2012年4月15日日曜日

“その夜は忘れない”

 


 私の住まう町は列島の東に位置しており、大したものもない代わり恥じ入らねばならぬものもない。むしろ都市化が遅れて未開拓となった自然なり、灌漑用に斜面を駆け下りていく水の流れを内心誇らしく思うところがあった。都会暮らしの友人が訪ね来た際には、点々と残る茅葺(かやぶき)民家を野趣あふれる掛け軸のように見せて歩き、目前に迫る樹林を金屏風に見立てて楽しんでもらい、相応に相手も喜んでくれたものだった。

 昨年のあの事故以来、こうはいかない。悔しいかな航空機による測定図でも、また、火山学の専門家の作成した資料においてもそうなのだが、薄っすらと色付けされた区域に町は含まれてしまった。風景はたちまち精彩を失って感ぜられ、どうかすると山の木立が獄舎の黒い鉄格子にさえ見え始める。自由をとことん奪って蛇の生殺しを決め込む鬼のような典獄(てんごく)が四方八方から見下ろすようにも感じて、やり場のない怨憎(おんぞう)が湧いて仕方がない。もはや豊潤とも呼べず、清澄かどうかもなにやら疑わしい山河である。事態の真の顔はきっとこの先、目に見える悲劇や苦難となって波状的に現われ、身近な社会と生活を脅かし続けると臆病な私は考えていて、心底怯えて暮らしている。

 そのような沈鬱な日常にあるのだけれど、反面、新たな境地に手が届いたような、ひとり頷いてしまう瞬間もあるのが有り難く感じてもいる。仕事柄世界を駆け回ることもなく狭隘(きょうあい)なこの土地とそこで成り立つ閉鎖的な社会で淡々と生きてきた自分にとって、事故がもたらした心境の変化は大きく、まったく自分でも驚かされる毎日だ。私に限らず多くの人にあったはずの変化(覚醒と呼んでもいい)のひとつは、“距離感の組み換え”であろう。普段は隣町の出来事すら見当が付かず、また気にもせず、2キロメートルも歩けば随分遠くまで来たものだと汗をぬぐったものだけど、津波を筆頭とする震災の諸相は私たちの距離感をまるで変えてしまった。

 被災した現場に足を運んでみると、海辺とは到底呼べぬ内陸部にレジャーボートや漁具が転がっていたりして、私たちの内部にあった尺度がまるで役立たないことを思い知らされる。黒く巨大な波は疲労を知らぬ飢えた群狼のごとく、車の数倍も速く駆け廻って家屋を押し流し、人を容赦なく喰らい続けたし、忌まわしき雲は楽々と河川と山稜を乗り越え、外来語だらけの猛毒の粉塵で大地を侵したのだった。一方、子を思う母親は鞄ひとつの軽装で小さな掌を懸命に引っ張り、鉄路や空路を接(つ)いで雲の襲来から逃れた。したがう子供たちも唇を噛み、小さな胸を痛めながらもそれによく耐えて、これまでになかった大跳躍を成し遂げた。押し寄せる物、逃げる者の双方がこれまで積み上げてきた距離感を完全に覆して、東日本の人のこころを作る常識の網に裂け目を入れた。

 距離以外にも意識の変化があって、これまでは回避していた場所や事柄について自然と歩み寄るところがあるから、ほんとうに人のこころは不思議と思うのだった。これから一本の映画に触れようと思うが、題名は『その夜(よ)は忘れない』といい、監督は吉村公三郎(よしむらこうざぶろう)で1962年9月に公開された作品である。最近DVDを入手して観たばかりなのだが、実は震災前には気乗りしないところがあって長らく宙ぶらりんとなっていた。

 主役は若尾文子である。何年も前になるが、最初にそのスチール写真を見つけて強く惹かれたのだった。直ぐに石井の劇画【赤い眩暈】(1980)の冒頭のおんなの顔が目に浮かび、両者は確かに繋がっているように感じた。石井の劇画には映画のスチール写真をそっと忍び込ませて、劇画空間に映画のダイナミズムと俳優たちの感情のうねりを移植しようとする試み(*1)が観止められ、間違いなくそれの一つに思えたし、若尾文子は石井の口から幾度も語られる銀幕のミューズのひとりでもある。確率的には高い話と思えた。

 けれど、検索して調べれば『その夜は忘れない』とは、広島の過去を題材とした話である。米軍による原子爆弾投下の事実はどうにも重く、また、映画を生業(なりわい)としない私の作品観賞の姿勢はどこまでも甘いのであって、私はこれを意識的に避け続けた。実際に探し出して観ることに腰が引けてしまったのだった。惨禍を目撃した年輩の知人から話を聞いたこともある。その時は胸痛め、身を乗り出して聞いたのだったが、今にして見れば他人事の域を越えはしなかった。若尾のスチールが本当に石井の描く名美の下地になっていたかの検証も、だから何となく向うに追いやってしまい、気にはしつつも遠巻きにして過ごしたのだった。

 そんな時にあの地震であり爆発である。あれから一年を経て潜在する脅威をすこしだけ冷静に意識し身構えるだけの余裕と、我が事と観念する気持ちのようよう固まったこともあり、距離の尺度は縮まって列島の西に位置し、海に面したふたつの街が今ではとても近い。本当に、そこに生きる人たちの日常の姿にどれだけ勇気付けられるかわからない。もっと近寄りたいとも願うし、教わりたいと思い、知りたいとも感じる。この五十年程前の映画を入手して観るための環境がようやく整ったのを実感する。買い求めて、その訴えを聞き漏らすまい、見逃すまいと真摯に観賞したのだった。

 随分と遠回りしたが、結論は添付画像を見ての通りだ。若尾文子の顔と石井の描くおんなの顔は写し絵となっていない。顎の線、髪の毛の流れ、唇などに明確な相似は認められない。私の思い違いであった。雑誌編集記者(田宮二郎)の面立ちと女性たちの“その後”を探して歩く展開は石井の『天使のはらわた 名美』(監督田中登 1979)と通底するものがあるし、團伊玖磨の書くタイトル曲に『GONIN』(1995)の劇伴とよく似た旋律を聞くようにも思うが、いずれも幻視幻聴の類いだろう。話はこれでおしまいである。

 何だよ、勘違いかよ。妄想にずるずる付き合わされて迷惑千万な話だよ、とのお怒りはごもっともだ。私にとって石井隆とは、新たなる地平を得るための斜面のような存在になっている。あらゆる事象と石井隆の作品群とを結びながら思案を深める長い旅となっていて、本日打ち明けたように空振りに終わることも実は多々ある。結果はどうあれ、そのようにして登った傾斜の果てに深い知識と物の捉え方がだんだんと育っていき、ほんの僅かながらも成長に繋がっている。

 これは大袈裟でなく実際そうだ。今回の映画にしてもそうで、石井隆がいなければ連想と連結もなく、わたしはこの映画を終ぞ観なかったかもしれない。私の奥に新たな、まばゆい灯火となって揺らめいているのは嬉しいことだ。これからも、元気を出して急斜面を登って行こうと思っている。

(*1):石井作品には絵画の移植も多く見られる。




2012年4月10日火曜日

“見ないこと、見せないこと”




石井の劇に向けてウェブ上で繰り返される寸評に、かならずと言って良いほど現われる括り方がある。曰く、石井隆の作品の主人公は決まって名美と村木という名前(*1)で、最後どちらかが死んでしまう、どうにも救いようのない話ばかり、という表現である。そう言われれば『天使のはらわた 赤い眩暈』(1988)や『ヌードの夜』(1993)といったタイトルが即座に、それも幾つも思い浮かんでしまうから、この括りはややもすれば石井作品の心象を固定化しかねない勢いを持つ。嘘ではないけれど、言葉はひどく足りない。だいたい“救いようのない”と言うところの“救い”とは何だろう。何をもって“救われた”と言うのだろう。

散華する恋人たちの姿は石井作品の花であり、月であり、美酒であろうけれど、その裏側には濡れた土くれがあるのだし、天空には幽かな光を放つ昏い星が潜み、涙のみが希釈し得る濁り酒とて準備されている。“見ること、見られること”の至福の陰で、“見ない、見せない”ことを自らに強いた孤影が輪郭をまざまざと刻んでいくのであって、そこでは誰も最後まで死ななかったりする。死んでしまわないからこそ、どうにも救いようのない様相を呈していて、私のような天邪鬼はどちらかと言えばこの方に惹かれるところがある。石井隆の真価というものは、この暗い局面にこそ宿っているように感じてもいる。

 『天使のはらわた 赤い教室』(監督曾根中生 1979)や『ラブホテル』(監督相米慎二 1985)の流れであり、なるほど映画でいえば数はまばらである。されど、当初石井が青年誌で描いて来た劇画というのはどちらかと言えばこの手の寂然とした作品が多いのであって、全体を通じての水量として見劣りするものでは決してないのだ。傍流というのではなく、むしろ底流というか、無尽蔵の地下水脈とでも呼べるだろうか。前に取り上げたロマンティークな作品群は石井世界という大河にとっては、もしかしたら限られた“上澄み”と呼べる部分かもしれぬ。

劇画の話が通じるひとは限られようから、仔細を縷縷(るる)並べるつもりはない。題名のみを列記するならば【おんなの顔】(1976)や【夜にアイ・ラブ・ユー】(1979)などがその代表格となる。粘つく体液に濡れ浸り、肌をこすって紅々と染めながら真っしぐらに重なり合う身体と身体であるのに、ここでの名美たち、村木たちは真正面から向き合うことを巧妙に避けており、まなざしの交差はご丁寧にも鏡やカメラのファインダー、ブラウン管越しと決めている。まるでゴルゴーンに立ち向かうペルセウスさながらに、とことん“見ない”よう努めているのであって、そこには石井らしい“不自然さ”が際立っている。まぐわう相手が開放されていく様を冷淡に眺めてみたり、はたまた深慮が過ぎて己の真意なり期待を相手に“見せる”機会を逸してしまう。自然と会話はぶつ切れとなるし、相互介入を拒絶してしまうから、煩悶は発熱したまま男なりおんなの内部に湯気立てて幽閉されたままとなる。安らぎもなく穏やかさも生れず、当然ながら救われる瞬間も終ぞめぐり来ない。

私たちの日常にありがちな薄暗がりに、これら作品群はぽつねんと置かれている。閉塞感、手詰まり感が充満し、沈鬱としか言いようがない。恋情なり性愛なりを扱っていながら、夢や希望という言葉とは程遠い膠着ばかりが目に止まり、時折風が吹き荒れては鎌鼬(かまいたち)並のざっくりした切り口を穿っていく。その酷薄さというか、奈落めいた闇穴こそが石井世界という井泉(せいせん)の湧き出す場処になっているように思う。『GONIN』(1995)や『黒の天使 Vol.1』(1998)といった絢爛豪華な美粧にほだされ、もっと活劇を、もっと絵物語をと待ち望んで地上から覗く私たちが目にするのは、水鏡(みずかがみ)に映じた私たち自身の惑い乱れる姿である。黒々としてそら恐ろしく、触れれば身を切るように冷たい。けれど、慣れてくれば肌に馴染んで、むしろ和むものがある。娯楽活劇の演出術も石井は一級の腕前なれど、この等身大で描かれた心理劇は不思議と年を追うごとに水嵩(みずかさ)を増えて見えて、読めども尽きぬ無限の感を抱く。

“見る、見られる”そして“見ない、見せない”という動作のひとつひとつに思い入れるものがどれ程大きく、その為に石井の作劇上の“かたち”がどれ程左右され変形していくかを例示しようとするならば、傑作として世に知られる【水銀灯】(1976)のラストショットを引くのが適当だろう。恋着の終焉に派生してしまう男女の愁嘆場を克明に描いた短編で、舞台は団地に付随した夜の児童公園である。ブランコを揺らす男はおんなの悲壮な“まなざし”に知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいるから、“両者の視線は最初から噛み合わない”。

おんなは準備してきた包丁を取り出すと、矢庭にその光る刃先を自らの腹に突き立てていくのだった。痛みと失血に蒼白な面持ちとなりながら恋醒めを嘆き、男の不人情を責めるのだったが、やがて膝折れ前に傾いで、半身は地面へ向かって一気に崩れる。片手は下着をむずと摑んで引き下ろし、もう一方は包丁の柄の部分を強く握ったままであるから、おんなの体重は右脚の膝小僧とかろうじて大地を踏んだままの左足裏と、今や完全に逆立ちとなった頭頂部の三点のみで支えられている。一見すれば石井フリーズが起きているようにも窺えるコマであるけれど、対する男は恐怖に歪んだ口元を顔に貼り付かせたままブランコを漕ぎ続けているのであるから、この奇怪な三点倒立はしばらく続いたと読み解くのが妥当だろう。

頭を疑われそうだが、この一連の動作を実際に(屋内で普段着による)再現してみた。名美と呼ばれるおんなの体躯と私のそれとはまるで違っているし、体重だって倍も違うように思えるから言い切って良いか分からないけれど、この姿勢を維持することは相当に難しい。リゾートホテルの部屋に据えられバネのよく利くキングサイズのベッドでならまだしも、小石散らばる未舗装面で長々と続けられる恰好ではない。数秒で頭頂部は痛み出し、膝は笑い始める。つまり、このとき瀕死の体にある土屋名美は石井の劇空間らしい“不自然さ”の只中に在るのであって、「ああっ」と表面上はうめくばかりでありながら、実際は私たち読者に向けて盛んに何事かを囁く“多弁な段階”に踏み入っている。

肝をつぶした男はこれまでと打って変わり、惑いや嫌悪の“視線”をおんなに向けて大量に注いでいくのであるが、これに対しておんなは背を丸めて頭を地に付けてしまい、顔面は男のいる側とはすっかり反対向きに転じている。噴いて溢れる鮮血の、長々と糸引き落ちるその量は刻一刻と増えて止まる気配なく、おんなの意識が程なく溶暗するのはもはや避けがたい。眉根から力の抜け落ち、薄っすらと夜陰に染まって見える面に、まぶた二つが逆さまになって並んでいる。この後、おんなは霞んだ半眼となり、白い目を剥き出しにして醜い断末魔の形相を世界に向けたものだったか。

穏やかさをより増して、むしろ美しい顔立ちへと作者によって粧飾されたおんなの顔がそこにはあり、目はしっかりと意識的に閉じられている。男の目線とすれ違うように反対を向き、堅く目を瞑る──。明らかに“見ること、見られること”を拒絶せんとする覚悟や諦観が示されている。

ハイパーリアリズムの騎手と言われた石井隆の劇画は、現実にありそうな背景に現実にいそうな人物を置いていると見られがちだけれど、この【水銀灯】のラストシーケンスが語っているように、あり得ない姿勢や起こし得ない動作、内実を極端に増幅させた表情やまなざし、その逆に隠蔽された面貌なり目線に画面は溢れ返っていて、実は絵画や彫刻にこそ通底している。多重多層の視座が準備されており、見つめれば見つめるだけ爛々(らんらん)と反射して返されるものが多く有るのであって、まったく油断ならない相手と思う。

【水銀灯】の解釈は最終的に読み手それぞれに任せられる。うねって苦しい道程に時折訪れてしまう分岐点、そこでの大人としての心得を石井の【水銀灯】は指南しているように私には見える。未来を憂い、孤絶なることに怯えて人はついつい夢にすがり、優しさに餓(かつ)えて“見る、見られる”相手を探し求めるのだけれど、その恋情なり友愛の終着においては誰もが依存や隷属を立ち切ってひたすら内観を深め、“見ない、見せない”者としておごそかに自立していく──。

驚かされるのは、このような達観した作品を三十そこそこで石井は描いていたという事実であり、それより遥かに高い年齢となってしまった私みたいな輩が再読のたびにしみじみと頷いたりするのは、こちらが相当の晩熟(おくて)であるせいなのか、石井がずば抜けて老成していたのか。よく分からないが、多分そのどちらも当たっている。石井の劇が放つ光は時代を楽々と跨いで、その時代、その時々の迷い人のこころに沁み入り、慰撫する力を発揮しているのは間違いない。

人であれ物(小説や映画、漫画といったもの)であれ、出逢いというものが担う意味なり役割は本当に死ぬ寸前まで分からないということに、ようやく気付いたところだ。これを機会にもう一度、石井の劇画作品を丹念に読み返したいと思う。


(*1):実際は違うように思うのだけど、石井のインタビュウには「スター・システム」を肯定するような発言もあって何とも複雑である。

“見ること、見られること”



 時満ちて三叉路へと至った恋情なり友愛にあって大概の者は、別涙に暮れ、慙悔(ざんかい)にまみれて濡れそぼち、また、足元はすっかり揺らいで膝折ることとなる。

 同じ陽射しに肌を焼き、夜ともなれば月の光を湯浴みするように受け止める。肩並べて銀幕を眺めては微笑み、頁を繰って意見を交わす──そんなささやかな安らぎがことごとく失われ、茫洋とした空隙にすり替わっていく。おのれを軸心にして放射状に広がっていく真空のごとき喪失感は気持ちの不燃を招き、いら立ちばかりが陽炎のように立ち踊る。鈍痛が胃の腑なり胸底なり、さらには四肢にも襲いかかる。時にひどく疼きもして、想いの暴走するさまにたじろぐ。それはやはり物淋しい、遣る瀬ない環境の段差である。当たり前と言えば当たり前の事だけど、幾つになっても岐路に佇むことは骨身に堪える。大なり小なり私たちは消耗する。凡庸な人生を歩んでしまい、それほど経験値の高くない者なら尚更にきついものが訪れる。

 生きるということは、聴く、嗅ぐ、触れる、食べるといった五感を総動員して「記憶」という題名のフィルムをリールに巻く行為に等しい。豊潤なるピアノの音色、体臭や化粧品の脳幹を鞭打つ香り、手のひらを経ておごそかに交感していく体温、繊細さと大胆さを重ねて口腔を圧倒する料理の数々や甘露と砕氷入り乱れて馥郁たるカクテルといったものは克明に記憶され、私たちを延延と捕縛していく。なかでも“見る”という行為が占める割合はとてつもなく巨大であって、隣接する他の官能たちが秘儀や禁じ手を尽くしてもなかなか勝負にならない。“見る、見られる”ことの勢いが減じ、ことによっては断絶に至ることは目を持つ誰しもが避けようのない宿命であろうにしても、そこには幻肢痛に似た腹立たしさ、悔しさが渦巻くものだし、いくら理詰めで事態を捉えようとしてみても、大抵気持ちは治まらない。

 “見る、見られる”ことの愉悦が置き土産とする残像は網膜にいよいよ根張ってしまい、日々の暮らしを浸食していく。面影は狂人の視る白昼夢さながら周囲を浮遊し、そうそう消え去ってはくれない。

 作劇上、“見る、見られる”ことが別離の段で大いに誇張されるのはだから道理であって、わたしたちを取り巻く古今東西の物語空間で組み込まれ、星の数ほども提示されている。石井隆の創造するドラマ群、いわゆる「石井世界」においても例外ではない。ただ、人がひとに想いを馳せる心の旅路の、その終幕を飾る“見る、見られる”は、石井世界においては“不自然さ”を匂わすほどの硬度や純度をもって突出して来るのであって、この事は作品の相観や神髄を語る上で無視できないテーマと思う。

 劇画【天使のはらわた】(1978-79)および【おんなの街 雨のエトランゼ】(1979)の登場以来、細部の変相はあれ“馴染んだ形”が石井世界には有って、多くの作品の終盤を盛り立てている。すなわち、寄る辺なき二つの魂が縁あって出逢ってしまい悶着を重ねて蛇行する。幕引き寸前になってようやく間近から、真正面から互いを“見ること、見られること”を成し遂げ、刹那はげしい昂揚と生の実感を手中にする、という形である。『天使のはらわた 赤い淫画』(監督池田敏春 1981)、【雨の慕情】(1988)、『ガッデム!!』(監督神野太 1991)、『死んでもいい』(1992)、『ヌードの夜』(1993)、『夜がまた来る』(1994)、最近では『花と蛇 パリ/静子』(2005)、『ヌードの夜 愛は惜しみなく奪う』(2010)等がその流れに組みしよう。

 私見ではあるけれど、たとえ数ミリメートルの至近距離にあったにしても、また、瞬きもせずいくら時間をかけて両の瞳を熱心に覗き込んだとて、相手の全てを見取ることなど本当のところ出来はしない。虹彩の妖しさ、美しさのその奥にある望みや歓び、苦渋や哀憐をくまなく読み取ったつもりでいても大概は自己満足に過ぎないし、夢想の域を出ないことが多い。籠にくるまれた鳥のように、造作なく、されど至極大切に抱きかかえることが可能な親密な間柄であっても、向こうもこちらも懐に育むのは広大無辺の内宇宙である。か細く、儚い生き物とその触感に導かれるまま判断するのは早計であって、秘めたる力は存外強く、風を読み、大海を渡る膂力(りょりょく)とて具えるかもしれない。そうそう簡単にひとが人という存在の総体を受け止め切れるものではない。視線をからめただけで理解し得たと感じるのは、慢心というものだ。

 会話の堆積と精神面に喰い込む(制限時間のない拳闘にも似た、一種血みどろの)同居しか真に融合するための方策はないのであって、それの迂回なり敬遠をもって万一恋路(こうじ)に臨めば、束の間の共振なり舞踏は可能であっても“番(つが)うこと”は永劫に困難と思う。もちろんそんな事は石井とて充分に体得しているはずなのだが、生来のサービス精神の発露なのか、ロマンティークな北国生れの血によるのか、それともしたたかなサバイバーとしての戦術の一端なのか判らぬが、先にあげたような全能たる瞬間、“見る、見られる”ことを通じての甘酸っぱい至福の一瞬がわたしたちに向けて絶えず示される。

 さながら“壮大な思い違い”、“絶望的な迂闊さ”とでも呼べるかもしれない(*1)曖昧で不思議なものに導かれ、“見ること、見られること”に酩酊し、互いをもはや分かち難い相手と信じ込んでいく名美たち、村木たちがいる。承知の通り、その時、一方の肉体は銃弾か刃物といった類いでひどく傷付けられており、祈りは届かず事切れて視界は暗転(=フリーズ)、両者の幸福な時間はたちまち霧散していくのだった───恋の焔に束の間の暖を取る者に対し、背後から石井はそっと忍び寄るのである。脳天めがけて弾丸を撃ち込んだり、刃物を振り下ろして暗転(=フリーズ)に至らしめる訳なのだが、この唐突な結末の意味するものは一体全体何だろうと思う。

 紅涙を絞らせ、読み手内部のカタルシスを完遂へと追い込むプロフェッショナルの手管かもしれず、はたまた世間に伝えて憚らぬ生粋のペシミストとしての矜持の顕われかもしれず、想うところは色々である。

 『花と蛇』(2004)、『人が人を愛することのどうしようもなさ』(2007)の劇中で起動し、性差別と暴力にさいなまれた主人公を“緊急避難”させた狂気に倣って考えるのが、今の私にはいちばんと身に添うて心地好いところがある。どうしようもない延焼というものが人生には時折起こる。“石井フリーズ”とは、そんな荒ぶる力に主導権を握られ、まず足をやられ、次に目を曇らせ、闇雲に歩を進めて世間との絆を断ち切り、孤立を深め自壊し溺れ果てていく運命の汀に至った恋人たちに作者から贈られた、もしかしたら“安楽死”に他ならないのではないか。

 これ以上高空へとリフトするのが難しいと判断し、幸せの只中において暗転(=フリーズ)した方がよい、それも神より託された“生きるということ”の貫徹なった姿であろうとの“救いの意志”が働いた、一種の「無理心中」が延々と繰り広げられている可能性を幽かに想う。

 そうあればどれほど良いか、どれほど嬉しかったかと春風に鈍った頭で我が若き日を振り返って考えもする。あの時その時の名美たち、村木たちにすれば作者に討たれて本望であったかもしれぬ、ようやっと救われた、そんな心地だったかもしれぬ。煌々たる満月の夜空に翼広げるものを目で追いながら、そんな埒もない夢想に耽っている。

(*1):そうとばかりも言い切れない出逢いもある。