2022年5月28日土曜日

出眠時幻覚


  就寝中の出来事で、今のあれは何だ、まさに亡霊じゃないか、と、そわそわさせられる瞬間がある。私みたいな木偶の坊(でくのぼう)ですら悶え迷うのだから、誰の記憶にだってちらほらと揺らめく影のひとつかふたつ在るだろう

 瞳に焼きついた寝床での出来事のひとつは、何者かの気配をふと感じとり、まぶたを開いていくと枕元に影がぬっくと立っている様子である。あれ、人間だ、と思った刹那、そいつの黒い髪の毛がわさわさわさ、ずっざざざざ、と、もの凄い勢いで伸びてきて自分の顔をもわもわと覆っていく。当然ながら絶叫して跳ね起きる。これまで二度も襲われている。

 「幽霊」とまでは言わない。むしろその逆だ。年齢を一年一年と重ね経るごとに醒(さ)めていく部分があり、どこか空しくもあるけれど、世界の神秘性が急速に衰えている。たとえば、居残った夜の職場で施錠の確認に歩くことも、以前ならば戦々恐々の体であった。黒々と闇に塗りつぶされた隅っこには、不遇な晩年を送った先人が潜んでいて、こちらを凝視しているようにも思われた。ここ数年はいっさい何も感じない。それにしたがい胸の奥に明々と灯っていた焔(ほむら)も照度を落としていき、なんだか総てが色褪せて感じられてならない。

 そんな生乾きの下着か、出涸らしの茶葉みたいな、パリッとしない身であるから、もはや単純に「幽霊」とは思われない。あんなものが魂であるものか。黒髪の化け物は先述のオリヴァー・サックスの「見てしまう人びと」で説かれる「出眠時幻覚」、まさにあれだろう。「たいていは苦痛、ときに恐怖を引き起こす。なぜなら、その幻覚には意図があって、目覚めたばかりの幻覚者を攻撃しようとしているように思えることがあるからだ」と綴っている部分はどんぴしゃりだ。(*1)

 でも、もう一方、別の性格のものがあって、こちらはあきらかに「夢」の景色であるのだが、死んだ係累や音信が途絶えて久しいひとが日常空間に現われ、懐かしい表情や物腰で活き活きと喋ったり微笑んだり、そっと佇んでいたりする景色を目撃してしまう。これも特別なことではなく、誰にでもあるほろ苦い迷路の時間だろう。明らかに古い記憶が短絡(ショート)して、擬似的な現実を見せるありきたりの夢まぼろしである。

 単なる夢と理解してはいても、甘い感傷や淡い期待を禁じ得ない。黄泉の国からの訪問ではないのか、魂が遠路飛翔してわざわざ遊びに寄ってくれたのではないか、と執拗に考えてしまう。彼の人たちは霊体、一種の超次元的存在として目の前に顕現したのだと信じたい気持ちが、ちかちかと眼球の奥に居座って舞い踊る。

 サックスは幻覚と夢を区別する文章のなかで、「夢は瞬間的な像としてではなく出来事として現われ、連続性、一貫性、物語性、テーマがある」と書いている。(*2) なるほどそうだ、幻覚は突飛で脈絡がないが、夢は魂をもった人間を見事に組み上げ、彼らなりの理屈を持って行動して見える。束の間なれども脈をとくとくと打ち、ゆっくり呼吸をして私たちと真向ってくれ、奇妙な声掛けをくれる。その連続性、物語性が証し立てするように、やはりそれ等は夢に違いなく、結局のところは幽霊でも何でもないのだろう。

 でも、ここで不思議だな、と思うのは、日本の幽霊譚においては連続性、一貫性、物語性、テーマが付随していることだ。「牡丹灯籠(ぼたん どうろう)」しかり「皿屋敷(さらやしき)」しかり、日本の幽霊物語で描かれる霊体というのは睡魔に陥りがちな夜に大概が出現し、夢とはげしく交差し、融合して見える。夢は幽霊の住み家であり、とり憑かれるということは夢にもたれ抱きついて揺蕩(たゆと)うことに近しい。

 生きている限りにおいて私たちは、生きた人間、死んだ人間に取り囲まれ、目撃し、出逢い、語らい、別れていく。そうして睡眠障害を患わない限りは夜毎眠りに陥り、そこに懐かしいひとを垣間見るように創られている。連続性、一貫性、物語性にあふれた数限りない幽霊譚をすりこまれた経験から、目撃した夢の内容を無理なく神秘体験と了解していく。幽霊ときわめて似た趣きの「何者か」と向き合い、考えあぐねることをどうしたって繰り返さねばならない。

 「彼ら」に再会することが一抹の救済になったり、その逆に淋しさを煽ったりするけれど、それが私たちに組み込まれた宿命的なプログラムなのだ。「出眠時幻覚」の髪わさわさにはもううんざりだが、夢の断章にて、嬉しい人の再訪があることを期待しながら、夜を朝につないでいきたいように思う。そのようにしてしか、もはや逢えない相手ならば尚更である。夜がただただ待ち遠しい、ただただ恋しい。

 さて、半年近く幻覚や幽霊について綴ってきたが、これは石井隆の世界におけるそれを語る上での枕であった。石井作品中の怪異をめぐって思索することは、この作家と彼の創造世界を語る上で、最も繊細で大切な部分である。まずは私の内部をじっくり横断して、幻覚と幽霊の両体験を振り返り、ちゃんと整理しておく必要があった。

(*1):「見てしまう人びと 幻覚の脳科学」オリヴァー・サックス 著 大田直子 翻訳 早川書房 2014 251頁

(*2):  同 250頁

2022年5月1日日曜日

異常神経


  往事の庶民の暮らし、具体的には花売りの様子について調べねばならず、日曜日の午後を図書館で過ごした。医学書を山と重ねて貪り読んでいる学生や黙々とプリント問題に取り組む高校生などしか見当たらず、子どもや老人の姿がまるで無い。まだまだコロナウイルスへの警戒心は世間からぬけ落ちていない。

 肌寒いものだから陽射しの差し込む窓ぎわと決め、職員に頼んで奥から引っ張り出して来てもらった随筆集を膝に置いてめくっていく。画家の鏑木清方(かぶらききよかた)が晩年になって綴った自叙伝二冊だ。(*1)

 本の内容はあまり参考になる箇所はなく、春の白い陽光に染まっているといつしか眠気が襲ってきて困った。今は福富太郎のコレクションに納まっている、あの「妖魚」の屏風絵の発表時にアーノルド・ベックリン Arnold Böcklinの人魚の模倣ではないかと指摘を受けた件につき、鏑木は言葉を尽くして延延と釈明している。そんなところは彼の気負った声と人柄を感じさせて面白く読んだが、それ以外については今の私にとってはあまり血肉になるところは見当たらなくて、いよいよ眠くなるばかりだった。目的は果たせず、空振りに終わったなと感じる。

 おや、月岡芳年(つきおかよしとし)について書いている、と気付いて、そこの部分では頁をくる速度をゆるめて読んでみる。1839年(天保十年)生まれの芳年と1878年(明治十一年)生まれの清方は親子程も年齢差があるが、清方の父親が新聞を出版する文化人であったことから芳年の方がよく家に来ていたのだ。つまり、幼少時分から面識があるのだった。やがて清方が芳年の弟子に師事することから、孫弟子として芳年とは精神的な結びつきがいよいよ強くなる。

 エピソードなり感懐の言葉のいちいちが興味深かったが、とりわけ幽霊画製作の裏話を明確に記していることに心地好い衝撃を覚えた。「こしかたの記」が上梓されたのは1961年(昭和三十六年)であり、清方はそれから十年ほど長く生きはしたけれど、八十歳を越えた自身が晩節に至ったことを意識しないはずはなく、ならば内容については正確さを求め、文中に後世に混乱を生む種子を埋めることだけは慎重に避けたに違いないのだが、ここで清方は大師匠たる芳年が幽霊を目撃して写し描いたと明言してはばからない。

 世間につとに知られた話ではある。編集者だった本多嘯月(しょうげつ)が芳年没後二十年近く経った1910年(明治四十三年)に雑誌『新小説』で紹介している内容(*2)を、清方なりに反芻して再度世間に伝えているように読めなくはない。

 「先生の師匠芳年は、私が畫道(がどう)に入った翌二十五年に、まだ五十四歳の、畫家(がか)には最も盛りの年頃に精神病で亡くなつた。世間では慢心からだと云つたが、その製作のあとを見れば異常神経がよく窺へる。幽霊を屢屢(しばしば)實在(じつざい)に見たと人に話したさうで、圓朝(えんちょう)の舊蔵(きゅうぞう)であった、「幽靈百幅」の中にある、梯子段の途中でうしろを振り向く女郎の幽靈は寫生(しゃせい)に依ると傳へられる。」(*3)

 「話したさう」「と傳へられる」という言葉尻からすれば、芳年自身の生々しい告白を清方は聞いていないことが判る。それにしても死の到来を意識し、自作を誰かの真似と謗(そし)られることを許せずに縷縷(るる)説明を重ねる老画家鏑木清方(かぶらききよかた)が自叙伝に記していることには眩暈さえ覚えた。つまり、清方は幽霊の目撃譚につき、あの大師匠月岡芳年ならば見たかもしれない、むべなるかな、と捉えているのだ。さらには、「製作」に臨む絵描きの魂と「異常神経」はよく馴染み、ふたつが手を組み合って創作へと突き進むことは時に自然であって、そのような逸話が大師匠芳年の名誉をまったく傷付けないと信じて見える。

 最近出された月岡芳年論の労作、菅原真弓 著「月岡芳年伝 幕末明治のはざまに」のなかでは、明治という時代は文明科学の一気に流入浸透した時期であった、幽霊というものが神経衰弱に由来する幻覚、錯覚のたぐいであると認識し直す動きがたいへん顕著であったから、芳年自身の内部にも神秘主義的な柱は徐々にすたれていったのではないか、次第次第に跳梁跋扈する妖怪や幽霊を描かなくなっている、と解読している。(*4)

 「鬱憂狂」という彼の病歴にしても菅原は世間が考えるほど重くなかったと推察していて、彼の生の道程は一般的なものであったと考えている。確かに狂っていて、あそこまで精緻な絵を描き続けられるとは思えない。おそらく、幽霊は芳年の周りに出没しなかったのだろう。つまり芳年は「幻覚」を見てしまったのだ。

 しかし、それにしても、と思う。幽霊を見てしまう、幽霊を描いてしまう、そして、それら特殊な絵画を観て、その由来を聞いて数多くの人が溜め息をつき、時には涙さえ流していく事の不思議は何だろうか。時代の進歩では振り落とせない強烈なイメージが私たちには巣食っている。幻視、異常精神を通じて到達する魂の領域というのがきっと在る、そんな認識が世界を横断している。エーテルのように透明無臭で絶えず人間にまとわりつき、文明科学の理屈では到底追い払えないのだ。そうして幽霊と呼ばれる幻覚は一生の折々に深く、激しく、切々と作用してくる。

 我々は揃いも揃って「異常神経持ち」なのではないか。そのことの再確認に至ってしまい、なんだか怖いような、暗い動揺が押し寄せてくる。


(*1): 鏑木清方「こしかたの記」1961、「續こしかたの記」1967

(*2):「月岡芳年 妖怪百物語」日野原健司 、渡邉晃、太田記念美術館監修青幻舎2017 86

(*3):「こしかたの記」 鏑木清方 中央公論美術出版 再版1963 123頁

(*4):「月岡芳年伝 幕末明治のはざまに」 菅原真弓 中央公論美術出版 2018 113-114頁