2017年8月27日日曜日

“恢復のための殺戮”~【魔奴】と【魔樂】への途(みち)~(7)


 【魔奴】(1978)の終幕、モーテルの管理人室まで招き入れられた「愛」という名の少女に向け、主人公の館主は心の内奥を吐露していく。どうして客を際限なく次々に拷問し、あっという間に殺していくのか。殺意の裏側には何か目的があるのか、それとも単なる快楽殺人なのか。男は独白に近い形で、これまでの経緯をぽつりぽつりと話し始める。

 両親を羽田沖の航空機事故で喪い、追い討ちをかける具合に妻までが喧嘩の果てに転倒し、頭を打って死んでしまう。「一時に愛する全てを失いかけて動転して」しまった男は、「死にゆく妻を抱きつづけながら得も言われぬ快感を味わって」いく。その烈しい感情の奔流を男は、「痺れる」に「(愉)楽」と続ける「痺楽」という造語で表現してみせる。この「痺楽」に取り込まれたが為、「死ぬ迄に悪魔の悦しみを味わい尽くさねばならない」という狂った執念に男は縛られていき、休憩に訪れる客を延々と殺めていく事になったのだ。「なんだってやってみたんだ!やり尽くしたはずなのに見つからない。違う!!これが悦楽かよぉ!違う!」と咆哮を繰り返す男なのだが、望みは詰まるところは一刻も早い「昇天」なのであり、救済を欲する被害者兼加害者という歪な立ち位置にいる。

 出口を手探るものの方角が定まらず、聡明なる案内役も現れず、結局はマグマとなって噴出する激情に身を焦がし、抑制出来ずに周りの者に手をあげて殺傷していく悪循環の狂態なのだが、これは哀悼傷身と共に石井の創作にはよく見られる図式のひとつであって、たとえば映画近作『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)や『甘い鞭』(2013)とも通底している。もちろん「痺楽(まらく)」に犯されて逃げられない男の姿は、後述する【魔樂】(まらく 1986)とも音の響きから一直線に繋がるのであって、石井世界における【魔奴】の重要性がどれ程のものか、その一点だけでも十分納得せられるところだ。

 さて、【魔奴】最終話の直前、重傷を負った男はこれまで回避していたふたつの行動に出る。自刃と“食人行為”を続けざまにして、読者をひどく慌てさせ、不安と不快の黒い淵に突き落とすのだった。

 秘密の小部屋は轟々と炎を吹き上げ、決定的な倒壊まであと数分足らずに見える。男は大怪我を負って出血が酷いのであるが、妻の遺骸へと這いずり抱き締め、何とか交接し、ようようひとつ身になったところで手にしたナイフを振りかざすと一体化した肉を深々と抉(えぐ)っていく。

 石井隆は即物的なポルノグラフィーを描いているように見せかけ、実は皮膚や粘膜、性器といった人の生殖活動に関わる器官が、必ずしも魂の成り立ちと絶対的に結び付いてはいないのではないか、という霊肉の乖離や疑念、どんなに快楽を貪っても、どれほど欲望にもがいても空隙を完全に埋めることが叶わない現代人の寂寥といったものを描線の下に忍び込ませることが時にあって、その意味で実は快感至上主義者ではなく、むしろ諦観が見え隠れする禁欲的な修行者の面持ちを湛えている。妻なのか自身の一部なのか、それともその両方の肉塊なのか明確でないどろどろのものを両手で掲げて口元に寄せる姿というのは、もう扇情とかエロスの対象ではなく次の深刻な領域に踏み入って見える。

 力尽きて遂に逝った男が、安堵の面持ちで妻の身体と重なり倒れ込んだその頭上の天井部分ががらがらと崩れ落ちて、神々しい一条の光がどっと天空より差し込み、一組の男女の愛の末路を照射する。神の不在を徹頭徹尾描きながら、宗教画以外の何ものでもない幕引きを仕掛けて、確かに石井は“救済”を男に与えようと試みている。

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