これまで見知った鬼婆の話というのは、ひたすら殺戮ばかりの寒々しい言い伝えであった。芳年(よしとし)の代表作「奥州安達ヶ原ひとつ家之図」(1885)が真っ先に目に浮かぶし、伊藤彦造(いとうひこぞう)も縄で縛られぐったりした妊婦を前に出刃を研ぐ鬼女の姿を描いていた。世間から隔絶された野中の一軒家で、情け容赦なく凶刃(きょうじん)が振り下ろされる。それも連綿と果てしなく行われ、無数の男女が殺されて腹を裂かれる。あまりに怖そうでしばらく観るのがはばかれた『悪魔のいけにえThe Texas Chain Saw Massacre』(1974 監督ㇳビー・フーパー)という映画があるが、あれと雰囲気はかなり近しい。全く救いようのない話だ。
実を言えば浅草寺の国芳(くによし)の大絵馬より前に、鬼婆を題材にしたやはりこちらも絵馬を近在の神社で見かけている。もちろん比べものにならない小さな額で、また、参拝客の目には止まらない別棟の軒先に掲げられ、ずいぶんと退色が進んでいた。奇妙に感じられたから携帯電話のカメラで撮影してそのままになっていたのだが、データを振り返れば四年前の十二月末の日付が刻まれている。その頃から魚の小骨のようになって呑み込めずにいたのだ。あれと面貌をよく似せた巨大な絵馬を目の当たりにして、再び疑問が渦巻いてくる。こんな酸鼻きわめる絵画が、聖域たる宗教施設に置かれる理由などあるのか。
複数の場面が組み込まれた絵巻形式であり、殺害現場となった一つ家(や)の門前にたたずんで宿を請うらしい旅僧が別個に描かれていた。鬼婆はそちらを醜い横顔を見せてきっと睨んでいるから、旅僧と婆の両者が敵対する存在である事が示唆されている。正と邪の衝突がこれからあるのは必至だ。すなわちこの絵馬は悪魔的な存在と、法力を携えた聖(ひじり)との対決を描いた仏教説話に関わる一端であり、信仰心の厚い人はそれを知っていて絵師に描かせて神社に寄進したのだろう。
薄っすらとその辺の事は了解出来たのだったが、白くて細い首根っこを鬼婆の赤黒くてごつごつした左掌でぎゅうぎゅうに絞めつけられ、苦悶に歪んだおんなの顔は陰惨としか言いようがないのだし、その付近ににじむようになった赤絵具は凶暴な印象を与えて事態の切迫を告げており、旅の僧がいかに功徳を積んで神仏の加護を受けた身といえども、もはや時間切れで手遅れにしか見えない。哀れな被害者を救えるとは、どうあっても思えない。やはり救いようのない話なのだ。
このあたりを解説してくれる素人向けの本はないかと探したところ、あつらえ向きの一冊が見つかった。「鬼女伝承とその民俗 ひとつ家物語の世界」という書名であり、もう二十年以上前の本であるから、今更と笑う人もおるかもしれない。鬼婆伝説に絞り込んで変遷とその背景を、実にていねいに追った内容で面白く読み終えた。図版も豊富で、わたしがかつて出逢った小さな絵馬と左右の向きが逆ながら、ほぼ同じ図柄の掛軸が福島県二本松市の寺に有ることも知った。(*1)
それ自体は付録みたいな発見に過ぎず、なにより興味深かったのは、歳月を追うごとに怪異譚が徐々に風船みたいに膨れていき、仏教の伝来とともに加速度を付けて変貌する様子だった。夕暮れて途方に暮れる旅人の願いに応じて宿を提供し、歓待して熟睡させた後で急襲して命を奪う。身に着けていた金銭を残らずに奪ってしまう老女がいるらしい、という噂話が大昔に出現したのだったが、やがて、手口や凶器、被害者の数がより具体的に、より過大な形容で語られ始める。老女の形相はこの世のものとは思えぬ妖魔同然となり、残虐非道を極めてつぎつぎに旅人が犠牲となる。遂には何百何十人という数までがまことしやかに口に上って、今風に言えば無遠慮に“拡散”していく。
連続殺人の目的はいつしか金銭ではなくなり、大病に効果があると信じられていた胎児の生き胆(ぎも)を狙う人間獲りへとエスカレートする。そもそもの伝承のなかで鬼婆は、石をよいしょと抱き、旅人の熟睡する枕もとでこれを振りかざすのだったが、今ではぎらつく出刃包丁を手にして妊婦を追いかけ回すのだった。腐臭さえ漂ってくるような最悪の景色が“実話”として伝わっていく。
大陸よりもたらされた宗教が根を付け各地に寺院が建立され始めると、荒漠たる野原に墓標のように突き立った伝説の一つ家に旅の僧が訪れるようになり、さらには観世音菩薩の化身である目鼻立ちの整った少年さえ降臨して一夜の宿を乞うのだった。観音の霊力がどれほど強いか、巧妙に世に説く宣教の波に本来の事件が呑み込まれていくのだけど、あれよあれよという間に物語が移ろっていく様にはまったく驚かされる。
化け物となった老女に対抗すべく、超能力者が忽然と姿を現わす。上手にバランスが取れている。展開が無理なく繋がっていくから、こうして本で教わるまではここに至るまで加筆と改ざんの繰り返しがあったとは思いもよらなかったし、宗教勧誘の姑息な息も感じなかった。勧善懲悪の怪談にゆるやかに終着しているのが見事というか、まったく不思議というか何というか。
想像に過ぎないけれど、恐らくは様ざまな人の想いが同じ方角へと突き進んだ結果だろう。無惨に殺されていくおんなたちをどうにか救いたい、そう誰もが願った。現実なのか物語なのかは二の次であって、虐げられた存在を前にして人はひたすら救出を祈るものなのだ。神仏による奇蹟の顕現さえ図らずも求めてしまうのであって、見えない手を導き、地獄図へと懸命に差し出してしまう人間の避けがたい魂の奥底が感じられる。なんだか愛おしくて溜め息が漏れてしまう。
芳年の繊細かつ動きのある絵を眺め、温故知新の建築ツアーで大人の休日をと洒落込んだつもりなのに、結局は関連本を読み進め、いつしか壮大な救済劇に間近で立ち合っているような、わびしさと狂熱が同居した連休になってしまった。
(*1):「鬼女伝承とその民俗―ひとつ家物語の世界」笹間良彦 雄山閣出版 1992
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