石井隆は徹底して“物”のディテールにこだわる。傍目からは不要と思われる程も取材を重ね、その後で紙面に独り立ち向かっていたことは先に述べた。(*1) ロケ先で写真を撮りまくり、劇にからむ小道具は買うなり借りて手元に置く。模造拳銃やバイク用ヘルメットの裏側まで研究するなど執拗を極めた。それが二次元のページに唯一無二の滑空感を与えたのだし、劇中に汗ばむような臨場感を醸成して読み手の目と魂を奪った。
石井のハイパーリアリズムの絵を雨あられと浴びた読者のこころに何が起きたかと言えば、物語への没入感とは別のところで、冷静というか熱狂というか自分でもよく区別出来ないのだが、劇中に登場する“物”への関心がずしりと増したように思う。
ここで言う“物”には廃墟や酒場、高層ホテルといった建築物や街並みは当然として、屋上の金網、ベッドルームの寝具や浴室の湯船、ちょっと疲れたタイル壁といった設備や装飾、林野、洞窟、川原といった自然物、それに男女の肉体までが広く含まれる。カウンター脇に貼られたフラメンコのポスターや花瓶に生けた白百合、踊り子がまとう網タイツ、角ばったライター、旧型のぼってりしたガス給湯機、パーマをかけられうねり香るおんなの髪、男の柔らかそうな口ひげ、そんな“物”について気持ちがはまってしまい、好奇心が湧いて止まらなかった。
この世の何処かにそれ等は在る、彼らは実際に居るのではないか、という夢想というか希望のようなものがふわりと湧いてきて、あと一歩二歩だけ踏み出して真相を確かめたくなる。探し歩きたくなる、こっそり見つめたくなる、指先で触りたくなる。この疼くような感覚、切実で烈しい羨望のようなものは、やはり石井の劇画独特の煽り立てと言えるだろう。
【魔樂】(1986)という劇においても読み手を蠱惑する“物”が溢れており、筆頭は林道の果てで犠牲者を待ち受ける廃屋なのだけど、同じくらい気持ちが引かれたのは殺人鬼の奇妙な装束だった。廃屋の暗い地下室で行なわれる殺人儀式を犯人は終始ビデオカメラで記録するのだけれど、自身が写り込んでも正体がばれぬよう用心したのか、顔にはラテックス製らしい黒々としたマスクを被っている。
特徴的なのは目であって、丸い水中ゴーグル状のものがそれぞれ左右の眼を覆っている。通常ならば眼鏡みたいに平たくなっているはずの表面には4つの複眼めいた丸い円が描かれてあって、一体これは何だろうと不自然を感じ、ずっと正体がつかめないままに悶々と過ごした。
ボンテージの通販ページなどで検索すれば、なんとなく似たものは見つかる。柑橘系の果物を輪切りにした風に小さな穴が等間隔に、円を描いて並んでいる。視界を遮ることで嗜虐的性向を盛り立てる、おそらくそんな類いの性具だろうと考えてはみたのだが、なんとなく気持ちに馴染まない。
怪しげな宗教本によれば、古代シリア語で五世紀に書かれた書物の中でアンチキリストの容貌が紹介されており、左目に暗青色の瞳がふたつあると綴られている。いや、違うよな、石井は左右両方に四つも複眼風のものを並べる。そもそも悪魔を髣髴させる顔付きではないのだ。もっと冷めた感じ、硬い印象を受ける。
近年開発され、軍関係で使用され始めた化け物じみた四眼式の暗視ゴーグルがあるが、あの手の光を増幅する道具かとも考えてみた。太陽光の届かない暗室という設定では有り得る姿だ。しかし、【魔樂】のそれはあまりに小型であって、そんなコンパクトな暗視装置があるなんて聞いたことがない。世の中に本当にあるのだろうかと訝りながら、月日だけが無闇に過ぎた。
マスクについて石井は最近言うか書くかをしており、どこでだったかは失念してしまったけれど、話の主旨は次の通りであった。【魔樂】においては目出し帽のような覆面で正体を単に隠すだけではなく、一切意思や感情を読み取れないような覆い方をする必要があった。あれは自分の発明である。確かそんな風な発言かと思う。
知ってみればいろいろと合点がいく。殺人者の厚味のある靴をけたたましく線を連ねて活写し、物憂げな性具には照明のぬるりとした反射を再現して素材や硬度を伝える。物が密度を持って次々に迫り来て、読者をひどく威圧したりするのだけど、反面、石井は黒い全頭マスクについては詳細を描かない。物語の進行上、そのマスク顔をコマのいくつかに割り当てる必要が出てきた時でも、ことさら小さく、読者の視線が滞空することのないように配置した。ハイパーリアリズムの筆さばきを回避することで、ディテールを意図的にすっ飛ばしている。実在しない物であればこそ、あれ以上は細かく描きようがなかったのだ。
いや、むしろ描くわけにはいかなかったのかもしれない。私たちは石井の劇で目出し帽や仮面が登場すると、その後どのような感情の起伏が周囲の人物に生じるかを学習している。恐怖におののきながらも必死に目を覗き込み、眉の形状やまぶたのたるみ具合に特徴は無いか、虹彩に滲み出す感情の起伏を丹念に探った。わずかの露出に人間のすべてを垣間見ようとした。あの手のまなざしを【魔樂】にて石井は他の登場人物に、そして、私たち読み手にも徹底して封じるべく技巧を凝らしている。【魔樂】という物語の軸芯がそこにこそ在るからだ。
美術評論家がオディロン・ルドンOdilon Redonの描く目玉の化け物を論じた小文のなかに、こんなくだりがある。
「『見るとはなにか』──それは、いつでも見られることだ。はげしく、新しく見ようとする意識の裏側には、つねに、なにものかによって、たえず外から見つめられている、という恐怖がある。それがなにか、と見きわめようとすればするほど、それは、ますます厖大な不可視的なものに変じておそろしくこちらを見かえす。目に見え、名前をつけられるものは、すでに人間の手の中のおとなしい猫にすぎない。だが、その背後の魔は、どうすればよいのか。見えてくるものは、一切とるに足らぬときめこんだ心が、恐怖におびえ、押しかえすように凝視そのものに化する。こんな、凝視と恐怖とが交錯する地点に、眼玉イマージュが空をにらんでもだえるように浮びあがってくるのだ。」(*2)
立体感がまるでない、覗き穴ともレンズとも分からない四つ目の生成過程というのは上の評論家の言葉に似た経緯なり深慮が作者の内部にあったものと思われる。石井が創った【魔樂】の主人公がルドンに魅入られていた訳ではないけれど、「見るとはなにか」という自己問答に憑かれた男であるのは間違いなく、それに没頭する余り、見られることに異常な怯えを抱いてしまっている。五円玉ほどの小さな穴越しに、はたまた、でこぼこのレンズ越しに瞳を透かし見られ、驚愕や不安、喜悦といった心情を読み取られることを極度に恐れているのであって、それが造形を歪め、この世にない顔立ちへと発展させたのだ。迷彩服やTシャツ、斧といった実在の物に“観念そのもの”が形を得て継ぎ足されている。
この異常でアンバランスな外貌は【魔樂】の主題に則した姿だった。「見るとはなにか」に捕縛された男は、おそらく暗がりで今さっき殺めたばかりのおんなをひたすら解体して凝視する、そんな酷い行為に熱中しているに相違ないのだけれど、修羅の光景の只中にある男の頭に去来するのは、かならずしも喜びばかりでないのは劇中彼が繰り返し見る悪夢が能弁に告げている。究極の「見る」ことで得られるはずの幸福が、どうしても実感できない事態である。一体なにを間違えたのか。
顔の表情、顔色、視線、身振り、手振り、体の姿勢、相手との物理的な距離の置き方といった非言語的コミュニケーションは石井隆のドラマがもっとも得意とするところで、他者から何頭身も抜きん出たところだが、それらは全て「見ること」に集中する時間を物語上約束していた。その上で感情や思考の伝達、意志の疎通と相互理解といったものが萌芽する。「見ること」を起点とする切ないほどの希求と恋情が、画面に満ち満ちていくのが石井の持ち味だろう。
【魔樂】ではこの約束を(表面上)封印している。部厚いマスクに指先を立て、血だらけにしてそれをようやくこじ開け、細いわずかな隙間から「見るとはなにか」を探し求めてしまい、暴走を始め、男は自己崩壊に至ったのである。視線はいつしか行き場を失い、悲鳴を上げたのだ。それこそが石井が描きたかった【魔樂】の劇が懐中する本音ではなかったか。
お互いにであれ一方的であれ「見る」という行為を表層に現わすことを禁じられた男の顛末を描いた点で、石井ドラマの主流に対する完全な陰画に位置づけられる。そのように読み解けば何とも哀れで悲しい話と思われてくるのだし、この上もなく石井隆の劇なのだと了解されていく。
(*1): http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_21.html
http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6894.html
http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6221.html
(*2):「グロッタの画家」 東野芳明 美術出版社 1957 引用は1665年再版のものから 「ルドンの眼玉」87頁
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