それは無いなあ、と言下に否定されてしまい、すがすがしささえ覚えた。その人は山を愛しており、年間を通じて登攀やロッククライミングに没頭している。
彼がよく通うという絶壁まで物見遊山したことがあるが、車道からかなり奥まった処にあって、低地とはいえ尾根伝いに細道を歩かされて難渋した。人里から離れてそんな山ふところに入ることなど自分の生活にはほとんどなく、案の定、道に迷ってべそをかきながら行きつ戻りし、軽率にも平底の靴で登ったせいで足を滑らせ、あげく不安定な石がはずみでごろごろ転がって来て我が背中を叩くなど実に散々であった。
あの数倍の距離をさらに分け入って深山幽谷を果敢に歩きまわる彼ならば、「何か」を見たり、聞いたり、触れたりする時間、すなわち山の怪(かい)に遭遇することも時折あったのじゃないか、そのように尋ねたのだけど、出会った記憶は無いとあっさり返された次第である。
鬱蒼とした林に踏み込んでいくと、私などはたちまち背筋がぞぞぞっと寒くなる。中岡俊哉(なかおかとしや)の心霊本とか南山宏(みなみやまひろし)の宇宙人の本を子供のころに読み過ぎたせいで、独りでいると背後に誰か立っているように感じられてならないし、樹木の陰から銀色の服を着た化け物が飛び出して来るような気がする。修験道とかで何十日も山に籠っているうちに神秘体験をするというじゃないか、君にだってこれまで全然ないという事はないだろう、探せばきっと何かあるのじゃないのか、と、しつこく喰い下がった。天狗とか、山女(やまおんな)とか、不思議な話をあれこれ聞くじゃないか。
それはさ、自分たちは「ぎりぎり」まで行かないからだよ。生死の境まで行くのが修験道だろうけど、そういう「ぎりぎり」にならないように計画を立て、無理をしないで山に遊ぶことが登山の理想だし務めだよ。奇怪なものを見たり聞いたりするのは、最初から行程に無理があったり、体力に見合った山を選ばないからだな。
物静かな口調でそのように説かれると、確かにそういう感じもしてくる。達人の言葉というのは説得力がまるでちがう。実際の野山には怪奇現象など皆無なのかもしれない。
与太話に翻弄されて幼稚なことを口走ってばかりいる友人を哀れみ、しょうがないから付き合ってあげるといった風情で彼は話を続けた。そういえば一度だけあったよ、幅1メートルもないような狭い尾根を登っている最中に濃厚な霧に出くわした。もう牛乳の中を泳ぐような具合で、足元も何も見えないんだ。さすがにこれは足を踏み外して転落するのじゃないか、と慄(おのの)くぐらいの濃い霧だったな。
それから数年後に別な山を登っているときに同じような濃霧に遭った。その時、時間と空間の感覚が飛んでしまって、自分が何処にいるか皆目分からなくなったんだ。数年前のあの険しい尾根で立ちすくんだ時のように思えて、意識があの瞬間に完全に舞い戻ってしまった。今日此処に至った道中の記憶がきれいさっぱり失われて、数年前の自分になっていた。幻覚とか幻聴ではないけれど、あれは不思議な感覚ではあったなあ、と彼はやさしく微笑んで、今夜何杯目かになるココアを口に運んだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿