【おんなの街 赤い暴行】(1980)については少し前に書いている。(*1) 重複なるから詳しく触れるつもりはないが、劇中に描かれた崖をめぐって話をさらに進める上で、ざっと物語の輪郭を紹介するのが親切というものだろう。自死するおんなの話だ。妻子ある男との仲に疲れたおんなが薬を大量に呑み、故郷の鬱蒼とした森をさ迷い歩く。足がだんだんにもつれて、遂に歩けなくなって木の根元にへたり込んでしまう。そこは切り立った崖の縁(ふち)で、視線を横にやると同じように樹林を冠状にそなえた白い崖が目に止まり、そちらの崖の中腹には例の黒い横穴が開いているのだった。よくよく見れば穴に横たわる人影があって、おんなはそれがもう一人の自分と直観する。ふたりの名美は視線を交わし、物狂おしい時間を重ねて行く。
劇の舞台となった崖はもしかしたらアルファベットのC、もしくはLの字のように湾曲していたかもしれず、ふたつと見えたのは間違いで最初から地続きの一体ものであったのだろうか。それならばそれで良いのだけれど、自作の背景描写に極端な写実を課していた当時の石井であるならば、CまたはL字の崖がこの世に実在するのが自然のように感じられる。ところが「佳景2」(それは「佳景1」も同様なのだが)に写されている崖は、ほぼ直線状に左右に展開しており、互いを視認し合える程も近い距離にて向き合ったり直角に接合するさらなる崖は見当たらない。
この辺りは海沿いの平地ゆえ、川はうねうねと蛇行を連ねる。川筋の外側と内側では流速が変化し、浸食と堆積の不均等な現象が起きるから、片方に崖があれば反対側はなだらかな砂や石の堤となるのが自然であって、鏡像のように向き合った均質の崖は造られないのが道理なのだ。もし有ったとしても、中洲も含めた川底は二十メートル程も幅が生まれているから、それぞれに人が立ったとして相手の表情を探るのは到底難しい。やっぱりこの白い崖はひとつしか存在していないのだ、と、鈍感な私もさすがに了解した。石井は“無いもの”を描いている、いや、有るものを“二重にして”紙面に植えつけている。
【赤い暴行】とは、ひとが生から死へ渡河する瞬間を描いた作品であり、その時主人公はもうひとりの自分自身を目撃するという点において一種のドッペルゲンガー譚であるのだが、特筆すべきは人物といっしょに「風景」である“崖”もまた分裂している点だろう。【赤い暴行】をよく読み込めば異常な展開であるのは一目瞭然なのだけど、薬で朦朧とするおんなの意識に没入する余り、その事を迂闊にも見逃していた。
「風景」が人物にまとわりつき、人物の分裂(ドッペルゲンガー)にしたがい「風景」もまた分裂して寄り添いつづけるというのは、これはまるで見たり聞いたりした事がない【赤い暴行】にほぼ限定した現象であるのだし、ここを基点として映画近作もふくめて石井世界を振り返れば通底する場面が幾つか立ち上がってくるように思う。石井隆の「風景」とは何か、彼の描こうとする世界の規則性が鮮明になっていく。
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