齢若いその男は、上半身は裸であり、お世辞にも筋骨隆々とは言えず、むしろ貧相な体躯からは物悲しさが漂う。

 腰から下は黒っぽいズボンを着用していて、靴は履かずに裸足のままだ。身体と比べて頭でっかちであり、海水に濡れた髪は額にゆらりだらりと柳の枝葉のようにのし掛かる。手当してくれる場処を探し求め、若い男は幻想とも夢とも判らぬ町、もしかしたら冥界かもしれぬ路地裏をとぼとぼと歩き回るのだった。

 石井は【赤い蜉蝣(かげろう)】(1980)、【赤い眩暈(めまい)】(同)、【真夜中へのドア】(同)と生死の境を往還するおんなの話を立て続けに発表するが、これ等の劇中に忽然と現われ、おんなの傍らにたたずむ奇妙な風体の男がひとり居り、その見目形は【ねじ式】の青年のそれと酷似している。村木的な骨格や鼻髭を時にたくわえ、サングラスや靴を着けたりもして、具体的な人相なり服装は微かに違ったりはするのだけれど、上半身が裸で柄のないズボンを着用し、回によっては眉薄く、頭頂部の平らな辺りは随分と似ているように思う。

 【赤い蜉蝣】や【赤い眩暈】は、幽明の境を歩んでみたものの、結局は生還を果たせないままに終わる薄暗く厳しい物語だ。一貫して同じ男が登用される思想的背景には、冥府案内の役回りはこのキャラクター以外にはあり得ない、という石井の確固たるこだわりが有る。身体機能の損耗が極まり、こと切れる直前となっていよいよ正気を失っていく。思念がはげしく断裂し、記憶が錯綜していく。そんな精神の崩壊する様になぞらえてか、次々と脈絡なく変幻していく舞台背景についても【ねじ式】と石井の数篇は極めて似た風合いがあって、両方を読み終えてみれば、意図的に繋がれたもの同士と捉えることに異論を挟む者はいないはずだ。つげ作品の空気と設定を石井は十年経てから借用し、己の劇にせっせと輸血している。

 上記の例ほど鮮烈ではないけれど、【真夜中へのドア】の別の場面にも共振を覚える箇所がある。主人公の若いおんなはモノクロームの古い欧州映画さながらの寂寂たる黄泉空間をさ迷うのだが、やがて水族館風の洞穴に至る。例の半裸男と行き着いたのだけど、通路側面の巨大水槽のガラスが急にぶわぶわと膨らんできておんなを仰天させるのだった。水圧に耐え切れなくなったのか、それとも、自ら崩壊すべき時が満ちてそうなったのか、遂にガラス板は轟音とともに砕き散って、大量の水しぶきがおんなの頭上から降りかかる。

 このくだりなどは、つげの作品【外のふくらみ】(1979)と実際よく似ている。窓ガラスや鏡面が割れるショッキングな描写というのは映画や漫画では常套であり、珍しいものでは決してない。しかし、硬質のそれが急速に軟らかさを増していき、モワモワと風船のように膨張してこちら側に迫って来るという発想なり描写は珍しく、ずっと私は探し続けているのだけど他には見つけられないでいる。(*2)

 死線を扱ったもの以外にも連結を匂わせる作品があって、たとえば本好きの少年と書店のおんなとの淡い交信を描いた石井の【白い反撥】(1977)は、取り扱うのが新刊書と古書の違いはあるけれど、やはり小さな本屋が舞台のつげの作品【古本と少女】(1966)と共振する。書店を主要な劇空間に設定することは石井作品においては他に見当たらないことから、ほのかな“不自然さ”が見止められる。

 つげの【古本と少女】の終盤にて、少年と店番の少女との間には体温のある交信が成就する。恋情とは到底呼べぬ、ようやく挨拶を交わす程度のささやかな結線ではあったが、幸せな幕引きであったのは間違いない。それに引き換え、年長のおんなに対して一方的に想いを募らせた挙句、呆気なく踏みにじられた形となった少年の失恋劇【白い反撥】の終盤は、そぼ降る雨が加わって一気に湿度が増している。可愛さ余って憎さが十倍の言葉同様、やりきれない気持ちを少年は鬱積させ、書店のおんなを犯し、さらには鋭利な刃物で傷つける過激な幻影へと取り込まれて悶々と過ごす羽目となる。

 顛末の表層のみに限って言えば、両者は光と影ほども対象的である。しかし、石井はその決着の付け方に彼らしからぬ乾いた風を送り込み、温かな余韻を持たせることに成功しているのだった。一種清々しい、毒気のない青春劇として【白い反撥】を締めくくっている。港の防波堤を少年はひとり訪れ、ざわつく気持ちを鎮めようとするのだったが、彼が力任せに投げ放った小石がコンクリートの厚い岸壁に当たって、カッツーンと高く乾いた音を響かせて一直線に彼方へと飛んでいく。石井は風景画を駆使して登場人物の懊悩を代弁させる術に巧みだが、一頁を三等分に割り、小石の護岸との衝突から飛翔を丁寧に描く展開は石井世界のなかでは異質な挿入と言えるだろう。

 少年の内部に寂寥と憤激が逆巻いていたのが、小石の三コマで見事に吹っ切れている。ひとは他人との接点を激しく求めながらも、他者の担う生活や責任、それに魂の内奥に巣食う思念や感情といったもろもろを支え合うことはなかなか出来ない。人が人を前にした時にはどうしようもない事ばかりなのだ、結ばれない事の方が圧倒的に多いのだ、と、少年のこころは悟るものがあったに違いない。妄想の中ではおんなを切り裂くばかりであったが、刃先は結局のところは自身の甘い想いを裁つ為に振り下ろされていたのだ。物狂おしい腕先の上下運動と狂恋の情をそのまま小石に託して、少年は思い切り遠くへと投げ捨てている。静謐な描画ながらも読み手のこころは濡れふるえてしまう絶妙なカットだ。

 これなどはつげの作品、【沼】(1968)のやはり終幕で放たれる沼岸でのズドーンという猟銃の号砲と間合いに相通じるものがある。石井世界らしからぬ、と書くと𠮟られてしまいそうだが、実際、陰鬱でやり切れない雨音を裂いてまったく爽やかな拍子が刻まれていて、この転調と異相はなんだろうかと読んだ当初から大層驚かされたものだった。

 これ等を先達からの“影響”とか“登用”と単純に捉えてはなるまい。石井がつげに積極的に歩み寄っている証しであり、一種の恋文、ひそやかな告白であったように思われる。

(*1): http://mixi.jp/view_diary.pl?id=275969168&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=336561051&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=429129480&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=722581098&owner_id=3993869
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=717425802&owner_id=3993869
(*2):つげ義春の「外のふくらみ」は、1976から77年に書かれた【夢日記】(「つげ義春とぼく」 昌文社 所載)を原型としている。厳密に言えばこの【夢日記】の挿画と合わせて三点がイメージを共有する。





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