2015年10月25日日曜日

“誰に似たんだ” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(7)~



(注意 物語の結末に触れています)


 『GONINサーガ』(2015)の製作が発表されたとき、真っ先に連想したのが
黙阿弥や、圓朝の怪談噺「真景累ヶ淵(しんけいかさねがふち)」で、ああ、これは石井隆の本格的な“運命悲劇”になると予感した。親同士の殺し殺されが巡りめぐって芽を吹き、蔦(つた)となってからまり、子供たちを追いつめていく。血脈に囚われし者が漏らす吐息や、傷負い滴って地面を染める鮮血を幻視し、これは確かに石井にしか横断し得ない断崖と感じたし、実際、完成した映画は十九年という歳月をずぶりと貫いて、怨憎や愛慕で溢れ返っていた。

 映画を短時間に限る小旅行と捉えれば、『GONINサーガ』はやや盛り沢山の内容であって、十分に消化し切れず朦朧状態となる観客もいるだろう。けれど、代を跨いだ血の宿命を主題とする場合、茫洋とした趣きの前段となるのが普通だし、固有名詞や過去の事象を蛇のごとく引きずり、夢現(ゆめうつつ)に吐き散らされる台詞の山を経て、ようやく真相に至るものだ。運命とは本当に見通しのきかないもので、一介の駒となって黙々と歩むより他ない。極端な話、血脈や先祖の為した因果について、まるで承知せぬまま退場する役どころさえある。
実際自分たちの日常にしたってそうではないか。四肢にからまる糸というのは煩わしけれど、勝手に断ち切れるものではない。

 テレビジョンの普及によって映画館から奪われたものに、おどろおどろした思念を引き継ぐシリーズものがある。共に市川雷蔵主演によるところの『大菩薩峠』三部作(1960-61)、眠狂四郎(1963-69)なんかを凝視して育った石井隆にとってみれば、『GONINサーガ』の劇空間に派生し錯綜する因果は、紅茶に添えられた砂糖みたいな定番の約束事であっただろう。

 映画という媒体に分かりやすい起承転結や自己完結をつい求めがちな私たちは、実は提供する側が用意した小さな型に押し込められ、記憶する力や推察する能力、粘り腰で思案することの楽しみを奪われているのではなかろうか。石井は映画館の暗闇に息づいていた連続活劇の力と、積極的に記憶や思念を携えて劇場に向かう観客との蜜月を再生する、そんな姿勢で『GONINサーガ』に臨んだのではあるまいか。私たちを縛り付ける映画像を一度解体し、俯瞰して見れば、堂々たる舞台を石井は今回も創ったように思われる。


 前置きが長くなってしまったが、『GONINサーガ』は血脈に関わる運命悲劇であって、それも登場する複数の人間がそれぞれの内なる血に自縛して七転八倒するわけで、ある意味、実に贅沢な話となっている。悲劇の五重奏がそこに在る。


 ここで言う五重奏の“五”は題名から取ったものだが、そもそも五人とは誰を指すのだろう。前作で殺されたヤクザの遺児、久松勇人(東出昌大)と大越大輔(桐谷健太)、事件に巻き込まれて殉職した警官の子供、森澤慶一(柄本佑)、元グラビアアイドルの菊池麻美(土屋アンナ)をまず指折って数えた上で、私たちはそこに元刑事の氷頭要(ひずかなめ 根津甚八)を加えがちだ。映画の宣伝文においても最後の一人として根津を紹介し、この復帰を世間は大々的に取り上げた。


 しかし、血脈に関わる運命悲劇は氷頭の身に潜まない。そこに巣食うのは荒々しくも単調な復讐心でしかない。私たちは別の最後の一人を探し、石井の作為を改めて認識し直し、それを前提にして『GONINサーガ』を俯瞰すべきだろう。映画宣材における立ち位置とネームバリュから言って、私たちは安藤政信が演じる五誠会三代目、式根誠司にもっと目を向けて良いはずなのだ。五人目は氷頭ではなく、間違いなく誠司だ。


 裏社会ながらも血統書付きの出自を与えられた誠司という男は、主人公の遺児二人に対して拳固でもって叩き、足蹴を食らわし、また、元アイドルの人格を認めず、間接的にではあるにせよ刺客を放って警官の息子を深く傷つけている。彼らと対峙する悪の総領として観客に意識付けられるに十分な蛮行を重ねて『GONINサーガ』に君臨するのだけれど、そのような単層で一方的な暴君の役割に留まるのであれば、石井は著名且つ美麗な安藤という役者をこれに当てないのではないか。


 三代目誠司の父親として式根隆誠(テリー伊藤)という二代目会長が登場し、現金を強奪された誠司の失敗を詰(なじ)る場面が挿入されている。その叱責する声と狂った所作を目撃した観客は、誠司という男の持って生まれた境遇に哀れみを覚える。ヤクザ者の家に生まれたばかりに気の毒と思う。忍耐の限度を超えた誠司が着衣を剥ぎ取り、裸となって激昂する様子に演技の巧みさを見て取り、安藤起用の理由を認める人が多かったに違いないのだが、物語の仇役としてならばこの狂った二代目ひとりで間に合いそうではないか。


 石井の原作本(*1)を取り出し、再びこれを書き写しながら考えてみたい。上の場面でパナマ帽の二代目は奇妙な台詞を口にしている。


誠司は泣き顔で土下座しながら、

「許して下さい」
必死に謝っていて、隆誠が呆れて言う。
「誰に似たんだ?その胆力で五誠会が……」(252頁)

「オイ!ここ撃てよ、ここ!殺せ、この野郎!」

誠司が精一杯、怒鳴り返して心臓の辺りを叩く。
それを見た隆誠は口元を緩めながら、
「誰に似たんだ?孫の顔を見るまでは、未だ死ぬ訳にはいかんな」(253頁)

 テリー伊藤の演技を見るだけなら、最初の“誰”は母親を指しそうだし、後ろの“誰”は自分を指すのだろう。家長として強面で振舞う父親が、ほんとうは溺愛する未熟な息子を叱っていく流れで、秘めた愛情を瞳の奥に隠しつつ居るという場面に見えるが、それにしても奇妙過ぎる、心に引っ掛かる台詞ではないか。「誰に似たんだ」と不自然に繰り返して、観客の意識に楔(くさび)を打ち込んでいる。そんな根性無しでどうする、なんだ母親(あいつ)に似たのかと煽り、その後で、やっぱり俺の血だな、と、何故普通には喋れないのか。


 バーズのパーティ会場に設置されたスクリーンの裏側で、襲撃のタイミングを計り待機する子供達に混じり、ヒロイン麻美は自分がかつてどのような経緯で暴力団に捕り込まれたかを説明する。「この写真をマスコミにバラ撒かれたくなかったら、五誠会の跡取りを産めって……。二代目と三代目の情婦になって」(352頁)──この発言と先の妙ちきりんな二代目の言い回しからは、この親子の歪(ひず)みが明らかとならないか。血統書に怪しい影が差さないか。


 麻美が芸能界に飛び込んだ時、既に五誠会には生意気盛りの誠司が肩で風切って歩いていたのであって、それにも関わらず跡取りを産むように強いられるとは一体全体どういう事なのか。金と暴力でいくらでも女性を囲い、妾腹で良ければ何人でも子供を作れそうな二代目に、一人息子の誠司しか見当たらず、それが二十歳ほどにも伸び伸びと育っていながら、跡取りがいないのだ、世継ぎを産めと若いおんなに強要する事は不自然な言動ではないだろうか。


 さらに言えば、そのようにして軟禁状態にされた若い娘が性的に奉仕させる以上の目的、つまり妊娠と出産の為に捕り込まれた事実と、そのような期間を十年以上を経て出産に至らないまま今日に至った事態を透かし見すれば、二代目隆誠、三代目誠司、そして麻美を取り囲む紅蓮の炎の輪郭が露わとなり、身近に迫り来るさまが窺えよう。(*2)


 閨房(けいぼう)で何が展開されていたかを覗く権利を観客は持たないが、不可視領域であればこそ、様ざまな光景も浮かんでくる。隆誠もしくは誠司のどちらかが不能者であった可能性、麻美が流産を繰り返した可能性、誠司が隆誠の実の子供ではない可能性、誠司が旧作に登場した五誠会初代会長(室田日出男)の子供であった可能性──いずれも妄想の域を出ないが、どこに転がっても相当に血生臭い話となる。これが『GONINサーガ』という物語が抱き込んだ地獄だ。テリー伊藤と安藤政信というキャスティングについても、これはかなり露骨に“鬼子(おにご)”である事を提示しているのであって、周到に計算され尽くしたものでなかったか。


 皿に盛られた料理を携帯画像で撮りまくり、食べ散らかした後に欠点ばかりを書き殴る粗暴な趣味がどうした訳か世間でまかり通っているが、同じ調子で石井の劇を扱ってはなるまい。『GONINサーガ』とは、映画製作に長く携わった石井が心血を注いで調理したものだ。高度な料理には削ぎ落とされ、漉され、捨てられていく残渣は多いものであって、それら工程の全容を視野から外して迂闊に喋ることは危険なことと思われるし、何より勿体無い話と思う。


(*1):「GONIN サーガ」 石井隆 KADOKAWA/角川書店 2015 文中の括弧内は引用頁を指す。

(*2):五人組事件から五年が経過した雨の午後、勇人と大輔が病院前の駐車場で再会する。そこでの台詞には、早い段階で麻美という少女の身に異変が起きたことが示されている。「勇人、麻美のファンだったよな?芸能界から消えたけど、未だ三代目……時々二代目の……たまに、見かけるよ。」(126頁)

2015年10月24日土曜日

“根絶やし” ~『GONINサーガ』が奏でるもの(6)~



(注意 物語の結末に触れています)

 『GONINサーガ』(2015)の劇場公開が終盤を迎えたので、劇中の仔細にいくつか触れたいと思う。点在する旧作『GONIN』(1995)や過去作の明らかな反復をことさら大仰に書き散らし、ひとり悦に入るつもりは毛頭ないし、別の媒体を通じて今後『GONINサーガ』と出会うだろう膨大な数の視聴者にも配慮して書き進めるつもりだが、真っ当な感想を綴る上でどうしても飛び込むより道はない。台本の代わりに石井隆による原作小説「GONINサーガ」(*1)を手元に置き、銀幕上での“不可視領域”にも若干踏み込んでいく。

 ルポライター富田(柄本祐)の正体は、“五人組事件”の乱闘に巻き込まれて殉職した警察官の遺児、森澤慶一であった。この森澤だけが十九年前の事件のほぼ全容を知っているのだし、また、遺族の今の苦境や、暴力団“五誠会”の変貌ぶりを把握しているのだった。警察官という立場を活かし、また、生真面目な性格も手伝って徹底して調べ尽くしただろうこの男の言動は、だから最初から重心がきわめて低く、事態が呑み込めずに濁流に喘いで見える他の人物とは当然目方に差があるのだし、私たちも違ったまなざしで観察すべき相手となっている。

 実際、森澤の台詞は断定口調が多く、酒場を訪問して偶然そこに居合わせた大越大輔(桐谷健太)に向かい、いきなり彼の姓名を正しく告げてみせ、状況の解析が怖ろしく徹底している事を銀幕の内外に印象づける。先に挙げた闇金店長の射殺に際しても、組織内での捨て駒に過ぎぬからどこかに埋められて終わりなのだ、と立て板に水の勢いで説明して仲間の動揺を収めている。

 仕事でも人間関係でも、視界の利かぬ場処で頭に血を上らせたまま突き進めば、大概は足を滑らせたり壁にぶつかりして傷が絶えないのが普通であって、そんな最中に口を衝いて出た言葉は大量の本音が含まれ、また、弱音が混じり、吐露するタイミングを完全に誤っていたりして混乱に拍車を掛ける。川の浅瀬でのたうつ弊死寸前の鮭の如き、勇人(東出昌大)や大輔の不様な様子がまさにそれなのだが、詳細な地図や方位磁石を懐中した猟師、森澤の言葉は完全に選ばれたものであり、真意の大部分がまだ腹の奥に秘めたままであるから、端々にはいつも謎が含まれ、怪しむべき裏面がある。

 独特のそんな深度を、石井は最後の幕引きまで森澤という男の造形に負わせている。劇中に散乱する森澤の台詞と行動を一度列記してみれば、そこに心胆を寒からしめる“針路”が浮かんで来るように思うがどうであろう。森澤の目指すものと共に、それは物語を俯瞰し得る石井という作家の目指す方向でもあるだろう。

「このままでは死ねません!二代目とか来るんですよね?奴ら、根絶やしにしないと」(315頁)

「惜しかったですね、五誠会全滅でしたね……ハハハ」  
麻美が来れば、凄い戦力になって、五誠会を全滅出来たのに、惜しかったですね、と若干違ったニュアンスで慶一が言い(330頁)

強い怨念の渦を巻きながら、慶一は自分一人で這ってでも出口を探そうとしていた。とにかく、誠司の結婚披露宴に姿を現す五誠会の二代目とその一派を全滅とはいかないまでも、一矢を報いたいと悲願しながらも、思うように動いてくれない自分の体にジレンマしていた。(337頁)

 石井は森澤の台詞およびト書きに“全滅”といった言葉を編み込み、いかに怨念肥大化し、生々しく顫動(せんどう)する事態に至っているかを告知する。日常ではほとんど聞かれない、使ってもせいぜい雑草相手にしか使えない“根絶やし”という烈しい表現には特に石井の作為がにじみ出て感じられる。仇討ちの対象は通常、加害者を特定して復讐を果たそうとする対個人であるのが、いつしか組織全体、その一派へと移行しているのが実に妖しい。

 そのような妄執の鬼、森澤は、「結婚式で愛人の歌流すなんて、さすがに狂ってますね、親子して」(335頁)という終幕近くの台詞からも分かる通り、十代の早い時期に麻美(土屋アンナ)というおんなが五誠会に捕りこまれ、二代目組長の式根隆誠(テリー伊藤)と三代目の誠司(安藤政信)の双方に愛妾、もしくは性奴隷、もしくは特別な役目をもって夜伽を強いられている者と承知している訳である。

 そこで疑問に思うのは、森澤の目から見た麻美というおんなの立ち位置だ。強制されたとはいえ、半年や一年ではなく、十九年かそれに近しい長い歳月、五誠会の首領に己の肉体を与えてきたおんなという存在は、“五誠会の二代目とその一派”ではないのか。“根絶やし”するべき相手ではないのか。性愛とはそういう、なんとも切り離しにくい癒着ではないか。他者と他者を肉体上連結し、理性や知識を蹂躙する本能の熱でもって溶接する。そのようにして過ごした千の夜を、簡単に無かったことと割り切ることなど誰もできない。

今度こそ大輔に拳銃を渡さなければ、私も殺される!やっとの思いが果たせたのに!と慶一の手から拳銃を捥ぎ取ろうとスクリーンの中に体を伸ばして、必死に必死に踏ん張るが取れない。(375頁)

 そのようにして結局のところ麻美は、明神(竹中直人)の撃った機関銃の弾を背中にもろに受け、血の海の中に沈んでいくのだけれど、森澤の死後硬直が始まって銃を離そうとしなかった指には、どのような思いが籠(こも)っていたものか。麻美が撃たれて鮮血を噴いて後、ようやく顕現する奇蹟の、いかにも遅く、もどかしいような、ずれているような歯がゆいタイミングの悪さは、私には森澤の“根絶やし”という台詞を舞台全体が唱和している事の、成るべくしてなった結果に見える。

 『GONINサーガ』は活劇ではあるけれど、悪夢的な響きがあって、そして妙な例えとは思うが、うつくしい調和に満ちている。落城後に捕らえられた城主の妻子、側室が河原に引き出されて斬首されていく光景を遠目にするような、逃れえぬ運命悲劇の凄絶な美にどこまでも染め上げられていく。

(*1):「GONIN サーガ」 石井隆 KADOKAWA/角川書店 2015 文中の括弧内は原作本の引用頁を指す。


2015年10月22日木曜日

“蝉のはなし”


 インタビュウで石井自身が明言しているから構わないと思うが、『GONIN』(1995)、および『GONINサーガ』(2015)における蝿(はえ)の描写は“魂の転生”に関わっている。小泉八雲が同様の伝承を記録に留めたことは、以前この場に書かせてもらった。(*1)

 このところ幽霊とか、ろくろ首についての書籍を続けざまに読むうちに、実はこういった転生譚が世界には無数にあって、それも彩り豊かなことを知る。高峰博という人の『傳説心理  幽靈とおばけ』(洛陽堂 1919)では、上田秋成「雨月物語」の「夢應(むおう)の鯉魚」を取り上げ、さらには東西の民間伝承、旅行記などをいくつも並べ置いて、霊魂が動物に化身したり、おぼろな火球(“たましい”という呼称は“たまし火”から来ているとのこと)といったものが口や鼻の穴から抜け出て、ゆらゆらと彷徨う様子を伝えている。まとめた文を書き写すとこんな具合だ。

「是の如き霊魂出遊の思想は、上述の通り、各民族に存し、随って、或は蠅、或は土蜂、蛇や蜥蜴、鼬、鼠、蟋蟀、鴉、鯉となり、其の他、セルビア人は妖巫が睡魂の胡蝶化を信じ、乃至、虎となり、大蛇となる話等、実に千差萬別である。」(動物形の魂魄 307頁)

 驚いた、蠅どころではない。トカゲやカラス、いたちやネズミにさえ、人間の魂は転生するものらしい。降雨や水たまり、一陣の風、はためく布地といったものに詩情をこえた妖しい鼓動を見止め、アニミズム色が濃厚な、古代から連綿と続く祝祭空間にでも引き込まれた心地となる場面が石井隆の作品には散見されるのだけれど、こうして地球規模の動物転生の記録とこれに準じた『GONIN』での映像表現を重ね見ると、石井の劇というのは国という枠を軽々と突き破った物であり、つまりは“人間の劇”という思いが湧いてくる。邦画を観ている気がしない、そんな芳醇な香味に酔うのは当然と言えば当然だ。

 転生といえば、以前こんな事があった。親戚が亡くなったとの報せが真夜中に入る。病院は車で数分の距離であったから、直ぐに着替えて駆けつけた。自律呼吸をしてはいたが、意識ないままの療養が随分と長かった。誰もが覚悟していたのだったが、それでも寂然たる思いに包まれる。

 静まり返った建屋の末端に霊安室があって、家族のほとんどは故人の迎え入れの準備に自宅に戻っていた。短い間だけであったが、一切の動きなく横臥する肉体と、その長男、そして私だけが薄暗い小部屋に残った。体温との隙間が分からない、暑くもなく涼しくもない夜だった。風はそよとも動かず、厚みのある闇に満たされていた。

 会話もなく、白い布にすっぽり包まれた身体を見下ろし、其処に居るためだけに居る。微かなまどろみに襲われながら、パイプ椅子に腰掛ける傍らの長男の様子をそっと見遣る。大分前に母親を送りはしたが、必ずしも経験が力となる局面ではない。これから数日間、いや、数年間、家長として様ざまな決断を強いられ、挨拶と打ち合わせに忙殺されるに違いない。誰も替わってはくれず、つくづく重い役回りと思う。

 そんな時だった、開いた窓から不意に蝉(せみ)が飛び込んで来て、寝台の上でせわしく旋回した末に壁沿いに着地した。ジジッと一声、つよく鳴いたのだった。ふたりして驚き、一呼吸した後で「ああ、蝉に生まれ変わったのか」と、潤んだ声を長男は漏らした。

 私はこれに応じず、悲愁に囚われた彼に代わってどうにかしないといけないと考えた。老人の転生した姿が仮に蝉だったとして、一体どうすることが出来ようか。家に連れて帰るのか、一緒に寝起きして過ごすのか。早晩、蝉は息絶えるに決まっているのだ。それは何者の死なのか、それをどう解釈したら良いのか。

 家族が戻って、床にうずくまる虫をめぐって会話が為されるのは場にそぐわないし、そこで意見の衝突が起きるのは見たくなかった。一方が信じ、一方がそれを笑うのは辛い場面だ。逃がさぬようにゆっくりと両手でくるむと、部屋を出て廊下の突き当たりから外に出る。植え込みの松の幹につかまらせようとしたが、ぱたぱたと羽音高く飛び上がり、遠くの街路灯の方角に消えてしまった。

 闇のなかで煌々とそこだけまばゆい霊安室を、きっと太陽と見誤り、蝉は飛び込んで来たに過ぎないのだが、今にして思えばこれを亡き親の転生と信じたひとの胸中がよく分かり、あんなに急いで連れ出すまでもなかったと悔やまれる。そうして思うのは、死という抗いがたい瞬間に、人は魂の存在や生まれ変わりを確かに信じられるのであって、その事は極めてリアルで誠実な、哀しみに包まれた人間のごくごく自然な反射なのだ。

 私があの時に揺らがなかったのは、直系の家族でなく喪失感が浅かったからであって、立場が違えばきっと虫の飛来という偶然に奇蹟を見出し、心身ともに縋(すが)り付いたに違いない。いや、一概にこころの迷いと決め付けるのは乱暴じゃないか、もしかしたら、本当に奇蹟だったのかもしれない。情の薄い、冷血な自分が気付かないだけじゃないか。そんな気持ちに今はなっている。

 『GONIN』および『GONINサーガ』で魂の転生を描いた石井隆は、哀しみを抱き続けている人だと思う。死という抗いがたい運命を考え続け、ぐらぐらと揺れ続けていなければ、ここまで強く魂の存在や生まれ変わりを描き続けられまい。誠実でなければ、ここまで生命の境界にこだわれないだろう。娯楽提供の場において、素の自分、胸の奥の洞窟を斯くも厳然と投影させていく作家は稀有ではなかろうか。

(*1): “蝿のはなし”http://grotta-birds.blogspot.jp/2011/11/blog-post.html