2016年11月23日水曜日
“ドッペルゲンガー”(3)
【おんなの街 赤い暴行】(1980)で起きた奇妙な“風景”の分裂。これに似た描写が過去の小説や映像にあったものかどうか。関連書籍(*1)の頁をめくり、古い映画もいくつか引っ張り出して眺めたけれど、読めば読むほど、見れば見るほど石井の【赤い暴行】は異趣奇観、突き抜けていると思う。
「ドッペルゲンガー文学考」と銘打たれたその本のなかに、『ゴジラ』(1954)の原作者として知られる香山滋(かやましげる)の言を借りた箇所がある。香山は怪奇小説を三通りに分類して、自身の作品は(A)に当たると書く。「その一は、怪奇なる存在が、実在のそれらに交って行動する点を主眼とするもの(A) その二は、一見怪奇に見えて、実は合理的に説明付けの出来るもの(B) その三は、故意に怪奇性だけを主張するもの(C) 」(*2)
ドッペルゲンガー譚は(A)と(B)の間を行きつ戻りつするが、ほとんどは(A)の範疇にておどろおどしく描かれる。最初にある「怪奇なる存在が、実在のそれらに交って行動する」の“実在”とは、劇中の一般人を通常指すのだが、もう少しだけ解釈に幅を持たせれば、小説世界で構築なった町なり社会、環境であって、そこに異質の者が侵入したという意味合いだろう。物語の土俵はあくまでもこちら側に在るのだし、仮に「怪奇なる存在」の摩訶不思議な故郷が劇中で覗かれたとしても、観念的に両者は地続きである。ドッペルゲンガー、日本では分身とか影法師と呼ばれるものが描かれる場合も、大概において舞台である「風景」は唯ひとつであって、そこでドラマはのたうっていく。
石井隆の分身劇はどこか姿勢が違う。『甘い鞭』(2013)の終幕、極限状態に置かれたおんなが人を殺め、血みどろの体で魔窟をとぼとぼと歩む目線の先に、おのれの分身が忽然と現われるのだったが、それが実在の舞台、ここではSMクラブのプレイルームに入り交じって現われるのではなく、屏風のごとく「自身の風景」を背後に従えている点が特異で面白い。
私たちは『甘い鞭』のこの場面を前にして、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の幕引きを即座に思い出す。忌まわしき記憶の虜囚となったおんなが精神病院の回廊を幽鬼となって彷徨うのだったが、そこで被験者用に設けられた寝室が突如現われて度肝を抜くのだった。確かに顔付きはあれと似る。しかしながら、『甘い鞭』のそれは合理性が跡形もなく吹き飛び、闇路より無言で湧き出している。癒着した胞衣(えな)さながらおんなの後ろに広がって、ひたすら怖ろしい。
分身ドッペルゲンガーが心神に関わる現象と捉える石井は、ならば姿かたちだけでなく、風景を従えて出現するのが至極自然とどうやら捉えている。さらにこの事は原作小説をなぞっただけに見える『甘い鞭』という劇のコアが、実は三十年以上の歳月をまたいで【赤い暴行】と完全に連結しており、石井世界の伽藍に隙間なく組み込まれる点を示している。私たち人間を石井は、風景に縫いつけられた存在、風景を纏った者としてずっとずっと見ている。
それと、これも“通常の”ドッペルゲンガー譚であれば特徴的と言えるだろうが、分身とか影法師が衣服なり装身具を真似する点があって、ポーの「ウイリアム・ウイルソン」でも服装の模倣が繰り返し述べられてあったのだし(*3)、ドッペルゲンガーを題材にした映画にしてもそれは同様だ。「ウイリアム」を原作にした一篇(*4)にしても、ドイツの古典『プラーグの大学生』(1913)(*5)にしてもそうだし、黒沢清の『ドッペルゲンガー』(2003)だって言われてみれば分身の格好は執拗に実像のそれをなぞる。
これに対して石井作品はどうであるかを見ていくと、妖しげな独自の符号が見つかる。すなわち石井の劇中においてドッペルゲンガー的な分裂が始まると、そこで決まって人物は脱衣をするのであって、まったくこの点も奇怪なことと言わねばならない。
横穴の奥に瀕死で横たわっていた【赤い暴行】のおんなは、奪衣婆(だつえば)よろしく到着した追い剥ぎに衣服のすべて、下着の果てまでを奪われ素っ裸になるのだけど、これに合わせて実在のおんなもいつの間にか一糸まとわぬ姿で背後の幹に寄り掛かっている。『甘い鞭』にて対峙する実像と分身のおんな二人もそうであり、ほんのわずかの衣しか着けぬ半裸のさまで「風景」のなかによろよろと消えていく。
『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)もまたドッペルゲンガー譚と似た面持ちだった。ここで言うドッペルゲンガーとは分身とか影法師の意味でなく、“離魂病”と記した方がしっくりするだろうか。自分という存在を抹殺したいと願うおんなと、つらい記憶を背負って自分を失った男が出会ってしまう話だ。舞台背景となる男の部屋、書棚の本がすべて後ろ向きに、背を奥にして小口を手前に晒して並べられた寂然たる住まいであったり、おんなが際限なく逃げ込む精神世界にしてもそうで、荒涼として深い陰影を帯びたものが劇の大半を縦断していた。人格を分裂させていくおんなが巨大な「風景」、地下の洞窟を従えて素裸で夢中遊行する姿の神寂しさが際立っていた。
こうして視ていくと石井隆の「風景」とは登場人物と驚くほど密着したものであり、ときに魂の諸相と完全に同調してしまう。そうなると衣服以上の密着度を「風景」が手に入れるがゆえに、今度は衣服こそが異物となって排除対象とさえなるのだ。背後に控えた「風景」を切り除けて石井世界を語ることが、いかに危ういかが読み解ける。(*6)
漫画や映画において起承転結の語り口ばかりが重んじられる傾向が強いが、石井作品は絵画空間にも似て、「風景」と人物、背景と物語は分離し得ないし、両者をふくめて語らない作家論は空振りに終わる怖さが潜んでいる。
(*1):「20世紀日本怪異文学誌―ドッペルゲンガー文学考」 山下武 有楽出版社 2003
(*2): 同 93頁 引用元は「『怪奇性』の取扱について」、「鬼」(昭和27年3月)所載とある。
(*3):「エドガー・アラン・ポー短篇集」西崎憲 翻訳 ちくま文庫2007 「わたしの服に関しては真似するのは簡単だった。」(206頁)「男はわたしと同じような白いカシミヤのゆったりした斜め裾の服(モーニングフロック)を着ていたが、それはわたしがその時着ていたものと同じで、流行の裁断が施されていた。」(214頁)「予期していたようにかれはわたしとまったく同じ出で立ちをしていた。青いヴェルヴェットのスペイン風のマントを着て、腰には真紅の帯を巻き、そこに長剣(レーピア)を佩いていた。」(227-228頁)
(*4): 『世にも怪奇な物語』 Histoires extraordinaires William Wilson 監督ルイ・マル 1967
(*5): DER STUDENT VON PRAG 監督ステラン・リュエ 1913
(*6):この理屈をどこまでも延ばせば、衣服を脱ぎ棄てて真向かう私たちの夜の棲み処と愛の営みもまた‟風景”、ということになる。なんだか吉行淳之介あたりが書く内容のようであり、実際石井はそこまで明確に自作の風景に言及をしていないのだけど、少なくとも石井の作劇にとって舞台と気象、人物は同等の比重を持って描かれているのは間違いない。
“ドッペルゲンガー”(2)
【おんなの街 赤い暴行】(1980)については少し前に書いている。(*1) 重複なるから詳しく触れるつもりはないが、劇中に描かれた崖をめぐって話をさらに進める上で、ざっと物語の輪郭を紹介するのが親切というものだろう。自死するおんなの話だ。妻子ある男との仲に疲れたおんなが薬を大量に呑み、故郷の鬱蒼とした森をさ迷い歩く。足がだんだんにもつれて、遂に歩けなくなって木の根元にへたり込んでしまう。そこは切り立った崖の縁(ふち)で、視線を横にやると同じように樹林を冠状にそなえた白い崖が目に止まり、そちらの崖の中腹には例の黒い横穴が開いているのだった。よくよく見れば穴に横たわる人影があって、おんなはそれがもう一人の自分と直観する。ふたりの名美は視線を交わし、物狂おしい時間を重ねて行く。
劇の舞台となった崖はもしかしたらアルファベットのC、もしくはLの字のように湾曲していたかもしれず、ふたつと見えたのは間違いで最初から地続きの一体ものであったのだろうか。それならばそれで良いのだけれど、自作の背景描写に極端な写実を課していた当時の石井であるならば、CまたはL字の崖がこの世に実在するのが自然のように感じられる。ところが「佳景2」(それは「佳景1」も同様なのだが)に写されている崖は、ほぼ直線状に左右に展開しており、互いを視認し合える程も近い距離にて向き合ったり直角に接合するさらなる崖は見当たらない。
この辺りは海沿いの平地ゆえ、川はうねうねと蛇行を連ねる。川筋の外側と内側では流速が変化し、浸食と堆積の不均等な現象が起きるから、片方に崖があれば反対側はなだらかな砂や石の堤となるのが自然であって、鏡像のように向き合った均質の崖は造られないのが道理なのだ。もし有ったとしても、中洲も含めた川底は二十メートル程も幅が生まれているから、それぞれに人が立ったとして相手の表情を探るのは到底難しい。やっぱりこの白い崖はひとつしか存在していないのだ、と、鈍感な私もさすがに了解した。石井は“無いもの”を描いている、いや、有るものを“二重にして”紙面に植えつけている。
【赤い暴行】とは、ひとが生から死へ渡河する瞬間を描いた作品であり、その時主人公はもうひとりの自分自身を目撃するという点において一種のドッペルゲンガー譚であるのだが、特筆すべきは人物といっしょに「風景」である“崖”もまた分裂している点だろう。【赤い暴行】をよく読み込めば異常な展開であるのは一目瞭然なのだけど、薬で朦朧とするおんなの意識に没入する余り、その事を迂闊にも見逃していた。
「風景」が人物にまとわりつき、人物の分裂(ドッペルゲンガー)にしたがい「風景」もまた分裂して寄り添いつづけるというのは、これはまるで見たり聞いたりした事がない【赤い暴行】にほぼ限定した現象であるのだし、ここを基点として映画近作もふくめて石井世界を振り返れば通底する場面が幾つか立ち上がってくるように思う。石井隆の「風景」とは何か、彼の描こうとする世界の規則性が鮮明になっていく。
“ドッペルゲンガー”(1)
「佳景2」と題した場処は、石井隆の劇画作品【おんなの街 赤い暴行】(1980)にて背景素材となった崖である。これに絡めるかたちで“石井作品の風景”について思うところを綴ろうと思う。
崖の中腹にはもともと小ぶりの洞(ほら)が穿たれてあったのだが、今は灰色のレンガ状の物で塞がれていて、目を凝らしてようやくその位置が判るそんな状態にある。「佳景1」と題した画像数葉は同一地点ではないのだけれど、生成の過程なり年代はかなり近しいと想像されるから、往年の崖と横穴の様子はこんな具合だったと考えても構うまい。
ほぼ垂直の十メートル程度の崖の途中、地上から二メートルから三メートルの位置に穴が開けられていて、土の成分によるのか、それとも軟らかい土質が根を下ろすのを阻むのか、雑草で覆い尽くされずに白い崖の大部分が剥き出しとなっている。
黒い穴はいわゆる横穴墓(おうけつぼ、よこあなぼ)と呼ばれる古人の埋葬痕であり、丘陵や山裾などのやわらかい傾斜部を掘って造られるのが一般的であるけれど、「佳景1」と「佳景2」は共に川原に面して在るのが珍しい。わたしは学者でも何でもないが、雰囲気に惹かれて古い墓所や寺社を時おり訪ねるのを趣味としていて、これまで幾箇所か横穴墓群を覗いている。近くを川が流れている事はあっても、ここまで近い距離に水面があるのは知らないし、大概は地上から数十センチ、あっても一メートル近辺に穴が掘られている。その後、二段三段とその穴の上方の斜面を利用して次の穴が造られ、やがて蜂の巣状になることはあっても、こういう大人の手も届かぬ高所にぽつねんと穴がひとつだけ、もしくは一列に掘られていくことはまず見ない。
この奇観が産み落とされたのは川に面すればこそ、と考えている。台風や長雨、もしかしたら津波による海水の溯上といった水位の上昇なり氾濫を配慮して、穴の位置は背丈より高い位置に決められたのではなかったか。そう思えば素直に合点がいく。石井世界と現実世界の接点をもとめて足を運んだのは違いないが、それ以上に見ることの愉悦を味わう時間となった。
さて、「佳景1」と「佳景2」を目の前にすると、だから目前に青い川面が広がるか、それとも背後にせせらぎを聴くことになる。ここで三途の川だ、アケローン川 Acheronだ、と甘い連想に浸りたい訳ではなくって、そのような現実の地に立ちながらにわかに違和感を覚えるところがあって、そわそわと落ち着かなく周辺を見渡した。
手元に持参した単行本「おんなの街」をめくりながら、実際の景色を比較する。おおよそ石井が撮影をした場所も特定できたのだけれど、そのカメラ視点は劇中この奇妙な崖にさまよい至った名美というおんなのそれと重なっていた。そのおんなは穴の開いた正面の崖とは別のそれの縁(ふち)に座っているという設定であった。
もう一方にそびえる別の崖が、だから近くに在るはずなのにどうした事か見当たらない。石井が劇画作品と取り組む際には、最初に綿密な取材撮影が実行される点は以前書いた通りだ。(*1)勝手な思い込みと言われればそれまでだが、てっきり作品中の対峙する双子の崖が実在すると信じていたから、虚を衝かれてしばし言葉を無くし、角の取れた石で覆われた中洲に独りたたずんだ。
(*1): http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/03/blog-post_6894.html
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