2019年3月4日月曜日

“上の方、胸のあたりに引っ掛かる” ~歓喜に近い愉悦~(2)


 いきなり結論めいた言い振りになるが、石井隆が劇中に登用する“小水”をめぐる描写は俗に言う「好色」とは一線を画す存在だ。古代の蛇神さながら妖しくくねって床を這い、時にはげしく地上を叩く。提示の仕方は作為的で、良い意味合いで奇妙さが感じ取れる。あの黄味がかった液体に一体どんな想いが託されているのか、と、読み手の思考は縛られ延々と引きずられる。私たちにむかい乱反射して、何事かを無音で囁いている。

 いや、そんなに理屈っぽくないよ、ぐっと来て芯が疼いて仕方ないと返す御仁もおられるだろう。性的嗜好は人それぞれであるから、この手の話はどうしても焦点がぼやける。あくまでも勝手な私見である旨、先に断わっておくべきか。

 異論百出とは思われるが、そもそも小水というモノは好色さ、猥雑さと連結させる物象だろうか。生活のあちらこちらに頻出するが、それ自体には粘性もなく中途半端に生温かいだけで、いくら目を凝らしてみても表情が乏しい。房事に没入していく時間のなかで、必ずしも毎回決まって出現するとは限らないのだし、あっと言う間に寝具に染み入り、はたまた下水口や草むらの奥に消え去ってしまう。どちらかと言えば実に素っ気ない存在と感じる。

 だいたいにして当初から寝屋には出現しにくい性格じゃないか。生物学上いちおう男であるから我が身体に沿って正直に綴れば、陽根をふくめた下腹部の構造から、愛の時間において小水はたちまち脇に追いやられるのが普通である。歓喜の昂まりと共に一部の器官の充血と変形が起きるが、それにより経路はあっさり遮断され、膀胱という奥座敷にしばし軟禁を強いられる。数分間、極めて稀にだけど数時間に渡って一本しかない道を血気盛んな他の体液に譲らざるを得ない。

 幼年時や泥酔時の夢うつつの中では、もしかしたら淫夢に誘われての失禁もあるやもしれないし、怪我や手術での入院時に挿されるカテーテルでのやるせない排出に際しては、貧弱な枕にのせた頭の奥でこっそりと桃色遊戯の空想にいそしんでいるかもしれない。性愛と小水がだから完全に別世界の者同士とは思わないが、通常は距離を置いた別次元の間柄だ。

 私たちを慰め、生きている実感を呼び醒ます性愛の刻(とき)。形づくるパズルの重要な一片として小水を捉える人は、おそらく世間にそう多くは居ない。本人に確認した訳ではないけれど、石井隆も感じるところは同様ではなかったろうか。単行本未収録である【初めての夜】(1976)という作品があるが、これなどを読むと石井の感覚が私たち読者とさほど違っていないことが読み取れる。遊びらしい遊びをした事がない堅物男が初めて為すささやかな冒険の顛末を、淡淡と浮遊的に描いてみせた小篇だった。

 愚直な勤め人が同僚の与太話に背中を押され、過激なサービスを売り物とする場末のキャバレーを訪れる。憂いある横顔のホステスに惹かれていくのだが、そのおんなは客から小水を掛けられてみたり、自分のそれを目撃させる事をいっさい厭わないのだった。トイレの暗がりでそんな様子を垣間見た男はたちまち嘔吐し、転がるようにして店を出る。既に真夜中となって終電を逃しており、男は酔いにまかせて暗い歩道をしばしさ迷うのだったが、その面前に仕事を終えたばかりのあのおんなが所在無げに佇むのに出くわしてしまう。ふたりは神社の境内に足を延ばし、其処で身体を合わるべく努めるのだけれど、おんなの腰回りにしがみついた小水の痕はさかんに成分の分解を始めており、むらむらとアンモニア臭を放って来るのだった。男は思わず目をつぶり、顔をそむけてしまう。

 性愛小水とが容易に交じり合えないこと、そのすこぶる感覚的な断裂を石井はごく自然な形で【初めての夜】にて吐露しており、私たちの抱える一般的なおののきや戸惑いと自分が持っているのはそう大差無いのだと教えている。白い陶器に向けて描かれる放物線やめらめらと照り光る床溜まりの光景は、激情をもたらし、色欲を膨らませる役どころというよりも、もっと上の方の胸のあたりなり、さらにずっと上の目蓋の端に引っ掛かり、ようやくして発熱と放散を繰り返しながらさまざまに気持ちを揺らしていく。それが石井隆の小水の基本像となっている。

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