評論家の権藤晋(ごんどうすすむ)は石井隆監督作品『フィギュアなあなた』(2013)の公開と前後して、「切れ切れの感想」と題する小文を発表している。創作初期から絶えず見守り、良き読み手、良き紹介者としてある権藤なのだが、ここでは視点を奥の奥へとぐっと移して、劇の“背景”に言及しているのはさすがである。石井の劇がとことん「思想」に基づくものと権藤は解し、それは台詞や行動のみならず背景さえ支配すると綴っている。
「名美は虚構のなかでその実存を試みる。」「廃工場や廃屋に佇む名美は、時代性、あるいは歴史性を刻印していたのだ。(中略)高度資本主義以前の風景を自らの内部に引きずりながら、高度資本主義の現在の過程で苦闘したと言い換えることも可能だろう。名美の官能性は、そうした社会性に囲まれている。」「加藤泰の美意識が思想から構築されたように、石井のネオンサインも思想から構築された結果である。なぜ廃屋が、廃病院が、廃ビルが登場するのかは、もうほとんどが石井の美意識=思想に裏付けられている。」(*1)
石井の背景で雨を語る者は多いが、多弁なのはそれに限らない。同等の使命を帯びて豊かな風景がパノラマ状に広がっている。上述の権藤のように、まだまだ想いを馳せてよい絵ばかりであるのだし、石井隆の作家性を語る際にはそこへの踏み込みが不可欠と思える。
めくるめく人の意識を風景に換えて再配置した【おんなの街 赤い眩暈】(1980)を下敷きにして、石井は『フィギュアなあなた』へと進化させたのだったが、その際、恋情の対象を生身のおんなではなく廃棄され山積みされた古いマネキン人形に選んだことは、考えてみれば背景と前景の境界をいよいよ怪しくしているのであって、石井隆がイーゼルの位置をざくざくと前進させ、自身の作劇手法を赤裸々により強硬に展開して見せたという解釈も可能だ。
石井世界とはつくづく深遠で、とんでもない風景画と思われる。
(*1):権藤晋「石井隆の映画にふれて 切れ切れの感想」 「幻燈 13」(北冬書房 2013)所載 214頁
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