2017年10月14日土曜日

“グロッタの集中的表現”~【魔奴】と【魔楽】への途(みち)~(12)



 世の中には違和感を抱かせる妙な看板がある。ある夜、裏通りを歩いていたら英語で“悪夢”という意味合いの酒場があってひとはどんな気持ちで其処に集うのかと首を傾げた。どうにでもしてくれ、べろべろにして俺を奈落の底に突き落としてくれ、と、ひどく思い詰めた人があの扉を叩くものか。

 あんな名前で商売になるのだろうか。酒に弱い私は店名を見ただけで宿酔い必至だ。絶対足を踏み入れない。尤もまるで由来の分からぬ店名が仮にあったとして、誰が困るわけでもなかろう。客とは至っていい加減な存在であるのだし、また、実際それで構わない。名前に惹かれて暖簾をくぐる者などひと握りだから、あれこれ執着して考えるだけ野暮だ。

 確かにそれはその通り
なのだ。店名などの意味や由来にとらわれる事はそんなに大事とは思われない。が、こと石井隆の命名とあっては簡単に放り出せないところがある。『GONIN』(1995)の準備稿において、舞台の主軸となるディスコの名前は“バーズ”ではなく“グロッタ”だった。鳥たち、とか、洞窟とか、ざらついた手触りがあって胸騒ぎを覚えるが、どちらも正体不明の感じがあってよく分からない。不思議と思い、否応なく妄想が膨らんでいく。

 黒澤明の『野良犬』(1949)を鑑賞した折りに、夕空を背景に「Bird」(正式にはBlue Birdなのだけど、)という劇場のネオン看板が点いたり消えたりしているのを見ると、そこに何かしらの接点はないかと勘ぐってしまう。確か石井の“記憶の映画”に『野良犬』も入っていたはずだ。でも、BirdsとBlue Birdでは大きな開きがあるしなあ、
看板ネオンが映るのはどっちも一瞬でしかない。どうかしている、と自分でも思う。両者を結束させ、何かしらの意味を託されたなんて考えるのは気狂い沙汰だ。

 こうして堂々巡りをつづける毎日なのだが、準備稿の方の“グロッタ”という単語にはより強い磁力があってきつく縛られて来た。どこから石井の脳内に忍び込み、どんな想いでそれを使用するに至ったのかをずるずると考えた。


 もちろん私たちは、石井が名付けを行なう際のスタンスが緊迫をはらんだ理詰めのものではなく、割合としんなりと柔らかな思考でもって進行する点を学んでいる。映画や雑誌、実在する知人から借りてくる手法を石井はおしなべて隠さない。
石井世界のイコンである“土屋名美”や、『GONIN』のディスコ経営者“万代樹彦”などの命名の経緯がそうだ。だから、こうして悶々と書き綴ることの全てが勘違い、思い込みである可能性は否定できない。馬鹿だなあ、深読みのし過ぎだよ、と石井だって笑うかもしれない。

 それでもグロッタに立ち戻って書棚の前に陣取れば、この語は「グロテスク」
という芸術様式と対で語られる傾向がある事が分かってくる。澁澤龍彥(しぶさわたつひこ)の書物をまさぐったときも、グロテスクを生成する上での通過点という捉え方だったように思う。イタリアやスペインの貴族たちが庭の一角に築いた「人口の洞窟」を一般には指していて、彫刻がうじゃうじゃと内壁を覆い尽くしてこの世の物とは思われない。黒雲から降り立った魔物が幾たりも侵入して、幽冥との境界線を曖昧にしていく、そんな妖しい雰囲気の風貌である。往時の貴族たちは呪術的な大きなもくろみを抱き、昼でも薄暗い回廊の建築に熱中したのだ。

 石井は港近くにそびえる白い建屋に、この宗教的魔窟のイメージを投射しようとしたものだろうか。欧州の暗い空の下、庭木を押し掃(はら)うようにして醜貌を晒す人口洞窟の写真を見つめながら、『GONIN』という劇はここまでは乾いていないし、こんなに大人しくまとまってもいないように思えた。“グロッタ”の文字と響きを登用した、その精神的高揚にまではたどり着けない。創作の上で跳躍を誘うような、ぐっと背中を押されるような際立った異相が見当たらず、少なくとも私の中では両者は結線を果たさない。


 たとえば先に引いた東野芳明(とうのよしあき)の「グロッタの画家」も、実はその一環から手にした本なのだけど、その中で東野は庭園芸術から思案を切り離し、より根源的な穴倉への耽溺、人がどうしてもふり解けない闇への憧憬といった視点からグロッタを語っている。「メドゥサにしても、キクロプスにしても、洞穴の中に住んでいた」と古の伝承に書かれる怪物の存在に触れていき、「厳重に封をして洞穴へととじこめておくべき危険な代物だった」と続けて、グロッタに宿る空気の質を原初的で荒々しいものへと導いていくのだったが、こちらの凶暴で不安を醸す連想の方がずっと『GONIN』の世界には近しい気がする。


「これらの洞穴の住人どもは、単なるひよわな偶像でなくて、れっきとした化けものという生き物であり、その視線にあえば、なよなよした肉体は、一瞬に峨々たる岩石と化し、また、その煌々と輝く眼差しは、天をもふきとばす火山の大爆発を起し、全世界の座標の原点を、人間からたちきって、一きょに物質のあらあらしい息吹きの中に移してしまう、はなはだ壮烈な化けものなのだ。」(*1)


 石井は肉弾戦をもって現世を活写することを劇の根本としているから、目から怪光を発して人間を石に変えたりはしないし、どろどろの溶岩流も出現しない。おんなの視線は一瞬に男たちの魂を凍結させ、その首や胸からは天井にしぶく血の噴出を起こす程度なのだが、そのようにして赤々とフロアを染め、輪になって踊り狂うサバトの夜さながらに次々と周辺で人が倒れ、ひどい酩酊状態に陥って銃口に身を晒していく『GONIN』や『
GONIN2』(1996)の勢いのある姿とは、つくづく神話的な苛烈さ、極端さが内在すると思う。貴族の庭園で闇にまぎれてのっそりと潜んでいる芸術作品ではなく、予測が付かず、常識も通じない怪物と遭遇する場処としての洞窟が描かれ、そこに踏み込んだ人間の絶望と発狂、地獄巡りの情景が彫り込まれている。

 ほかに“グロッタ”という表現をグロテスクから分離して語る書物はないかと探してみたところ、次のような文章に突き当たった。


「大蘇芳年の飽くなき血の嗜慾(しよく)は、有名な「英名二十八衆句」の血みどろ絵において絶頂に達するが、ここには、幕末動乱期を生き抜いてきた人間に投影した、苛烈な時代が物語られてゐる。これらには化政度以後の末期歌舞伎劇から、あとあとまでのこつた招魂社の見世物にいたる、グロッタの集中的表現があり、おのれの生理と、時代の末梢神経の昂奮との幸福な一致にをののく魂が見られる。それは、頽廃芸術が、あるデモーニッシュな力を包懐するにいたる唯一の隘路(あいろ)である」


 三島由紀夫の書いたもので、
画集「血の晩餐」(*2)の冒頭を飾るものだ。出版前年に三島は自決を遂げているから、これは生前に書かれたエッセイが元となっている。もっと具体的に言えば、一部だけが切り抜かれて使われている。本来は「デカダンス美術」と題された小文で、竹下夢二、モンス・デジデリオ Monsù Desiderio、オーブリー・ヴィンセント・ビアズリー Aubrey Vincent Beardsleyらと共に、あの“月岡芳年”に触れていた。(*3)

 四人の画家を並列した文章は焦点を絞り切れぬ曖昧さがのたうつのだが、こうして前段と後段をざっくりと斬り落とし、芳年への言及だけを紙面に叩き付けるようにして飾り直すと、映画が始まった直後に強烈な導入部をいきなり見せられたような驚きと慄きがあって相当の衝撃がある。「血の嗜慾、絶頂、生き抜いてきた、苛烈な時代、見世物、昂奮、おののく魂、デモーニッシュな力、隘路」と烈しい言葉が速射されて、腹わたに突き刺さり、硬い震動がじんじんと響いてくる。


 芳年を「グロッタの集中的表現」と呼んだ三島も凄いが、この形容を導いた芳年の表現世界に絶対的な高度を感じる。そうして思うのは、仮にこの文章を芳年の画集で目にし、いや、その確率は芳年を熱く語る
石井の口調からすれば我々が思う以上にずっと高いと考えるのだが、これを読み進めて瞳に刻んだ石井隆という男がおのれの創造する舞台『GONIN』にて「グロッタの集中的表現」を極めようとしたのだとしたら。

 人目から隠されたその想いを今更ながらこうして後追いするだけでも息が止まるような緊迫を覚えるのだし、読者や観客の知り得ぬところで為される想いの丈の深さや厚み、その不可視性は、石井世界をつらぬく画風と完全に合致もしていて連想に破綻がない。

 芳年の大回顧展以降の時期に世に問うた【魔奴】(1978)を起点とし、【魔樂】(1986)への隘路(あいろ)を経て、
『GONIN』のグロッタが描かれた。石井が映画世界においても、同一の地平で揺れることなく歩み続けたことを示している。ひとりの絵描きが人生を賭して「無惨絵」の後継を担おうとする、その真紅の証印となっている。

(*1):「グロッタの画家」 東野芳明 美術出版社 1957  引用は1665年再版のものから 「ルドンの眼玉」79頁

(*2):「血の晩餐―大蘇芳年の芸術」1971 番町書房 
(*3):「デカダンス芸術」 初出 「批評」1968年6月 引用元は「決定版 三島由紀夫全集 35」 新潮社 2003 116頁





2017年10月8日日曜日

“褥(しとね)の作家”~【魔樂】推想(4)~


 劇中登場する殺人鬼の特異な装束、すなわち真っ黒な全頭マスクの中央部に居座る四つ目のゴーグルは、「見るとはなにか」「愛するとはどういうことなのか」という問い掛けを妖しく放射しており、それは【魔樂】(1986)の主題を顕現させた石井隆の発明であった、と先に書いた。この点において【魔樂】は、極めて社会的な活劇と言える。特定の狂人を扱った話ではなく、相互理解と「見るとはなにか」を通じて苦悩し彷徨う人間全般の肖像なのだ。酸鼻を極める殺人儀式を目の当たりにして読者は圧倒され、思考をぼんやりと停止してしまいがちだけれど、石井は私たちを取り巻く現実世界の宿痾を浮き彫りにしようと試みる。

 相手に共感することに無理を覚えて消沈してみたり、はたまた、まだ見ぬ分身を追い求めてひどく煩悶する。誤解や反撥は日常茶飯に起きていき、そこに派生する哀しみや苦痛を私たちは常に感じているが、そんな原初的な苦悩が【魔樂】には巣食っている。発表から三十年を経ていながら今もって力があるのは、状況がまったく好転していないからだ。携帯端末が普及した訳だけれど、物狂おしい希求ばかりが体内に膨張して、折り合いをつけたり捨て場を探すのにいつも困っている。私たちは死ぬまで、この渋滞感なり迷路めく気分から脱することは難しいかもしれない。

 【魔樂】がいかに社会的な物語を目指したかは、その生成過程を振り返れば容易に理解出来る。山奥のモーテルで管理人の男が殺害を繰り返す先述の【魔奴】(1978)のスタイルが【魔樂】の下敷きとなっているのは確かだが、単に【魔奴】の浮世離れした世界観のみを鍛錬して仕上げた訳ではない。1983年前後に石井は目線を家庭の主婦に据えた短篇をまとめて世に送り出しているのだが、この一群の舞台となる住宅が【魔樂】の主人公家族のそれと同一である点は、同作の生い立ちと方向性につき熟考する上でまな板から外せない。

 たとえばその中の一篇【見知らぬわたし】(1983)では、子供とサラリーマンの夫を朝送り出した主婦が突然に侵入した賊に襲われてしまう。抵抗むなしく身体を奪われた上、後日電話で脅迫を受け呼び出され、幾度か求めに応じるうちに気持ちのなかに微かな変調を来たしていくのだった。朝食の席での夫や子供の声が遠くに、曇った背景へと急激に後退していき、日常光景に亀裂が生じている。「見るとはなにか」「愛するとはどういうことなのか」という疑問が主婦を縛りはじめる。

 もちろん【魔樂】と【見知らぬわたし】とはまったく別々の物語であるのだけれど、同一の住宅、ほぼ同じアングルでの朝食の風景、極めて似た家族構成、毎日なんだか分からぬ理由で遅く帰ってくる夫、面貌をひとつにするおんなの存在という設定が両者をつよく共振させ、合わせ鏡となって起動するところがある。

 【魔樂】においては視座をおんなから男に替えている。同じ一軒屋の玄関から毎朝出て行く側に作者の思念は組み込まれる。ばたんと扉が締まり、妻が鼻歌をうたいながら掃除機を使い出す気配を背後に感じながら、男は会社にむけて歩き出すのだが、もしもそこに【魔奴】並みの途轍もない孤独や膨張した希求、「見るとはなにか」を追い求める烈しい関心が宿ってしまったら、果たして男はどこまで突き進むのだろうかと石井は考えた。

 結果「ひとつ家」と「住宅」が並行して置かれた。それが【魔樂】という世界の茫漠たる地平線なのだ。映画『天使のはらわた』シリーズのシナリオ作りにも似た石井らしい柔軟なエピソードの連結が為されており、一気に物語のすそ野が広がった。作品と作品を別個に羅列するのではなく、各作品から無数の繊維を四方八方へと拡げて銘々を結んでいくのが石井の作劇の基本である以上、そんな作劇の経緯なり発展を想像することに一切の無理を感じない。

 さて、【見知らぬわたし】が愛情をもとめる家庭人の衝迫を描いていたのだとしたら、【魔樂】も同じ性質を抱かされた作品と捉えるべきだが、家庭人の住み処となるあの家に何が描かれていたものだろうか。【魔樂】を読むとき、どうしても殺戮の舞台となる廃屋ばかりを取り上げてしまうけれど、もしかしたら肝心なのは住まいの方ではなかろうか。

 目を凝らして見ていくとこれがなかなか面白い。長年石井作品を読み解く愉悦にひたって来た者にとって、【魔樂】というのは実は“不自然”に次ぐ“不自然”、奇妙な顔立ちばかりの作品なのだけど、そこが分からないままで整理がつかないでいる読者も多いだろう。

 たとえば朝食の場で夫婦間にて為される会話やその表情を追うカットバックというのは、一見安穏とした日常が描かれて見えるが実はそうではない。いきなり小津安二郎の映画が誤って編集されたような頓狂な風合いがある。石井の世界観との統一が取れず、きな臭い不穏は空気が漂ってくる。文法が意図的に乱されている。

 極めつけは夫婦の寝室の場面であり、これは何度か強調されて描かれてもいるのだが、揃って天井を向いて眠りについていく男女の姿というのは石井劇画的にはやはり“不自然”な形となっている。

 表面上の夫婦仲は決して悪くはなく、身体を重ねる夜もあるのだけれど、このふたりして仰向けに眠る夫婦像というのは途轍もない衝撃があり、見過ごせない不自然な絵柄となっている。フランスのサン・ドニにある聖堂には往時の貴族たちの墓が在るが、その石づくりの棺の蓋には彼ら死者たちの生前の姿が実物大の全身像としてそれぞれ彫刻されている。多くが礼儀正しく真っ直ぐに仰向けになり、夫婦の場合は棺が並行に置かれて揃って天を向いて横たわる。【魔樂】の寝室の場景はまさにあれとそっくりであり、夫婦の関係が石のように硬直しつつある事を私たちに指し示している。

 何を言ってやがる、それが普通だろ、我が家だって「おやすみ」って電気スタンド消してふたりして天井向いてぐーすか寝てるよ、おまえ考え過ぎだよ、と笑う人もいるだろうが、いまは石井隆の劇づくりに絞り込んで話している。

 たとえば、会社の後輩と一夜を共にすることになるレズビアンのおんなの孤愁をスケッチ風に描いた【赤い夜】(1985)のコマをここで並べ置けば、単に眠りにつくという簡単な行為にさえ石井が想像を絶する集中力で気を配り、カップルの身体の向きや傾け具合を微調整していることが読み取れるだろう。石井隆を“褥(しとね)の作家”と呼び表わすことが出来るようにわたしは考えるが、そこで描かれるのは単なる肉体の接合図ではなく、魂の交接やその逆の離反が主体であって、単純な春画とはなっていない。ミリ単位の闘いが続けられている。【魔樂】の寝室の場景はその点、静謐と安穏を表面上装いながらも、その実はさながら自家中毒で瀕死の体であって、かなり深刻な局面である。

 非言語的コミュニケーションを駆使する術を怠り、器だけが残されて形骸化した挙句にグループを形成する個としての人間が軋み出す構図が【魔樂】と【見知らぬわたし】に代表される女性視点の一群の劇に共通する。【魔樂】が中断せずにあのまま連載が続いていけば、もしかしたら陽子と名付けられた殺人鬼の妻の身にも魔の刻が訪れていたかもしれないのだし、そこまで露骨な展開はされなかったにしても、先行する劇を含めたその総体をもって、石井隆は彼なりのスタイル、死に臨む“ホームドラマ”を立ち上げて世に問うているのは間違いない。

 後年石井は寝室や寝具を大量の血で染める映画をいくつも送り出し、世界を驚嘆させていくことになるのだが、それらと【魔樂】とは根茎を同じくする幹であり花であるのであって、乱暴に切り分けることは誤りだと思う。石井世界に興味惹かれる人は勇気を出して書棚に手を伸ばし、その血みどろの向うにある「救い」を感じ取ってもらいたいと願う。





2017年10月4日水曜日

“四つ目”~【魔樂】推想(3)~


 石井隆は徹底して“物”のディテールにこだわる。傍目からは不要と思われる程も取材を重ね、その後で紙面に独り立ち向かっていたことは先に述べた。(*1) ロケ先で写真を撮りまくり、劇にからむ小道具は買うなり借りて手元に置く。模造拳銃やバイク用ヘルメットの裏側まで研究するなど執拗を極めた。それが二次元のページに唯一無二の滑空感を与えたのだし、劇中に汗ばむような臨場感を醸成して読み手の目と魂を奪った。

 石井のハイパーリアリズムの絵を雨あられと浴びた読者のこころに何が起きたかと言えば、物語への没入感とは別のところで、冷静というか熱狂というか自分でもよく区別出来ないのだが、劇中に登場する“物”への関心がずしりと増したように思う。

 ここで言う“物”には廃墟や酒場、高層ホテルといった建築物や街並みは当然として、屋上の金網、ベッドルームの寝具や浴室の湯船、ちょっと疲れたタイル壁といった設備や装飾、林野、洞窟、川原といった自然物、それに男女の肉体までが広く含まれる。カウンター脇に貼られたフラメンコのポスターや花瓶に生けた白百合、踊り子がまとう網タイツ、角ばったライター、旧型のぼってりしたガス給湯機、パーマをかけられうねり香るおんなの髪、男の柔らかそうな口ひげ、そんな“物”について気持ちがはまってしまい、好奇心が湧いて止まらなかった。

 この世の何処かにそれ等は在る、彼らは実際に居るのではないか、という夢想というか希望のようなものがふわりと湧いてきて、あと一歩二歩だけ踏み出して真相を確かめたくなる。探し歩きたくなる、こっそり見つめたくなる、指先で触りたくなる。この疼くような感覚、切実で烈しい羨望のようなものは、やはり石井の劇画独特の煽り立てと言えるだろう。

 【魔樂】(1986)という劇においても読み手を蠱惑する“物”が溢れており、筆頭は林道の果てで犠牲者を待ち受ける廃屋なのだけど、同じくらい気持ちが引かれたのは殺人鬼の奇妙な装束だった。廃屋の暗い地下室で行なわれる殺人儀式を犯人は終始ビデオカメラで記録するのだけれど、自身が写り込んでも正体がばれぬよう用心したのか、顔にはラテックス製らしい黒々としたマスクを被っている。

 特徴的なのは目であって、丸い水中ゴーグル状のものがそれぞれ左右の眼を覆っている。通常ならば眼鏡みたいに平たくなっているはずの表面には4つの複眼めいた丸い円が描かれてあって、一体これは何だろうと不自然を感じ、ずっと正体がつかめないままに悶々と過ごした。

 ボンテージの通販ページなどで検索すれば、なんとなく似たものは見つかる。柑橘系の果物を輪切りにした風に小さな穴が等間隔に、円を描いて並んでいる。視界を遮ることで嗜虐的性向を盛り立てる、おそらくそんな類いの性具だろうと考えてはみたのだが、なんとなく気持ちに馴染まない。

 怪しげな宗教本によれば、古代シリア語で五世紀に書かれた書物の中でアンチキリストの容貌が紹介されており、左目に暗青色の瞳がふたつあると綴られている。いや、違うよな、石井は左右両方に四つも複眼風のものを並べる。そもそも悪魔を髣髴させる顔付きではないのだ。もっと冷めた感じ、硬い印象を受ける。

 近年開発され、軍関係で使用され始めた化け物じみた四眼式の暗視ゴーグルがあるが、あの手の光を増幅する道具かとも考えてみた。太陽光の届かない暗室という設定では有り得る姿だ。しかし、【魔樂】のそれはあまりに小型であって、そんなコンパクトな暗視装置があるなんて聞いたことがない。世の中に本当にあるのだろうかと訝りながら、月日だけが無闇に過ぎた。

 マスクについて石井は最近言うか書くかをしており、どこでだったかは失念してしまったけれど、話の主旨は次の通りであった。【魔樂】においては目出し帽のような覆面で正体を単に隠すだけではなく、一切意思や感情を読み取れないような覆い方をする必要があった。あれは自分の発明である。確かそんな風な発言かと思う。

 知ってみればいろいろと合点がいく。殺人者の厚味のある靴をけたたましく線を連ねて活写し、物憂げな性具には照明のぬるりとした反射を再現して素材や硬度を伝える。物が密度を持って次々に迫り来て、読者をひどく威圧したりするのだけど、反面、石井は黒い全頭マスクについては詳細を描かない。物語の進行上、そのマスク顔をコマのいくつかに割り当てる必要が出てきた時でも、ことさら小さく、読者の視線が滞空することのないように配置した。ハイパーリアリズムの筆さばきを回避することで、ディテールを意図的にすっ飛ばしている。実在しない物であればこそ、あれ以上は細かく描きようがなかったのだ。

 いや、むしろ描くわけにはいかなかったのかもしれない。私たちは石井の劇で目出し帽や仮面が登場すると、その後どのような感情の起伏が周囲の人物に生じるかを学習している。恐怖におののきながらも必死に目を覗き込み、眉の形状やまぶたのたるみ具合に特徴は無いか、虹彩に滲み出す感情の起伏を丹念に探った。わずかの露出に人間のすべてを垣間見ようとした。あの手のまなざしを【魔樂】にて石井は他の登場人物に、そして、私たち読み手にも徹底して封じるべく技巧を凝らしている。【魔樂】という物語の軸芯がそこにこそ在るからだ。

 美術評論家がオディロン・ルドンOdilon Redonの描く目玉の化け物を論じた小文のなかに、こんなくだりがある。

「『見るとはなにか』──それは、いつでも見られることだ。はげしく、新しく見ようとする意識の裏側には、つねに、なにものかによって、たえず外から見つめられている、という恐怖がある。それがなにか、と見きわめようとすればするほど、それは、ますます厖大な不可視的なものに変じておそろしくこちらを見かえす。目に見え、名前をつけられるものは、すでに人間の手の中のおとなしい猫にすぎない。だが、その背後の魔は、どうすればよいのか。見えてくるものは、一切とるに足らぬときめこんだ心が、恐怖におびえ、押しかえすように凝視そのものに化する。こんな、凝視と恐怖とが交錯する地点に、眼玉イマージュが空をにらんでもだえるように浮びあがってくるのだ。」(*2)

 立体感がまるでない、覗き穴ともレンズとも分からない四つ目の生成過程というのは上の評論家の言葉に似た経緯なり深慮が作者の内部にあったものと思われる。石井が創った【魔樂】の主人公がルドンに魅入られていた訳ではないけれど、「見るとはなにか」という自己問答に憑かれた男であるのは間違いなく、それに没頭する余り、見られることに異常な怯えを抱いてしまっている。五円玉ほどの小さな穴越しに、はたまた、でこぼこのレンズ越しに瞳を透かし見られ、驚愕や不安、喜悦といった心情を読み取られることを極度に恐れているのであって、それが造形を歪め、この世にない顔立ちへと発展させたのだ。迷彩服やTシャツ、斧といった実在の物に“観念そのもの”が形を得て継ぎ足されている。

 この異常でアンバランスな外貌は【魔樂】の主題に則した姿だった。「見るとはなにか」に捕縛された男は、おそらく暗がりで今さっき殺めたばかりのおんなをひたすら解体して凝視する、そんな酷い行為に熱中しているに相違ないのだけれど、修羅の光景の只中にある男の頭に去来するのは、かならずしも喜びばかりでないのは劇中彼が繰り返し見る悪夢が能弁に告げている。究極の「見る」ことで得られるはずの幸福が、どうしても実感できない事態である。一体なにを間違えたのか。

 顔の表情、顔色、視線、身振り、手振り、体の姿勢、相手との物理的な距離の置き方といった非言語的コミュニケーションは石井隆のドラマがもっとも得意とするところで、他者から何頭身も抜きん出たところだが、それらは全て「見ること」に集中する時間を物語上約束していた。その上で感情や思考の伝達、意志の疎通と相互理解といったものが萌芽する。「見ること」を起点とする切ないほどの希求と恋情が、画面に満ち満ちていくのが石井の持ち味だろう。

 【魔樂】ではこの約束を(表面上)封印している。部厚いマスクに指先を立て、血だらけにしてそれをようやくこじ開け、細いわずかな隙間から「見るとはなにか」を探し求めてしまい、暴走を始め、男は自己崩壊に至ったのである。視線はいつしか行き場を失い、悲鳴を上げたのだ。それこそが石井が描きたかった【魔樂】の劇が懐中する本音ではなかったか。

 お互いにであれ一方的であれ「見る」という行為を表層に現わすことを禁じられた男の顛末を描いた点で、石井ドラマの主流に対する完全な陰画に位置づけられる。そのように読み解けば何とも哀れで悲しい話と思われてくるのだし、この上もなく石井隆の劇なのだと了解されていく。

(*1): http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_21.html
http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6894.html
http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6221.html
(*2):「グロッタの画家」 東野芳明 美術出版社 1957  引用は1665年再版のものから 「ルドンの眼玉」87頁