2017年5月13日土曜日

"ひとつ家"(1)


 浅草界隈を久方振りに歩いた。百貨店の松屋が無愛想な化粧壁を取り払い、創業時の偉容を復活させたことを今更ながら知り、そういえば隈研吾の浅草文化観光センターもまだ見ていなかった、この際だからしっかり見ておこうと考えた。

 この辺りは一度も生活圏になったことがなくて、計算するとうん十年ぶりの再訪だった。今では到底考えられない質素な社員寮暮らしであったから、それもあって休日には飢餓感が暴れまくって遣り場に困った。情報誌を片手に遠路はるばる昔の吸血鬼映画を観に行き、時にはストリップティーズの窮屈な椅子に座って異次元に浸る小一時間を得た。萎える気持ちに喝を入れるための儀式めいた日々だった。

 当時からぱっとしなかった映画館の群れは、まるで煙のように消え失せていた。けれど、踊り子たちが今夜もたぶん跳ねまわるだろう劇場の入り口には、真新しい花がいくつも飾られ繁盛している気配だ。ちょっと安心した。通りはずいぶんと明るくなり、煙草の脂(やに)臭のとげとげしさ、歩道のあちこちから漂ってくる小便や嘔吐物の重たい臭いなど、あの頃は当然だったものがまるで陰をひそめ、吹く風はふわふわして清潔だった。背広姿が場違いのようで、どうも照れ臭い。

 浅草寺で絵馬展をやっており、なかに月岡芳年(つきおかよしとし)の掛け軸もある事を下調べしていた。芳年は石井隆が私淑(ししゅく)する絵師のひとりであるから、これを見ないでそのまま帰る訳にはいかない。内外の観光客でごった返す参道や本堂からそれた場所に会場はあり、建屋の奥も芋子を洗う状態かしらと怖れたのだったが、若い外国人のアベックが食い入るように鑑賞する背中や、のべつ幕なしに家族や近所の噂話ばかりしている数名の婦人客、それから熱心な美術愛好家らしき背の高い男がのんびり回遊する以外は見当たらず、さっぱりと落ち着いた空気だった。悠々と向き合い、舌鼓を打つ良い時間となった。

 芳年の「楊柳観音」は、講談社の画集(*1)の解説や略年譜にはなぜか書かれていない。もしかしたら真贋見極め付かず、宙ぶらりんなのだろうか。その辺りは私にはよく分からない。芳年にしては動きが乏しく大味な気もするが、まずは拝むように見入った。植物の精霊という連想から来ているのか、手と足の爪がにんにくの芽のごとくにゅるりと伸びて、フレンチネイル風に白く染っているのが玄妙で愉快だ。瞳が怪しい光をたたえて前を見据えており、聖者像なれど人智を越えた荒ぶる力を感じる。

 芳年の大判錦絵「義経記五条橋之図」(明治14年)と瓜二つの狩野一信の大絵馬もあった。ある時期の絵画というのは交錯するものがあって、観る者を混乱させることがある。今のように瞬時に世界の裏側にまで画像や映像を行き渡らせる術はもとよりなく、印刷する手段はあっても紙や染料自体が高価であって誰もが無理なく手にできなかった時代だから、模写も一種のジャンルとして認められ、力量ある再現者は世間でもてはやされたのだろう。筆力ある絵師が躊躇うことなく、先達の作品の構図と動きを丁寧に写し取っている。優れた美術品の写し絵とそれを遠隔地に運んでの開陳は表現上の大切な役割を負っていたのであって、営利や名誉とは別の領域の、伝達者、供給者としての自覚なり使命に突き動かされていたに違いない。西洋においても完成された絵画というのは、それに惚れた後人の手で繰り返し再生されている。過去作の流用は絵画界においては常識であって、厳格な今のオリジナル絶対主義の風潮はやや実状と乖離しているのだし、実際あまり出自にこだわり過ぎると肝心の主題を見逃すことになる。

 会場でひときわ目を引き、また、今回の拝観で楽しみにしていたもう一点が歌川国芳(うたがわくによし)の絵馬「一ツ家」であった。予想以上に大きくて度肝を抜かれる。日頃漫然と眺める街路や幹線道路に掲げられたアクリル看板があるが、あれを地上に下ろしてみればどんな小型のものでも大人の背丈ほどもある。あれと同じ理屈であって、絵馬たちが往時掲げられた御堂の場所、大概はずっと頭上の梁のあたり、を想像すれば合点がいく話なのだけれど、こうしてほぼ目線の位置に置かれたものはやはりと途轍もなく大きく、当然ながら、描かれた鬼婆が生々しく視界に広がって観る者を圧倒する。爛々と目を光らせ牙剥く表情、出刃包丁を持つ筋肉の張り、皺くちゃの皮膚などが見てとれ、とんでもない怪物と路地で出くわした気持ちになる。

 むなしくも抵抗を試みるのか、それとも親娘の関係から必死に押しとどめようとするのか、右側で膝ついて抱き着いている若い娘の真顔もなんとも哀れであって、次に起こるだろう惨状が頭に浮かんで怖くなる。これを暗いお堂にて親に背負われて見た幼子は、どんなに恐怖し、また、陶然とした事だろう。

 関東以北の地では、雪による重みから大型建造物がなかなかその巨体を維持し切れない事情もあり、寺社のスケールは一部を除いて小型化している。収まる仏像も絵馬も総じて小ぶりであるから、それ等を見慣れてきた自分にはこれまでの概念を払拭する陳列品だった。成田山新勝寺の一角にも絵馬を展示する建物があり、そちらも過日覗いているけれど、こんなに大きなものは無かったように記憶している。首都圏の真ん中に位置し、強力な商人が日ごと仏参する大寺院、その底力を見せつけられた思いだ。

 それにしても頭を傾げてしまうのは、本来絵馬というものは願掛けの一種であり、仏法なり説話を題材にしたものが描かれて当然と思うのだが、こんな陰惨な殺人事件の現場と残忍酷薄な加害者を大きく取り上げているのは一体全体なぜであろう。

(*1):「月岡芳年画集」 編者 瀬木慎一 講談社 1978 

0 件のコメント:

コメントを投稿