混沌とした世相もあってだろう、高速道は思いのほか車が少なかった。日曜日の、陽射しと蒼空に恵まれた海水浴場を訪れたのだったが、着いてみればこれが淋しいぐらいに静かである。腹まわりに無駄な肉を蓄えてもはや人前に晒せる裸体ではないから、海水に浸かるつもりは毛頭なく、ただ水平線に広がる夕焼けを味わいに来ただけの海岸であったのだけど、拍子抜けするほど閑散とした砂浜を見るとなんだか世紀末めいた苦い味わいがある。
夕暮れを待ちつつ所在なげに座り込んでお喋りをする人たちの邪魔をしないように気を遣いながら、近くに浮んで見える小島とを結ぶコンクリート製の桟橋を渡ってみる。目的など無かったが、まだ太陽は水平線から離れていて一刻ほどの余裕があった。遠浅の海の、コンクリート護岸から8メートル程も離れたところに小さな岩礁があり、そこに海猫が群れなしている様子が認められた。時折放たれる鳴き声に誘われ、いつしか鳥をめぐる夢想に引き戻された。
周囲400mほどの小さな島にはお社があり、こんもりとした山の頂上には急な階段が伸びていたけれど、海風に吹かれていても真夏には違いなく、体力に自信のない自分は島を取り囲む周回道路を歩くのが精一杯である。こんなにも汗を噴かせる灼熱のなかでも、焼けて黒い顔をした太公望が沖に向かい棹を掲げていて感心させられる。
ピーピーという声が連続して聞こえ、目をやれば、人間なら子供ひとりがようやく立っていられるような小さな岩が海面から顔を覗かせていて、そこに海猫の親子が向き合っていた。かなり育ってはいるが、茶色の羽で覆われた雛が親にしきりに餌をねだっているところだった。親の方は困った子だね、もう今日はお終いだよ、という顔付きで首を上げ下げしてみえる。情愛を感じさせて愉しい景色だった。
浜辺に戻り、浸食防止で段状に組まれた石垣に腰を掛け、徐々に赤味を増していく空を眺めながら、彼ら鳥たちにも喜怒哀楽が宿り、私たちのような複雑な想いがその肺腑を満たしているのだろうかと改めて考え始める。当然そういうものは在るように思われる。ただ、それが我々人間に対してはどうであろうか。
誰かパンくずでも投げはしないかと期待するのだろう、同じように日の入りをぼんやりと待つ人たちを縫うようにして、一羽の海猫の成鳥が先ほどからそぞろ歩いて視界をかすめる。いよいよ此方へと近づき、すぐ目の前をのそのそと横切って行く彼なのか彼女なのか分からない海猫の、白く細いその横顔を観察した。
ガラス玉をはめ込んだような目がこちらを向いているのだが、そこに我々への好奇心は露ほども宿って見えず、徹底して冷ややかな狩猟者の瞳があるだけだった。我々と意思疎通しようなんて最初から思わず、腹の足しになる物を機械的に探し続けている。
あいにく空と海の境には雲が這っており、太陽は輪郭をおぼろにしてその周辺をまだら模様の虹色に染めるばかりであったが、その緑やら橙(だいだい)やらを妖しげに帯びた西の空を揃って石仏のごとく固まって動かなくなってしまった老若男女の人間の様子に愛想を尽かした海猫は、さっさっさっと羽ばたいて何処かに飛んで行ってしまった。
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