2014年9月18日木曜日

“参列”


 上りかまちに腰をおろし、革靴の汚れをぬぐう。療養の甲斐なく知人が逝き、これから弔いの輪に加わらねばならぬ。つき合いはかれこれ二十年にもなるだろうか。腰掛けて細い足をひょいと組み、半身斜めにした姿が瞳によみがえる。歯を出して快活に笑う様子が懐かしい。つま先に靴墨をのばしながら、彼とのやりとりを思い返した。無理をたくさん聞いてもらったし、合間に交わす世間話もこころ和ませる時間だった。

 それにしても葬儀のための身づくろいというのは、実に厭なものだ。黒服が婚礼の場でも使われる慣習もあって、その辺りの記憶が蘇っていくにつれ気持ちがじぐざぐになる。等身大の自分とはやや違った、嘘くさいモノにすり替わっていく醒めた感じが付きまとう。

 霊前に供える紙幣には折り目をつけて袋つめするのに、礼服は汚れのないように徹底して気を遣うのはなぜか。不意討ちをされた驚きなり悲しさを体現するのが葬儀の場であるなら、あえて靴先は汚れたまま駆けつけるべきでないのか。背中には糸くずの一本ぐらい踊っていた方が自然ではないのか。いやいや、そうではない、互いに気配をころし、会場の闇に溶け込み、そうして遺影と遺族を静かに囲めばよいのであって、各人のこころ模様は二の次だ。そつのない身ごなしこそが参列者の務めだろう。──湿度や速度の異なる感情が、首の後ろあたりでふわふわと漂う。

 そういえば石井隆の劇において慶弔の席が描かれることは稀有であり、あれは一体全体何故だろうと首をひねる。死に至る瞬間や遺骸をあれほど丹念に描きながら、それを弔う場面を入れないのは石井作劇のひとつの特徴と言える。たとえば『夜がまた来る』(1994)で暴力組織への潜入捜査がばれて葬られた永島敏行は、雨降る埠頭にようよう身体を引き上げられると、次の場面には小さな骨箱へと成り果てて自宅アパートの壁際の棚に置かれてしまう。

 斎場や寺、献花や弔辞、それに家族や友人といったものが一切無いような唐突で大きな跳躍がある。承知の通り『GONIN』(1995)の終幕にもこの跳躍はそっくり再現され、ターミナル地下で殺された佐藤浩市はその後の葬儀や荼毘の様子がものの見事に割愛されているのだった。幕引き間際になってから長距離バスの座席に骨箱となって現れ、命脈の尽きる様子は駆け足でもって締めくくられる。
 
 祝い事についても同じ傾向は読み取れるのであって、年ごろの女性が数多く描かれながら実際に花嫁衣裳を目撃することは皆無に等しい。劇画の掌編【愛の景色】(1987)にかろうじて披露宴の様子が描かれているが、頁の大半は着付けをされていく花嫁がこれまでの恋愛遍歴を長々と回想する内容であるのだし、いざ宴席のただ中に歩み入れば出席者も新郎も表情は硬く、抑制された描画にとどまっている。

 式典の仔細を巧みに回避する石井の真情については知る由もないが、衣服の柄や素材、背後にある家具や装飾に至るまでを徹底してコントロールする事を自らに課した劇画作品群の、呆然とさせられる緻密な描写をここで思い返すならば、会場に群れなす者それぞれの表情や言葉、仕草といったものを彼らの勝手気ままに任せること自体がまず生理的にきびしいのかもしれぬ。

 人影で埋まるパーティーや闇のオークション会場が『花と蛇』(2004)や『花と蛇2 パリ/静子』(2005)において出てくるが、仮面を装着させてみたり、照明をぐっと落として表情や言葉を奪っていくのはそういう深慮が働いたからではなかったか。頭数を可能なかぎり削ぎ落とし、彼ら選ばれし人間に濃厚な魂を吹き込もうとする。石井の創る舞台でモブシーンは、根幹を成すことはない。赤裸々な想いなり表情を刻印する作業を、さながら白兵戦のごとく、物狂おしく重ねていく。

 いや、待てよ、『GONIN  サーガ』(2015)ではエキストラまで動員されて撮影が行なわれたと聞いた。目的はライブシーンと共に“結婚披露宴”を撮るためと言うのだから、これは一体全体どう捉えたら良いのか。よもや仮面付きの披露宴、ということはあるまい。なんてことだ。

 私だけでなく石井世界を凝視し続けた者にとっては、もうそれだけで十分に鳥肌の立ってしまう話だ。旧作の『GONIN』ではディスコでの群舞があり、レストランで飲食に興じる人の遠いざわめきがあったが、石井世界を俯瞰するとあのような人の群れ集う様子を描くこと自体が尋常ではなく、相当の冒険や混沌であり、熱狂と呼べるだろう。石井はあの19年前の“活劇”の世界観を踏襲すべく確かに動いており、加えてこれまでは回避していた“式典”を正面から撮り込もうとしている。決意や覚悟は相当のものだとそれだけでも知れるところであって、現場で発生している武者震いの波動はこちらをも揺すっていく。
  
 うしろの方の席で背中を丸め、そんな事をうっすらと思う。気持ちを外へ向けて飛ばさないと大泣きしてしまいそうだ。故人の若さとその突然の別れに誰もがひどく動揺している。補助椅子まで出された満員の会場は静まりかえり、嗚咽に染まった哀しい弔辞が続いていた。目をくりくりさせる遺影の笑顔がこころに沁みて、忘れられない式になってしまった。
 





2014年9月5日金曜日

“弔文”~『天使のはらわた 赤い教室』を巡って[12]~



 曽根中生監督が逝った。1970年代に日活ロマンポルノの一翼を担い「天使のはらわた 赤い教室」「博多っ子純情」など忘れえぬ佳作を残した映画作家だった。────こんな書き出しで始まる弔文が新聞の文化面を飾った。(*1)それが読売や朝日といった大衆紙ではなく、経済紙であったことが静かにそして明確に物語る点がある。客を呼び込める職業監督として、曽根の名が日本列島にあまねく浸透したことの証しだろう。

 五十過ぎから半ばとなって組織なり商売の心棒と化した男たちにとって、“ソネチュウセイ”という響きは風圧のある映像を即座に憶い出させ、それを脳裏に再生させてたゆたう時間は嬉しい白昼夢だった。職場や休憩室で同僚の視線を気にしつつ新聞を畳む手をそっと止め、老眼で霞む先の小さな記事を舐めるように読んだひとはきっと多かったに違いない。

 訃報に接した彼らの緊張の具合なり胸の内を駆ける風音を想像すると、わたしの気持ちは徐々に湿り気を帯び、やがて落ち葉の歩道に貼り着くような重さになった。やはり反省するところがあって、どうしても思いは下降していく。もちろん拙文が曽根の目に留まったとは到底思えないのだが、不味いことをしでかした気はする。

 上の記事の執筆者は『天使のはらわた 赤い教室』(1979)について、「ニヒルと熱狂が理想的に結びつき、純粋なメロドラマまで昇華した傑作だった」と綴っている。ああ、例によって、また“傑作”と書かれている。本当にそう捉えても良いのかどうか、石井隆が書いた脚本の第一稿と第二稿、および石井の展開する独自の世界観にがっちり視座をすえ咀嚼を重ねた上での思いの丈を、ここで長々と語ってしまった訳なのだが、結局のところ私の中では綱引きは終わらないままだ。少なくとも石井世界にとって映画『赤い教室』は傑作とは言い得ず、微妙で悩ましい立ち位置にこれからも在り続けると捉えている。

 ただ、こうして曽根が倒れて息をひきとってしまうと、素人の癖に不躾な事を並べてしまったようにも思われ、ひどく後ろめたいような、黒く濁った感情が湧いてしまうのが嘘のないところだ。特に曽根が映画界から離脱して後、そのまま消沈することなく事業に邁進していた様子が透けて見えてしまったから、自然と言葉選びは慎重になる。養殖にしても新燃料の製造にしても、実に地味で根気を要する商いだ。苦労もさぞ多かったことだろう。同時代の併走者、生活者という認識が急に濃くなった。


 限られた生の只中で、世に傑作と呼ばれる何かを産み落すことは至難の技だ。運命的で稀有なものと捉えるし、それを手にした人の旅路は理想的で羨ましく思う。誰でも、何でも良いから傑作をその手に抱き、そうして最期の眠りにつくことが望ましいと信じるから、曽根への手向けとしてこの瞬間につぎつぎに花ひらいていく『赤い教室』への賛辞につき、これはこれで今は許せるような軟らかい心もちになっている。書きたい人は書いて良い。人それぞれに尺度は違って当然だ。

 これからしばらくの間、彼を悼み、作品についての随想がいくつも目に触れるはずだ。脚本家石井の名と、村木や名美の姿が合わせて紙面に踊り、私たち中年男や若い世代の網膜に秘かに刻まれていき、そうして、新作『GONINサーガ』(2015)の弾みなり評価の厚みに繋がっていくなら、それもまた大事なことだし素敵なこと。此岸と彼岸とを跨ぐエールとなって、遺された者を援けてもらいたいと願う。

 あんなに無神経な事を次々に書いておきながら、今ごろになって手をあわせている。そちらの景色は穏やかですか、どんな風が吹いていますか。色彩は豊かですか、それとも墨絵のようですか。
どうか安らかにお眠りください。


(*1):日本経済新聞 2014年8月29日 文化面 「文化往来 ニヒルと熱狂の同居、曽根中生監督死去」